【メッセージ】ひとりにさせない
2021年3月21日
(マタイ26:36-46)
立て、行こう。見よ、(マタイ26:46)
新約聖書で「ゲッセマネの園の祈り」とくれば、名場面のひとつです。多くの画家が描いており、「聖画」として部屋に飾っている人もいることでしょう。敬虔な思いにさせられます。十字架に架けられる直前に、苦しみもだえるイエスの姿、それは、人の心を揺さぶるものを醸し出しています。
ここからしばしば語られることは、逃れられないような運命、あるいは自分には背負いきれないような苦難が待ち受けているときの私たちの態度です。できることならそれを回避できるように、と祈ります。そう祈ってよいのです。けれども、ただ安全を求めることだけが祈りではありません。もしもその苦難が神のみこころであるならば、神の思いのままになさってください、と委ねることが、信仰の最高の姿ではないか。そのように、説教がなされます。まことに立派な、敬虔な態度であり、大いに学ばなければなりません。
しかし、さあ私たちもこのように祈りましょう、という勧めをすることが、この聖書の箇所が書かれた決定的な理由となるでしょうか。ここからは、もうそれだけしか感じることができないのでしょうか。
私たちはこの場面から、あまりにも、このイエスの祈りにばかり目を奪われていなかったでしょうか。私たちはイエスと同じではなく、ただの人間に過ぎないのに、イエスの心境と同じになれという勧めしか、語れないのでしょうか。
あるいは逆に、こんな冷静な人もいます。ゲッセマネの園での祈りを、誰が聞いていたのか、と。つまり、弟子たちは呆れるほどに眠りこけていたとここには書かれています。それなのに、イエスが祈っている言葉が記録されている。そんなことができるはずがない、と疑い、聖書の記事の事実性に疑問を呈するのです。このときルカの説明によれば、イエスは弟子たちから「石を投げて届くほどの所に離れ」(ルカ22:41)て行ったと言いますから、益々その言葉の端々を聞き取るということは難しくなるでしょう。明らかにこれは教団による創作記事だ、と結論づけるわけです。
そうでしょうか。だからこれは無意味だ、と言わんばかりでよいのでしょうか。まるで、このイエスの祈りは嘘だから、ここから学ぶことは何もない、と自分が困難回避をすることを正当化するために、けちをつけるような態度をとるならば、それはとても気の毒なことのように私には思えます。
イエスの切実な祈りは、ふたつここに書かれています。このイエスの祈りだけを、改めてここに並べてみましょう。
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
三度目は言葉としては掲載されていませんが、同じ言葉であると言いますから、記者は上の二つの言葉を、同じものだと捉えているのだと言ってよいかと思います。小さな表現の差異を突く必要は、たぶんないでしょう。
基本的に同じことを、三度繰り返し祈った。「三度」というと、この後イエスが捕らえられたときに、ペトロが仲間かと指摘されたときにイエスを三度否むという記事があります。いまはご紹介しませんが、三度繰り返すというのは、聖書が念入りにこのことを伝えようとしている構えを感じます。ヨハネによる福音書で、復活のイエスがペトロに三度「愛するか」と迫ったことも思い起こします。
ここでも、イエスは三度同じように祈ったと言います。だから、この祈りは大切なのです。そして、私たちはこのイエスの祈りに注目するのです。私たちは、どう受け止めるとよいのでしょうか。
イエスのように、信仰深く困難に立ち向かえというのでしょうか。多くの信仰者はそのように受け止め、励みにしてもいます。が、そんなことはできないと泣き出したい気持ちになるのも、正直事実でありましょう。
あるいは、これは誰も知りえなかったことを創作して教会メンバーを迫害から励まそうとしている記事なのだ、という程度に留めておくほうが賢明なのでしょうか。意地悪に見ると、これを教会のあざとさと捉えて、冷ややかに鑑賞しましょうか。
