【メッセージ】いま、心に
2021年3月7日
(マタイ25:1-13)
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。(マタイ25:13)
洗剤でも調味料でも、未使用のものがひとつずつ、家に置いてあります。買い出しに行くのが週に二度になるため、いざなくなったら生活に困るというわけで、予備を買っておくのです。おかげでなんだかんだと家にごろごろ在庫を抱えているという有様です。
毎日使うようなものだと、急に切れると困ります。スペアがないというのは辛いものです。これがまた食料品になると、冷蔵庫や戸棚の奥で化石になっていた、ということも、なきにしもあらず。賞味期限切れでも、レトルト食品なら平気で食べちゃいますけれど。
アリとセミ。そういうタイトルのついたお話、ご存じですか。ヨーロッパ経由で「アリとキリギリス」に改変されていますが、ギリシアのアイソポス(英語読みでイソップ)物語では「アリとセミ」でした。因みに日本に16世紀末に入ってきたものを書き留めた「伊曾保物語」は原典のように「蟻と蝉との事」という題で紹介されています。中学二年生の古文でこれを教えたことがあります。
冬になったとき、穴から出て来た蟻を見て、蝉が必死で頼みます。食べ物を少しくだされ、と。蟻は尋ねます。あなたは気候の良いときに何をしておられたのか。蝉が、歌うことに熱中しておりました、と答えますと、蟻は、ではいまも歌ったり踊ったりしていたらよろしい、と言って、穴に引っこんでしまいます。教訓として、豊かに物があるときにつつましくしておかないならば、後で貧しくなって後悔することになる、とし、若い頃に学問をすることをも勧めるものでした。
この蟻の態度が冷たいと思ったのか、最近のこども向けのお話の本では、蟻がキリギリスに食べ物を分けて助ける、などというものもあるようですが、私は感心しません。ただ、この蟻の態度を、冷たいと感じるか、当然の権利のようなものと見るか、そこは考える余地があろうかと思います。誰もが自分の生活のために働いているものですから、ぎりぎりの生活をしている人は、他人に分けられる分がない、というのも尤もな話です。
ただ、これを経済原理のように振りかざすのはどうでしょうか。特に政治家の発言の中に、働かざる者食うべからず式に、貧しい人は自業自得だ、というような見方が時折見られるのは残念です。コロナ禍において、私たちを取り巻く問題として、これは切実なものであるはずなのに、あまり大きく取り上げられないことを不思議に思います。
かつてペストがロンドンを襲ったときのことを、デフォーが記録しています。歩いていた人が突然倒れて死ぬというようなことも度々あったようにも描かれていますから、死ぬ人に対する眼差しはどこか醒めたものがあったようです。荷車に積んだ遺体を、夜な夜な大きな穴の中に放り込むというような情景も描かれています。ただ、ロンドンは貧民が多い町でもありました。そうなると、貧民はペスト以前に、食糧難で死んでいくのかと思いきや、どうやらそうでもなかったようです。貴族や、富裕層が、積極的に、貧しい人々に食糧を供給していたというのです。政治的に命じた云々でなく、自ら布施の精神が働いていたらしいのです。このような考え方は、いまも欧米でよく見られます。チャリティは当たり前のことであり、大いに儲かっている人は、施しをするのが神の前に当然なのだという考え方があるのではないでしょうか。日本だと、そういうことを「売名行為」だなどと非難する声が起こるのがしばしばで、そこはなんとかならないかと思う次第です。
さて、聖書は、イエスがしきりにこの世の終わりについて語る中での、ひとつの譬え話を開きました。「天の国」を終末問題として捉えるものですが、マタイによる福音書では、よく知られているとおり、「神」という呼び名を書き記すことを憚る思いから、それを「天」として記録しています。そこで「天」という言葉は、私たちの言葉では「神」と置き換えて差し支えないとされています。つまり「神の国」とはこういうものが、と言っているわけです。また、「国」というのは、同時に「支配圏」でもあることから、これを「支配」と呼ぶことも可能だと考えられています。ややこしいですが、「天の国」は「神の支配」と言い直して、考えることが大切だと理解されます。
終末において神が支配すること、神が私たちを導こうとしている世界というのはどういうものか、それをイエスは告げようとします。状況設定はポイントが三つあります。「十人のおとめ」「ともし火」「花婿を出迎える」です。「おとめ」はまだ男性経験のない女性と見られますが、奴隷などという身分に限定する必要はないようです。いまでも教会の結婚式で、子どもが手伝う場面がよくあります。フラッグボーイやリングガール、またフラワーガールなどとも言う準備の子や、ベールガールのように花嫁のベールの裾を手に共に歩いて入場する役割の子もいます。ユダヤの結婚式では、花婿が花嫁の家に花嫁を迎えに来て、そこから花婿の家に連れて行く行列があったとも言われていますから、ちょうどこのベールガールのように、花嫁側で準備する、子どもの手伝いの役があったのかもしれません。
