人は変わるということ

2021年3月20日

男性歌手が、売れない時代に苦労を共にした女性。あるいは自分の生活を支えてくれた女性。しかしあるとき曲がヒットし、人気が出ると、やがてその女性と離婚し、しばしばピカピカ輝く芸能人の女性と結婚する。こういうことが、(名前は挙げないが)昔からあった。
 
「トロフィーワイフ」と言う言葉があるそうで、成功を収めた男性が、得た地位に相応しい女性を選ぶ現象に用いるというのだそうだ。まるでトロフィーのようだ、と。この表現が女性蔑視云々という議論はしないにしても、たとえば芸能人での例はかなり目立って騒がれる。特に先の場合、かつての女性と離婚するというパターンが、しばしば非難されることになる。
 
自分の下積み時代を支えた女性を、売れたら捨てる。なんて酷いことだ、と私もイメージしていた。だが、必ずしもそうとばかりは言えないのではないか、という考えも浮かんできたので、少し説明したい。
 
「ハングリー精神」という言葉がある。目標に向かって懸命にストイックに挑む姿の人について言うものだ。スポーツでは、強くなるための要素であるとも言われる。スポ根ものでなくても、多くのスポーツ・ストーリーに描かれている(あだち充のように意識的にそれを外していく作者もいるが)。だが、勝利した後に、挫折を味わうことがパターンになっている。物語はそれで終わるわけにはゆかないので、主人公はその驕りに気づいて立ち直り、また精進していくことになる。
 
現実はどうだろうか。人気のアマチュア選手がドラフト指名され、ちやほやされた新入団選手が、力が伸びず、成績を残せないままに退団していくプロ野球選手を、私たちは幾人見てきたことだろう。もちろん、努力をしていない、などと言うつもりはないのだが、もしかすると、何か緩みがあったのでは、などと見られることになるのは、ある意味で気の毒ではある。
 
だから、いま現実のそうした失意の選手のことを当てはめることはやめて戴きたい。偏見を増す意図は全くない。ただ、これは有名人ではなく、私たちの誰もが、何かしら思い当たることはないだろうか、ということだけは気にしてみたらどうかと思う。大学に入学するまでは、それこそ全力を尽くして勉強していたのが、大学に入ったらまるでそんなふうではなくなった、というようなことは、あるかもしれない。私は高校でそれを味わったので、大学では逆にストイックになった。かといって、研究の何が分かっていたのかと言われると、実に惨めなものであったのではあるが。
 
「苦しいときの神頼み」という言葉も思い出す。意味の説明は不要だろうが、これはキリスト教会で反面教師の姿勢としてよく取り上げられる。こうあってはなりませんよ、などと。この場合「神頼み」とは、神に願いを聞いてもらえることではなく、「神を信頼すること」でありたいし、だから「苦しいときも神頼み」でありたいものだ。しかし、宗教改革者ルターでさえ、雷を恐れて、助かったら修道士になる、と叫んだらしいから、人間どんなことで人生が変わるか分からない。
 
そのキリスト教会だが、紀元1世紀、キリスト教信徒は、迫害の対象であり、社会の厄介者であった。人肉を食すなど野蛮人と見られ、虐げられ、命を狙われ、散々な目に遭っていた。パウロが何度命を狙われ、危険に襲われたかは、自身の手紙の中にも書かれている。しかしそういう立場の信徒たちであったから、同じように社会から嫌われ、差別され、苦しめられていた人々の心をしっかりと捉えた。そもそも、キリスト自身、そのような人たちの味方であったし、そこに教えを述べ、癒しをなし、救いをもたらしていたはずだ。その意味では、弟子たちや後継者たちは、キリストの精神を継承していたと言ってよいであろう。自分が弱かったからこそ、弱い立場の人々の気持ちと同じになれた。それを理解することができ、今風の言葉で言えば、寄り添うことができたのだろう。
 
その教会。ついにローマ帝国の国教となってから、その後どうなったか。権力と結びつき、世の支配者となっていくと、目も当てられないようになっていく。その酷い有様は、ここではもう列記しない。弱者の気持ちに寄り添うなどとは、口が裂けても言えないような状態になっていく。それでも、この悪魔のような教会は、聖書を拠り所としていた。ただ、その聖書を、自分を正当化するために用い、相手を裁くために用いていたという点で、すっかり倒錯していたことになる。ある考え方では、これこそが罪の根源であるとも分析されるが、私もまたこうした教会を裁くようなことはしたくない。ただ、私は、こういう歴史をもつ教会を受け継ぐ中にいま居場所をもち、同じ聖書を信仰している。この黒歴史も痛みとして背負いつつ、この聖書の言葉の力を信じ、受けているつもりだ。私の出会った神と向き合い、私を救った神という事実が揺るがないのだから。
 
一人ひとりのキリスト教信徒についても、パラレルな現象があるかもしれない。苦難の中から神を呼び求め、涙を流して祈っていた時期が長かった。そのときには、ほかにも弱さを抱える仲間の気持ちもよく分かっていた。やがて自分の願いが叶えられた。すばらしい、感謝します、神は生きておられる、ハレルヤ。達成した喜びは確かに神の恵みの業であったのだが、それが日常になってしまうと、かつて分かっていた、仲間の苦しみというものが、もうすっかり見えなくなり、感じられなくなっていく。こういう現象が、あるかもしれない。
 
それは自分でふと気づきそうなものなのだが、これが実は気づかない。そこに人の心に潜む謎があり、怖さがある。かつてのキリスト教会だって、その倒錯に全く気づかなかったのだ。ルターたちがその歴史を変えたが、果たしてプロテスタント教会がその後どうなっているか、それを問うと、私はまた同じ轍を踏んでいるような気がしてならない。
 
最期までこのような罠に陥らなかったことだけでも、イエス・キリストの生涯は、さすが別格というものだった。悪魔の誘惑は、やはり終始追い払ってしまっていたのである。私たち凡人は、そういうわけにはゆかない。キリストが退けた三つの誘惑を含め、とことん常々見つめ続け、自ら問い直さなければならないであろう。
 
最初に挙げた、男性芸能人と離婚した女性のことだが、捨てられたというふうに見ていただけの私は、もしかすると、その女性のほうが、男性芸能人を捨てたのではないか、という可能性を考えたのだ。売れて有名になったその男性が、すっかり変わってしまい、かつての優しさを失ったことに、愛想が尽きたということがあるかもしれない、と。もちろん、これはひとつの可能性である。そういう小説を書いてみるのも、いいかもしれない。



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