聖人志向の信仰からすれば、イエスの祈りに沿っていくことも、すばらしいことです。でも私はこのイエスの思いにぴったり魂を重ねることはためらいます。いや、もしもそういう場面になったら、案外この信仰を貫くかもしれませんけれども、わざわざ好んでそのような事態に飛び込もうという気持ちには、正直なれないものです。勇気がないのかもしれません。
そこで今回は、私が見落としていた点に注目して、聖書の言葉を聞いてみたいと思います。イエスが、三度、弟子たちと園の奥との間を往復しています。この場面を、私にとっては少し新鮮な気持ちになって、記事の言葉の向こうから神の声を聞きたいと願っています。
今日この後ずっと注目したいのは、弟子たちです。
イエスと弟子たちとの間に何があったか、そこにこだわって見ていきます。いまの時代の私たちも、弟子たちになら感情移入がしやすいでしょう。弟子たちの役割を私たちが担っている、とも考えられます。そうやって、イエスとの対話に参加し、イエスのしてくれたことを、よりリアルに感じてみたいと思うのです。
そもそもここでは、弟子たちのうち、三人だけが連れて来られていました。そこにいたのは、「ペトロおよびゼベダイの子二人」(26:37)でした。この三人だけを連れて山に行ったことを、思い出しませんか。少し長いですが、思い出すために振り返ってみましょう。
17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
ここは、重要な場面だと考えられています。イエスの本当の姿が垣間見せられたのです。この箇所を中心にお話しする機会がありましたら、またいろいろな角度からここを味わってみたいと思いますが、今日はこれくらいにしておきましょう。そしてこのゲッセマネの祈りの場面でも同じ三人ですが、この祈りもまた、十字架の前の非常に重要な場面だと考えられます。逮捕への展開のためにもそうですし、この「御心のままに」の祈りにしても、イエスと父なる神との交わりの最終場面のような形で、深い意義を感じるような気がします。やはり、特別な出来事であるに違いありません。
イエスは、弟子たちから離れて祈ることが三度ありました。三度というのも重要な回数なのでしょうが、とにかくこれら三度イエスが往復した時の様子は、克明に描かれています。よりシンプルに理解するために、まず、言葉だけを比べてみましょう。数字は、何度目であるかと意味しています。
1
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
2
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
3
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
何かお感じになりましたか。ではもっと簡潔に、弟子たちに端的に命じている事柄だけを拾うことにしましょう。
1 ここに座っていなさい+わたしと共に目を覚ましていなさい
2 目を覚まして祈っていなさい
3 立て、行こう。見よ
最初、弟子たちは、ただそこにいろと言われただけでした。せいぜい、目を覚ましていること、眠りこけないことでした。少なくとも、「祈れ」とは命じられていませんでした。
二度目には、同じく目を覚ましていよということに加えて、「祈れ」ときました。
最後には、立ち上がり進んで行くことでした。また、基本的に視覚的な意図はなく、注意を促すための言葉ではありましたが、「見よ」と言われました。
この命じたことだけに注目すると、イエスから弟子たちへの要求は、次第にアクティブになってきていることが分かります。「座れ」「祈れ」「行こう」と展開していきます。確かに、「目を覚ましていなさい」とは言われましたが、眠っていたことをただ非難するのであったら、「行こう」と誘いはしなかったはずです。先に、十人のおとめの話をご紹介しました。マタイが少し前に記していました。そこで最後に命じたのは、「目を覚ましていなさい」でした。予備の油の有無が運命を分けましたが、十人全員が眠ってしまっていたために、唯一の命令は「目を覚ましていなさい」でした。そこで、という訳なのかどうか知りませんが、このゲッセマネの祈りの場面では、同じように弟子たちが眠ってしまっていたとき、この「目を覚ましていなさい」を結論的には用いませんでした。事実眠り呆けていた弟子たちだったのですが、眠るか目覚めているか、もはやそこに焦点を当ててはいなかったかのように見えませんか。