夜に限らず、ともし火は必要だったようです。イスラエルの神殿には、常時燃えるともし火が必要でした。
あなたはイスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせなさい。(出エジプト27:20)
イスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせ、臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に備え付けさせなさい。アロンは主の御前に、夕暮れから朝まで絶やすことなく火をともしておく。これは代々にわたってあなたたちの守るべき不変の定めである。(レビ24:2-3)
ここに集められたおとめは十人。そして、これが二つのグループに分けられます。一種の裁きを教えようとしているからです。「五人は愚かで、五人は賢かった」そうです。その違いはどこにあるかというと、「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」のが愚かなほうで、「それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」のが賢いおとめたちでした。ここで「ともし火」という日本語は、「火」を意味するための言葉ですので、誤解を招かないために、いま「ランプ」と称することにします。愚かなおとめたちは、「ランプはあったが予備の油がなかった」、賢いほうは「ランプと予備の油があった」としておきます。すると、これで勝負あり、といきたいところですが、ここで事件が起こります。花婿が花嫁を迎えに来るのが遅れるのです。まるで、マタイの福音書を読む読者が、イエスが再び来るのが遅いではないか、と文句を言っていたがために、この遅れるというシチュエーションを作ったかのようですが、さて、実情はどうだったでしょうか。
花婿が遅れている。そこでこの十人のおとめたちは、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」のでした。ゲッセマネの園で、逮捕直前にイエスが血の汗を流して祈ったときも、せっかく連れて来られた三人の選ばれた弟子たちは眠りこけてしまいましたが、聖書でこのように眠りこけることについては、よく気をつけておかなくてはなりません。それは他人事ではないからです。
眠りこけていたその最中、真夜中に、声が鳴り響きます。「花婿だ。迎えに出なさい」との命令です。自分の役割を果たす時が来ました。おとめたちは跳び起きて、ランプを手に持ちます。が、あの五人は気づきます。油がないから火がつけられないではないか。焦ったおとめたちは、最初の油がもう消費されていることに気づきました。別の五人に向かって頼みます。「油を分けてください。わたしたちのランプは消えそうです」と、あの蝉のように頼むわけです。そしてあの蟻と同じように、賢いおとめたちは答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」、本当にあの蟻のようです。イソップ物語は紀元前6世紀のものとも言われていますが、広くメソポタミアやアジアの話も含まれていたとすると、こうした教訓話は文化としてあったのかもしれません。
さあ、これで愚かなおとめたちはどうしたか。もう駄目だと諦めはしません。職務遂行に熱意のあるおとめたちは、油を買いに努力します。ただ、その留守の間に、花婿が到着して、花嫁を連れて出ていきました。もちろん、賢い五人のおとめたちも出ていきます。そして花婿の家、つまりは神の国のイメージなのでしょうが、その宴会場に着くと、戸が閉められてしまいました。
戸がぴしゃりと閉められるというシーンは、私たちはやはりあのノアの箱舟の情景を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。もちろん創世記です。
7:15 命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。
7:16 神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。
この後、雨でしょうか、水が増し洪水となります。箱舟に乗ることのできなかった陸上の動物と人間は、息絶えてしまいました。もう裁きが遂行されるのです。
油を買ってランプが輝くようになった、五人のおとめたちは、遅ればせながら、花婿の家、宴会の場所まで追いかけてきます。このあたりも、ずいぶんと健気な姿勢を見せます。私ならもう駄目かと諦めてしまうかもしれません。でもイエスも、諦めずに求め続けることを評価する話もありました。ルカによる福音書から引用します。
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
