メディアとしてのマスク

2021年4月5日

コロナ禍の中で、マスクはメディアである。
 
ある精神医療関係の文章の中で、おっ、と思い、またその説明に、まことに共感したものである。というのは、ふだん私が考えてそう捉えている、そのものだったからである。
 
メディア。mediaという言葉により、私たちは、情報伝達手段、とくにマスコミを思い浮かべる。それはmediumの複数形である(だから英語で用いるときにはこれは複数形扱いをするべきなのだという)。こちらは「ミディアム」だから、ステーキ肉の焼き方でもおなじみであろう。
 
元来の言葉の意味は、このステーキ肉のことでも分かるように、「中間」ということである。LargeとSmallの中間の大きさはMediumサイズであるという。そこで情報関係になると、中間にあるものとして、「媒体」を表し、「媒介」になるものを指すように捉えられたのである。
 
これは広く「伝達手段」の概念を表すと考えてよいものである。だから、「マスクはメディアである」というのは、「マスク」が、何かある情報を伝達する手段である、ということを意味するものと理解できる。それが、まさに私がふだん意識していたことなのであり、皆さまもそうお考えになったことがあるのではないかと思う。
 
マスクは、確かに感染予防と感染拡大について意味があるだろう。自分が感染しないため、また自分から他人に移すことを避けるためだ。そもそもコロナ禍以前から、私は冬季には外でマスクをかけていることが多かった。それはおもに前者の目的であったが、喉の感想を防ぐためでもあった。
 
すると、マスクをつけていることで、そのマスクは、当人が感染を避けている、または拡げないという意志を伝えているというのだろうか。それならあまりに当たり前である。しかし、マスクは感染のために万能であるわけではないのだから、必ずしも感染しないことを伝えているわけではない。そして、つけている当人も、これで安心だと安心しきっているわけではない。伝わるものも、伝えるほうも、感染封じの意識はない。
 
ではマスクは何の情報を伝達しているのか。「私は善き市民です」をアピールしているのである。安易に感染しないようにしていますよ、あなたに感染させないように気をつけていますよ、その意志を見事に伝えている。但し、それは「私だけが特別です」という情報を伝えるものではない。「多くの人と同じように」という環境の中でなされている。こうして、「みんなで渡れば怖くない」ではないが、皆が共通の絆の中で、今日もマスクを着けている。
 
もちろん、感染すると生命に危険が生じる人はたくさんいる。マスクは我が身を護るという意識が殆どだという人もいるだろう。危険な人が身近にいるゆえに、感染させないためだという意識が殆どだという人もいるはずだ。万人が、「善き市民」を伝えようとしているわけではない。このようにして、様々な思惑の中で、社会全体が、マスクを着けるという姿をとっているのだろう。現実に、それでよいのだと思う。
 
他方、裏の論理も考えられる。「マスクを着けないというあり方におけるそのメディア性」を問うこともできよう。これにはもう少し多彩なバリエーションがありそうである。考えてみては如何だろうか。



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