弟子たちは、あの愚かだった半分のおとめたちのように、永遠の罰へとシャットアウトされることはありませんでした。イエスは棄てませんでした。それどころか、これから逮捕されることになるでしょう。そうした危険な場へ赴くことになる自分を察知しておきながら、弟子たちに「行こう」と促したのです。むしろこの場で弟子たちを突き放すようなことをすると、そのほうが弟子たちは棄てられた思いを懐くことになったかもしれません。イエスから拒まれる、どうしようもない孤独感を懐くことになったかもしれません。イエスは、弟子たちを放り棄てることはしませんでした。
「目を覚ましていなさい」と、あのおとめたちに向けて行ったとき、イエスはそれを、いわゆる終末の出来事として考え、説いていました。今度はどうでしょう。眠った弟子たちの場面では、話は終末のことではありません。これからイエスの十字架へとしっかり溝が刻まれ、歴史は一定のコースを辿ることになるだけです。
けれども、福音書には読者というものがいます。これを読む人にどう伝えるのか、それを福音書記者は考えています。単にイエスの伝記を刻んだというわけではないのです。読者に何がどう伝わればよいのか、考えて綴っています。いったい、マタイによる福音書の読者は、どういう情況の中にいたのでしょうか。終末とは関係がないところではなかったでしょう。まさに、終末を生きいている感覚でいたはずです。パウロの初期の手紙などはその勢いがこぼれ落ちそうですし、それぞれの福音書にも、終末を生きる信徒たちへのアドバイスや警告がたんまりと残されていました。迫害が多い中で、早く主よ来てくださいという、終末の意識と祈りが、教会を流れていたであろうことは間違いないでしょう。
この読者の中に、いまの私たちもまた、いることでしょう。マタイが意識していたにせよ、いなかったにせよ、結果的に後の世の私たちが、この福音書の読者となっています。それは、切羽詰まった情況ではないかもしれませんが、確かに終末を感じさせる、そして終末へと着実に近づいている時代の読者なのでした。
マタイは、二千年ほど先の私たちを頭に置いて綴っていたとは思えません。その時に必要な言葉を伝える使命感は帯びていたことでしょうから、エルサレム神殿を失い、約束の地を追い出された同胞たちに、そしてあのイエスによってもたらされたメシアの福音を、ちゃんとユダヤ人が信じてきた路線の先に位置付けることによって、確かなものとしようと考えたことだろうと想像します。イエスの地上生涯は、もう半世紀を下らぬくらい昔の話になりましたが、ただの昔話とは考えていないはずです。それはただの伝記ではありませんし、歴史書として書いたものでもないと思います。神からのメッセージ、自分が精一杯受け止めた、神の知恵と愛が、いのちの言葉となって、読者に伝わりますように。仲間たちに、それが命の言葉となって、事実命を与えるものでありますように。自分と無関係なお話などではなく、いま生きて働く言葉であるように、との祈りがないはずがないと考えます。
だから、二千年先の私たちにも、それは伝わります。まさに「永遠の命」なのですから、この時の隔たりが、何の障害になりましょうか。マタイがその時の教会において、迫害や困難に苦しむ仲間に対して、渾身のメッセージを綴ったことが、私たちにも届くはずです。
最初は、まずここにいろ、とだけイエスは言いました。教会を、仲間のつながりを離れるな。何よりも、キリストに背を向けて遠ざかることなく、今いるそこにいろ。ただ、眠ってしまうことには気をつけよ。そう言いつつも、イエスは、肉体が弱いために眠りこけることを、必要以上に叱責することはしないつもりだったように見えます。