遅れた五人のおとめたちは必死で叫びます。「御主人様、御主人様、開けてください」と求め続けることは、福音書の話では推奨されることもあったのです。しかし今回は違いました。
25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから
賢いおとめたちに加え、主人も冷たく、予備の油を用意していなかったおとめたちを、神の国から弾き出しました。少し可哀相な気もします。とくに「知らない」という辺り、冷たさの極致のようにも見えます。お母さんが小さな子どもに、「言うことを聞かないと、もう知りませんよ」と言うと、子どもはこの世の終わりのような絶望感を覚えるのではないかと思います。本当には子どもを捨てることなどするわけがないのに、子どもの側としては「知りませんよ」と言われると、本当に悲しいものです。
「知る」というのは、もちろん知識ではありません。聖書でこの「知る」には、深い交わりがこめられているといいます。それは肉体的な交わりのこともあるし、精神的・人格的な交わりということもあります。いずれにしても、表面的な「知ってるよ」のレベルではありません。ですから、神を意味しているに違いないこの「主人」――それはまさに主イエスというときの「主」の語なのですが――は、油の用意をしていた仲間のおとめたちにすがり、拒まれ、買い出しに走り、宴会場までまた走って健気にも追いかけてきた五人のおとめたちに対して、おまえたちなんか知らない、と戸を開かず、一切の交わりを拒否したということになります。あまりに気の毒です。ちょっと忘れ物をすることくらい、私にもしばしばありまいから、身につまされます。
譬え話というのは、解釈が伴い、それがまたいろいろな理解や説を伴うものとなっていることがあります。この譬えをどう理解するとよいのかも、決定版というものはないのだろうと思います。そこで私も、ここで皆さまの寛容な心に甘えます。少しばかりひねくれた見方をすることを、お許しください。それは、私の見方を正しいとするものではありません。皆さまとは違う考えだろうかと思います。いわゆる解釈の研究からすると、誤っているものかもしれません。それでも、私が出会ったこの神の言葉との格闘を、参考までにお届けしてみようと、勇気を出してみたいと思います。
結果的に、油を余分に準備していた用意周到なおとめたちは神の国の宴会の場に招き入れられ、予備に気が回らなかったおとめたちは締め出され、神の国の交わりに入れてもらえなくなってしまいました。ここに注目するだけならば、教訓は簡単です。十分備えていよ、非常時のために余分に蓄えておけ、といったレベルで捉えてよいだろうと思います。しかもこの時の油は、オリーブ油であると思われ、それは、キリストないしメシアという語の根本に関わるものです。つまり「油注がれた者」というのは、王位就任がこの油を頭に注ぐことから呼ばれていたのですから、キリストとの交わりを連想されるものとなっています。また、そのことから、聖霊を宿し霊的な生き方をしていることが求められている、というように説くことも可能でしょう。
しかし何故予備の油が必要だったのかというと、それは花婿が迎えに来るのが遅れたからです。定刻に来ていたならば、ランプの中の油だけで十分足りたことでしょう。油が不足して灯せなくなったのは、花婿が遅れたのが原因です。ここで花婿がキリストであり、花嫁が教会を表す、といった初期の教会でよく考えられた象徴をもし当てはめるならば、教会が危機の時代の中で、なかなかキリストが再臨しない、つまり神の裁きの日がやってこない、というやきもきした気分の中で物語が受け止められたとなると、一層リアリティをもつことになるでしょう。
なぜ花婿が遅れているのか、それについての説明なり弁明なりがあってもよさそうなものですが、ここには一切ありません。遅れるのがとも当然のようにして、そのうえ、眠りこけたおとめたちのほうが非難されているのです。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
花婿が来るのがいつなのか、知らされていなくてよいかのような言いぐさです。それなのに、おとめたちは花婿を迎えるためにランプを手に待っているのです。いえ、迎えに出て行くのです。いつ来るとも知らない花婿を出迎えに出ていくがなかなか花婿が来ない。それでうとうとしていたら、最後に「目を覚ましていなさい」などと叱責される。これはどうにも不条理ではないでしょうか。
いやいや、神の計らいがあるのだ。そう、結構。すばらしい信仰です。神のなさること、神の計画についてよく分からないからと言って、人間の論理でぼやくのは、夕方から仕事に出かけた労働者と、夜明けから働いていた労働者に同じ賃金を支払うことに腹を立てるのと同じようなもので、神の世界の出来事を解さない自己本位の者がこだわることだ。ええ、そのように非難されても結構でしょう。
