医療従事者への偏見に対して
2021年3月8日
やはり、こういう強い主張があるものだ。ネットの中に見出された。
新型コロナウイルスのワクチンが医療従事者に先に接種されることへの非難だ。コロナ対応をしていない一般の医療従事者に接種するくらいなら、一般の人に早くしろ、というのである。そして、このように医療従事者に先にさせるのは、そして医療事務者の分まで先行させているのはおかしい故、これは医師会と政治との結びつきによるものだろう、とまで言っている。ただのツイートではない。それなりに発信力をもったライターである。
この人も、ワクチン信仰に洗脳されているらしい。ワクチンさえ打てば新型コロナウイルス感染症にかからない、と思っているのかもしれない。表向きは、高齢者や既往症をもつ人のことが思いやられているようだが、結局自分たちにワクチンが回ってくるのが遅れることに不満をもっているらしいことが漂ってくる。しかし、そうでないとしても、そして断定はしていないように一見装ってはいるが、読者をその気にさせる迷惑な発言をしていると私は考える。
ワクチンというものは、長年の治験を経て実行される免疫のための手段である。今回の非常事態では、この治験期間が驚異的に短縮されている。つまり、実効においても治験が十分ではないし、危険性あるいは副反応についても、未知数と言ってよいほどの少数例しかデータが出ていない。だが、時は待てない。そこでみ見切り発車となっているわけである。
先行接種となったのは、この治験の一部として様子を見ている意味もあるのだ。もちろん、ある程度の信頼があってのことである。しかし、民族的な効果や影響も未知であるため、日本人においてどうなるかも、予断を許さない状況にあることから、まずは医療従事者で試している側面があるのである。医療従事者に対して大量に不具合が出ることは決定的に拙いが、そこまではいかないと踏んでのことである。医療従事者ならば、知識もあるし、対応が可能であると考えられる。医療機関にいれば、何かあっても動きが取れる。しかし、いきなり高齢者(海外では中止されている例もある)や病気をもつ人にした場合に何かあった場合、大量に病院に押し寄せることとなれば、収拾がつかなくなる恐れがある。ただでさえ逼迫している病院に、こうした人をさらに呼びこむことは避けなければならないのである。そのため、恐る恐る様子を見る必要がどうしても出てくるし、知識と対応のまだ可能な医療従事者、そしてもちろん今後も患者を診ていく医療従事者や医療事務関係者を、語弊はあるが、実験に用いている側面は否めない。また、事務関係者までも先行接種はけしからん、と論じてもあったが、むしろ真っ先に、ほぼ無防備に患者に接するのは医療事務者であることに思いを馳せることはできなかったのだろうか。
さらに、コロナ専門ではない民間の医療機関の従事者にまでまず接種させるのはけしからん、とまで論者は言う。だが、そこへも検査で来る患者はいるし、検査でなくても感染者はどのように来ているのか判別がつかない。患者に接する最前線にいることの意義を全く想像していないのではないか。そもそも、民間の医療機関の従事者もまた、今後ワクチン接種に駆り出されていることをご存じないのだと思われる。彼らは、週に一度の休日までも削られて、やがて国民一般へのワクチンのために仕事をさせられるのである。ただでさえ、医療従事者は、外出も会食もこの一年間控えさせられている。そのうえ、不当な差別に遭っている。そして、休日返上となって、国民のために奉仕をさせられるのである。実験台になった上に。
医療という営みがどのような緊張感をもってなされているか、想像したことがおありだろうか。ミスが許されない現場なのだ。世間では、誤診や看護ミスの裁判沙汰を取り上げて、医学部の権力争いのドラマを喜んだりしているし、また医療現場の恋愛ドラマにときめいたりもしているが、とにかくミスひとつがひとの命を奪うことは確かであるので、現場の緊張感たるや、ただごとではない。新型コロナウイルスでも歯科医院でクラスターが起こってはいないと思うが、ふだんからものすごく感染のないように徹底しているからではないかと思われる。耳鼻咽喉科もまさに感染してくださいといわんばかりの診療となるが、だからこそふだんから徹底した衛生管理が行われているのだと教えられるものである。もちろんどの科でも徹底しているが、患者の動きや治療行為において、それだけ防御しても感染力のあるウイルスは、たまらないものである。
元に戻るが、ミスの許されない現場にいることは、他の業種にどれほどあるのか、考えて戴きたい。恐らく警察などもこれに近いとは思うが、一般の、ミスくらいして当たり前という構え方の職場をご存じであれば、少しはお考え戴きたい。キリスト教会などは、互いに赦しなさいなどという教えがあるせいかもしれないが、とにかくミスのないものを探すほうが難しいくらいで、いくら苦情を言っても印刷物の誤りはなくならない。曜日の違いくらいは、犯したほうも笑って済ますくらいで、ひとの名前を繰り返し間違い続けることも、大した罪悪感は懐かないようだ。あまりに酷いので私は、その間違いだけはいけないと指摘したことがあるが、傲慢も甚だしいと怒鳴られたことがある。ひとの命を預かる仕事とは月とすっぽんなのである。教会は永遠の命に関わる営みをしているかと思っていたが、どうにも裏切られることが当たり前のようだ。聖書の写本に命を懸けていたイスラエルの人たちは大したものだと思う。
ワクチンを打てば平気だ、自由に遊べる、とでも万が一ではあるが、一般の方々が、あるいはこの論者が、お気楽に考えているとすれば、それがとんでもない愚考であるか、お分かり戴けるだろうか。どれだけ医療関係者を犠牲にさせ、食い物にすればよいのであろうか。偏見は、悪意というよりは、まずは無知に基づくものではあるのだろうが、それを正義のように振りかざすとなると、悪意としか言わざるをえないものになってしまうだろう。
信仰の弊害として、洗脳ということがあるという。まさにこれは、ワクチン信仰による洗脳である。もはやひとの気持ちや立場などを、想像すらできなくなっており、自分の感情だけでそれを踏みにじろうとしているようなものとなりかねない。もちろん、事はこのワクチン接種だけの問題ではない。もっと拡大して考えたいものである。自分自身の中にも、そうした思いこみや偏見がきっとあるという前提で。