次は、イエスは、共に祈ってくれと言いました。弱さのために眠り込めた私のところに、イエスは戻ってきてくれ、祈りでつながるようにと頼みました。イエスは、眠った私に対してあきれ果てることなく、そして私を置き去りにすることは、しませんでした。
でも、私は眠り倒れていました。まるで朝の私のようです。それでも放り出さずに、イエスはまた戻り、最後に声をかけます。そして「立て」と励まします。この言葉は、もちろん立ち上がる意味ですが、そこには、「眠りから覚める」意味が隠されているようにも受け取ることができます。それどころかこれは、時に「死の眠りから起きる」つまり「復活する」意味に読める場合もある言葉です。罪に魂を破壊され、いわば死んでいた私に、なんという力を与えてくれることでしょう。眠ってしまったことを嘆き、もう自分はだめな奴だと呆れかえる私自身に向けて、いやそうじゃない、立つのだ、新たな歩みを始めるのだ、と言葉をかけるのです。この言葉には命があります。命の言葉です。
それから「行こう」と促します。ここには、イエスが「導く」ニュアンスが隠れています。共に行こう、一緒に連れて行くのだから、そんな響きがこの言葉の中にあります。イエスは弟子たちとある意味で同士なのであり、それは単にイエスに従えと命じる目線だけではなく、一緒に行こうと助け起こすような心があるように感じられてなりません。
もし、単に弟子たちの安全を図るだけだったら、ここから逃がすことも考えられます。イエスは、自分の逮捕を知っていると思われるからです。けれども、弟子たちには、イエス自身の歩み、その生き方と死に方のすべてを見せること、体験させることも必要だと考えたのかもしれません。その上で弟子たちを逃がし、神の業が現れた先を生きていくようにさせることもまた、イエスの導きであると捉えたのかもしれません。そのため、「見よ、わたしを裏切る者が来た」と続けました。「見よ」はともすれば訳さなくても済むような、ユダヤ的な何かしら勢いを感じさせるためにのみそこに置かれるような小さな言葉ですが、イエスはこの「立て」「行こう」に続いて「見よ」と三つの言葉を並べたわけです。そこには意味があるとして受け止めましょう。「ちゃんと見ておけ」と言ったのです。
イエスはこうして、「引き渡され」(26:45)ます。この語は、ユダが「裏切る」(26:46)という時の語と同じです。日本語ではわざわざ訳し分けられているのですが、原語は同じものが使われています。このことはこれ以上くどくどここでは扱いませんが、福音書を読むときに心得ておきたい理解です。イエスはもはや自分の力でこの事態から逃れたり、相手を圧倒したりすることなく、引き渡され、相手の言いなりになります。この特別な出来事の起こったこの「時」を知れ、心に刻め、あなたの出来事として体験せよ。ああ、それでも私はあなたと共に行こう。あなたを導くことを誓う。わたしはあなたと共にいる。インマヌエルというマタイの福音書のテーマはここにも生きています。イエスは、あなたを決して、ひとり孤独に放っておくことはしないのです。
いま、あなたはどのように聞きますか。とりあえず「座ってそこにいよ」と聞いてもよいのです。イエスはまた来て、次の言葉をくださるでしょう。たとえ今日家に帰り、この聖書の言葉を忘れても、つまり聖書の言葉に対して眠ってしまったとしても、イエスはまた声をかけに来てくださることでしょう。やがて「共に祈ってくれないか」ともちかけられるようになるかもしれません。「祈ってみないか」との声が聞こえた人、祈ってください。祈りましょう。それからまた、「立て」と言葉をかけられる人もいるかと思います。立つというのは、打ちひしがれていたところから立ち上がることであると共に、歩き始めることをも意味することがあります。歩き出すことをためらっていた人の背中をイエスが押して、一歩前に進ませてくれることでしょう。一歩前へ出さえすれば、また一歩、もう一歩、と進んでいくこともできる可能性が高くなるかと思います。
それぞれの人に対して、聖書の言葉は、力を与えてくれます。イエスが、何度も戻ってきて、声をかけてくれます。イエスはあなたを、ひとりにはさせません。あなたは、決してひとりでは、ないのです。