だから、眠ってしまったのは人間の弱さとして仕方がないけれど、これらのおとめたちの運命を分けたのは何といっても、油を用意していたか、いなかったか、そこである。このように、説得されそうな気がします。でも、本当に、予備の油の有無が決め手なのでしょうか。その説明かそ、私たち人間の論理で納得しやすいものになってはいないでしょうか。
この譬えはマタイに特有なもので、従って他の福音書の叙述と比較して考えることができません。あくまでもマタイの一発勝負で、マタイの書いたものがこの話のすべてです。それ故に、マタイのこの場面にしつこく問いかけていきたいと思うのですが、マタイはこの譬えを述べた結論として、イエスに何を語らせていたでしょうか。もう一度注目します。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
このように、おとめたちの運命は二つにきれいに分かれた。「だから、目を覚ましていなさい」なのです。この言い方は、目を覚ましていたおとめたちが神の国に招かれ、目を覚ましていなかったおとめたちが閉め出された、という事態に対する結論ならばよく分かりますが、ここはそうではなかったのです。
25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
皆、眠り込んだのです。十人が十人、目を覚ましていることができずに、眠ってしまった。けれども、そのうち半分は神の国に入れられ、半分は神との交わりを断たれました。これでは、理性的に納得ができないばかりか、聖書から神の心を受け取りたいと思う私の魂は硬直してしまいます。皆さまは如何でしょうか。
要するに、私たちは皆、眠り込んでしまったとしか考えようがありません。マタイは読者に、あるいはこれを聞く者に、「私は目を覚ましていますよ」という返事を期待してはいないはずです。そんなことの言える人は、誰ひとりいないのだ、という前提でこの命令を発しているとしか考えられません。私たちは皆、眠り込んでしまっています。
それは、キリストが再び来ることを待ちわびて、あるいは下手をすると忘れて、神への信仰を忘れているということでしょうか。そうかもしれません。そのように覚える人は、そのように自らに声をかけるとよいのです。
しかし、いろいろな眠り方があってもよいのではないかと私は感じます。眠っているとき、ひとは外界の出来事を知りません。何かが起こっていても、それに気づきません。私たちは、起こっているのに気づかないでいることが、実にたくさんあることに気づかされます。
ひとの苦しみ、ひとの痛み。目の前に傷ついた人がいることに、気づきません。自分の言葉がその人の心を傷つけ、さらに傷口に塩を塗り込んでいても、気づきません。おめでたい自分は、その人の辛さを、自分に都合がよいように解釈し、ひとの状態を決めつけてしまうことがあります。政治家の失言のことを言っているのではありません。確かにそれも、聞いた人がどのように辛く感じるか、憤るか、気づかないのですが、それを責めても、私たちは、自分たちが正しいということを証拠立てることはできません。しょせん人間は、そのようなもの、自分で自分のしていることに気づかない。そうではないでしょうか。
私たちは――いえ、私は、と言ったほうが適切です――、自分が常日頃から、悪だ罪だと呼んでいる「他人」のしていることと同じことを、自分もまた気づかずにしているものではないでしょうか。そして、それを赦してくださいと日々祈っていたのではありませんか。
知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。(詩編19:13)
決定的な「その時」のことも私たちは知りません。どうか、「その時」が来るまでに、「気づかないでいる自分というものに気づく」ことができますように。「目を覚ます」とは、「警戒しておく」「注意深くしておく」という意味に理解することも可能です。自分がいい気になって、自分の考えに酔いしれて正義だというふうにしか見えなくなり、ひとの心が、引いては神の思いが見えなくなっていないか、警戒することが求められています。
もうひとつ。このイエスとの関係、イエスとのつながりは、かのおとめたちが口にしたように、「分けてあげる」ことはできないことに触れておきます。いわゆる「執り成し」は心から注ぎ祈ったにしても、神との関係そのものを、自分が肩代わりして、その恵みを「分けてあげる」ことはできないのです。それぞれのひとが、自分の分を買って来なければならないのです。
どうやって買うのでしょうか。私たちに、その支払いができるのでしょうか。大丈夫です。イエス・キリストがその代価を支払った。あなたの罪のための支払いのために奔走する必要はありません。どうか私が、そしてあなたが、油注がれた王であるイエスが成し遂げた赦しの極致である十字架を見上げ、そのイエスの言葉を心に受け容れることができますように。気づかないところもきっと残ってしる私たちです。戸がシャットアウトされないうちに、いま、心にイエスを知ることができますように。