いまの自分が真理なのさ、なんて
2021年3月18日
誰でも、あと少し歩いたほうが、遠くまで進んだという気持ちになるだろう。だが、もしかすると、目的地に向かう方角を誤っているかもしれない。そのときには、進めば進むほど、行きたいところからは遠ざかってしまうことになる。
歴史は進歩しているという素朴な信仰があって、人間はどんどん真理に近づいている、という根拠のない錯覚に陥ってしまうのも、人間のありがちな姿である。さらに具合の悪いことに、自分の考えこそが、誰もが考えたことのないような真理そのものであると確信してしまう者もある。
世界を眺める窓から、あらゆるものが見えると思い込んでいる。自分だけは、窓の外にいて、世界を意のままに論評できると勘違いしている。世界を対象化して客観として自在に操っているつもりになった近代化の罠どころの話ではない。パソコンやスマホで情報を瞬時に得られる時代、人間が思い上がる傾向は益々増大している。お気軽に、傲慢になれるようになった、ということだ。
今、科学や学術(元来「科学」も「学問」も同じ語であり、ドイツ語はそれをなお残している)が、これぞ正しいというような顔をして君臨していたとしても、さて、後の世から見れば、「あのころはまだこの程度のことしか知らなかった」とか「あんな誤った考えを真理だと無邪気に考えていた」とかいう評価が下ることは必定である。私たちもまた、過去の思想をそのように見下しているのだから。
それは神学においても同様である。聖書の解釈も、自分の思いついたものこそが、最高の真理であるなどと平気で考えるのが、浅はかな人間である。しかし信仰とはどう評価すべきなのか。その人にとり、真実であるということは、他の人には関係なく成立するのではないのか。いけないのは、自分の思いつきを普遍的なものとして他人に強要するような場合だけではないのか。いや「だけ」ではないかもしれない。
何かしら、絶対の真理のように自ら宣言したくなる誘惑に、私たちはどう向き合うとよいのだろう。せめて、自分がその世界の中にいて、自分がどこに立っているか、そこへ思惟を向ける、そのわずかなことで、いくらかでも改善できるのであるならば、と願うばかりである。
待てよ。こんな私自身の呟きは、どう扱われるのだろうか。このような「メタ」思想もまた、相当に嫌がられる存在であるには違いない。