どうすれば「よい」のか

2021年3月26日

ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2:17)
 
主なる神は、最初に創造した人に向かってこのように命じた。やがてこれを破った人は、楽園から追放されることになる。
 
善悪。私たちはこれをその都度判断しなければ生活していけない。これはしてよいことか。こうしたほうがよい。この「よい」には様々なアスペクトがある。まさに神の前に許されるのか、ということもあるが、たいていは、それが効果的か、目的を達成するために役立つか、というレベルで判断するものだろう。法律的な考えもあるだろうし、たとえ法律でそう決まっていても、それを破るほうが当たり前だ、という場合もあるだろう。道路の速度制限に忠実に従うと、流れを阻害することがあり、こうなると運転者が「みんなで破れば怖くない」という精神で、当たり前のように破っているというふうに観ガルこともできよう。
 
善なるものを選択する。それが正義だと思う人が多い。善と正義とを結びつけることにより、正義論あるいは倫理というものは様々に変化する。原理原則が最初からあるのだ、という考えも成り立つだろうし、功利的なものこそなすべきことだと理解することもあろう。同じ功利でも、できるだけ多くの人が望むことを採用しようとか、個人の尊厳を尊重すべきだとか、何を「よい」とするかの理解は、際限なく細かく分かれてしまうことになり、それぞれに倫理が説かれていくことになる。
 
あげく、哲学とは畢竟「よく生きること」なのだ、とソクラテスの原則を掲げるようになると、この抽象的な言い方に安易に逆らえないという事態にもなり、私たちは一人ひとりまた「よい」ことを探し求め、また社会制度が「よい」ものになっていない、と不満を漏らす。いやはや、政治というものはこの「よい」ことをもたらそうとするものであるし、また人々はそれを期待するものだから、実に厄介である。
 
善悪の判断を問うために、トロッコ問題というものがある。いろいろなバリエーションがあるが、たとえばこんな具合である。制御の利かないトロッコに遭遇した。コントロールできるのは自分しかいない。見える先で線路が二つに分かれている。どちらの先にも人が見える。片や1人、もう片方には5人の作業員だ。ならばこの1人に犠牲になってもらい、5人を救うべきだろうか。それが正しいのだろうか、と。
 
思考実験であるが、もちろん唯一の解答があるわけではない。思い起こすのは、三浦綾子さんによる『塩狩峠』の物語である。自らの体を擲ってトロッコならぬ客車を止めた鉄道職員を描いた。トロッコ問題には普通この選択は現れない。また、トロッコを脱線させるという解決があるという見解も、技術的な方面から見られることもある。
 
しかし、問題はそういうことではない。「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という課題であるのだ。善悪の判断の問題であるのだが、しかしこの場合において、悠長に検討する「時間」がないということに、案外私たちは気づいていない。そう、各種の倫理において、案外気にしていないのが、この「時間」である。
 
じっくり検討していく時間があるならば、様々なケースをシミュレーションすることもできよう。しかし、事が緊急を要するものであれば、瞬時に判断しなければならない。そして私たちは、しばしばこの瞬時の判断を求められているという現状がある。そのときに選んだことを、じっくり考えることのできる立場の者が安易に非難して「よい」のかどうか、というメタレベルでの善悪を考える必要があるのではないか、と思うのだ。
 
東日本大震災のこともたとえば思う。亡くなった方や関係者にはいくらか不愉快なふうに聞こえるかもしれないがご容赦願いたい。人の命を悼み悲しむ気持ちを懐きつつも、事柄そのものに少しばかり目を向けるためである。あの津波の危険の際には、まず逃げる。それが言い伝えであった。しかしあの小学校では、何をどう判断したかは問わないが、ゆっくり様子を見ることを選んだ。結果的にそれは完全に間違いだったと非難されなければならない事態となったのだが、あの瞬時にいろいろ考えて判断するということに追い詰められた時に、人間がどのように判断するのか、それは迫り来る「時間」の中で問われなければならないことだっただろう。福島の原発事故においてもそうだ。速やかに判断しなければならない中で、政治的判断があれでよかったのかどうか、それは後からじっくり見るならばいろいろとものが言えるのであるが、「時間」との闘いがあったのは確かである。
 
もちろん、新型コロナウイルスの感染拡大の中での政治的判断もそうだろう。今にして思えばつまらない判断をしてくれたというケースもあるわけだが、事態の分からない中で、「時間」をゆっくりとることのできない中で、政治家は大きな決定をしなければならないわけである。その意味では同情する。私たちが個人で判断ミスをするというレベルのものではないわけだ。そして政治家や政府は、その判断の適切さを後から審査されることになるので、厳しいと言えば厳しいのである。
 
個人でも、この時間的制約があるときに善悪の判断を迫られるということは、多々あるはずである。結果的に正しくないこともたくさんある。失敗がある。その失敗を重ねていく中で、少しでも失敗の少ないことが選択できるように、「学習」するしかないのだろうか。あるいは、自分の中に一定の「原則」をもっておき、できるだけそれに見合うように決めておくべきなのだろうか。
 
私たち人間は、善悪を考える存在となってしまった。せめて、自分が絶対的に「正しい」とか「よい」とかいう根拠のない信念だけでも、避けられたら「よい」としておくくらいでいたい、とも思う。それにしても、どうすれば「よい」のだろうか。



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