はたらく細胞

2021年3月28日

先日、第二シリーズが放映終了。これに合わせて新しく放映された「はたらく細胞BLACK」も第一シリーズが終了した。類似のものが夜中の1:30頃から続けて放送され続けていたというのが画期的である気がした。
 
人間の体内の細胞をそれぞれ擬人化して、体内で起きている反応や日常のはたらきを描くアニメーションであり、元は清水茜という1994年生まれの若い漫画家によるコミックスである。
 
これが実によくできている。作者自身は医療関係の知識を特別持ち合わせていたわけではないが、よく調べて作成されており、医療関係者からもよくできていると認められているという。各細胞のはたらきや性格が見事に擬人化され、ストーリーに活かされているし、まず人間の細胞の数からしても、しばしば学習上で60兆と言われ、多くの人がそう覚えているかと思うが、それはすでに古い説にすぎず、アニメーションでは近年の説が用いられている。
 
もちろん、これは学習漫画ではないので、コミカルな部分も含めてストーリーにこそ魅力があると言ってよいだろう。キャラクターが細胞なので、そのはたらきを正確に盛り込んでいくというため、勝手なストーリーは作れないわけで、それぞれのキャラの特性を表現した話を構成するというところに、作者の手腕が発揮されている。ご存じない方は、どれか1話でも見てくだされば、その凄さが分かると思う。
 
「はたらく細胞」は、一応赤血球の女の子が主人公と言えようか。あるいは好中球(白血球)の男性と共に中心と見てもよいだろうか。赤血球は身体各部へ酸素を運び、二酸化炭素を受けて肺に戻ることを日常とする。好中球は体外からの侵入者を駆除する。血なまぐさい表現が嫌いな私(だから「鬼滅の刃」も深夜放送のときちらりとしか見なかったの)だが、「はたらく細胞」で好中球が敵を斬殺するのは小気味良く見ていた。これは自分の体内で行われていることだからだ。
 
彼らは日夜はたらき続ける。その目的は「この世界を守るため」である。そして「この世界」はどうなっているんだ、と異変に驚き、敵と戦う。
 
もちろん「この世界」とは、人間の体である。私の体の中で、日夜こんなことがなされており、それぞれの細胞がこんなに頑張っているのだということを知るにつれ、彼らが愛おしくなるから不思議だ。「この世界」がどんな人間なのかについても全く伏せられているし想定されないようにつくられているために、誰もが自分自身のことなのだというような気持ちになれるという、うまい設定がなされている。
 
さらに、物語を視聴していて、幾度涙したことだろう。切ない気持ちにさせられる。だがそれは、何か犠牲物語によるものではない。「はたらく細胞」はキャラクターが死ぬというような設定はなされていない。純粋に物語として、感動を呼ぶのだ。皆が、「この世界」のために健気にはたらき続ける。それぞれが、ベストを尽くし、自分の役割を果たしている。そして共通の敵に対処して、とにかく「この世界」のためにはたらくのだ。
 
今回放映された「はたらく細胞BLACK」は、清水茜の監修の下に、他の作者がスピンオフとして作った作品である。驚くことに、この方法で、女性版や赤ちゃん版など、実に多くのスピンオフが世に出ており、それぞれ同様によくできている。その中で、この「BLACK」は少し雰囲気が異なる。「はたらく」ことと「BLACK」とがつながると容易に想像できるように、彼らのはたらきは「ブラック企業」をモデルとしている。俺たちは何のために働いているんだ、とふてくされつつ働く連中が多いが、主人公の赤血球の男の子は、真面目にはたらこうとする。しかし、この作品は彼の親友が途中で死に、そのため彼ははたらくことがもう嫌になる。そして彼らがいる「世界」なる人物は、これは不摂生な生活を窮める男性であり、ついには心臓が止まるところに行き着く。第一シリーズの最後では、心臓マッサージとAEDとで蘇生するあたりで終わる。
 
さて、アニメの宣伝をしているかのようなここまでの話にお付き合い下さり、感謝する次第だが、私の書くことに触れ慣れている方にはもうお分かりのことだろうと思う。言いたいことは別のことだ。
 
「この世界」とは何か。その中で一人ひとりが、自分の持ち味を活かして真面目に働く。世界に貢献する仕事を続ける。それは一人としての働きとしては微々たるものかもしれない。だが、自分の持ち分を精一杯生きていく。この世界における私たちの生き方に目を向けさせるものではないか。これが一つである。
 
もう一つは、キリストを信じる者たちが、「キリストの体」であるという聖書の語っていることである。それは「教会」としてのはたらきであると考えてもよい。そのとき、「この世界」は、この現実世界でもあると共に、「神の国」でもあるはずだ。「神の国」のために、キリストにある一人ひとりが、あるいは教会が、それぞれの役割を活かして精一杯はたらくというありかたを、改めて深く思わされるのである。
 
またほかで詳しく語らなければならないのであるが、えてして、これができていないものだと私は嘆きたいことがある。自分としてそれが情けないと感じたときに、とりあえず録画した「はたらく細胞」をまた見て、元気をもらうことにしようと思っている。



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