エスカレータを塞ぎ立つとき
2021年3月4日
大阪万博の前あたりから、阪急電鉄が、エスカレータの左側を空けて立つようにアナウンスを始めたという。急ぐ人が歩いて追い抜くことができるように、という意味だ。これが半世紀後、危険だということでついに全国の電鉄会社がすっかり否定するに至った。福岡は東京と同様、右側を空ける習慣だったが、これも各会社が歩かないように呼びかけるようになった。
私もかつては歩いていたから、急ぐ人の気持ちは分かる。だが信仰を与えられてからは、それが人に危害を及ぼす可能性が高いことに気づき、歩かなくなった。それでも右側を空けて立つことで、追い抜く人の邪魔をしないようにしていた。後ろから罵声や暴力を浴びることを恐れてのことだった。
しかしここへきて、社会的コンセンサスが得られたと考え、私は基本的にエスカレータの右側に立つようにした。コロナ禍においてエスカレータの手すりを握ることも憚られるが、たとえば急停車したときなどは、握力の強い右手で手すりを握りたいという本音がある。しかし、やはり多くの人が左側に立つために、私が右側に立てば、追い抜くことができないと見たという理由が一番大きい。これで、誰かがぶつかったり事故に巻き込まれたりする危険を防いでいるつもりなのである。独善的かもしれないが、見ていて危ないと思うことも確かにあったのだ。また、エスカレータの構造上、左側だけに重みがかかるのは構造上よろしくないということも予想している。
人が少なくても、私は右側に立つわけだから左側が空いている。左から抜こうとすれば抜けるわけだ。左から抜くのは心理的抵抗があるらしく、けっこう多くの場合後ろの人もおとなしくしている。あるいは、エスカレータでは歩いてはならないという会社側のアピールが、じわじわ浸透してきた故であるのかもしれない。
ところが、そんな中、一人が横を歩いて抜いていくと、その後ろからもまた歩いてくるという現象が多々見られることに気づいた。つまり、基本的に歩かないでいるのだが、誰か一人が歩き始めると、それに続いて歩き始める傾向がある、ということである。見ていると、取りたてて急いでいるからではないようだ。私は平地を歩くのは速いので、降りた後で私のほうがまた追い抜くということもしばしばである。エスカレータを歩いて行く人は、急ぐ目的があるというよりも、なんとなく歩いているということが明らかに多いのである。
選挙の世界に、キャスティング・ヴォートという言葉がある。博多市か福岡市かという投票が同数であったときに、議長決裁で福岡市という名称に決まったというように、元来議長の決裁権のことをいうのだが、現実に使われる意味は、二つの政党が政党勢力を争っているとき、別の党がどちらにつくかにより政局が決まるという情況をいう。シーソーがどちらに傾くか、というときに、第三者が乗ったほうが下がるという様子を想像してみたい。
さしあたりAという意見に輿論が傾いているとき、いやBがいいぞ、と抜け出していく人が一人いただけでは、大勢は変わることはないのだが、それに続いて我も我もとBに移っていくと、勢力は一気にBに転じていく。最初に移る人は勇気がいるかもしれないが、続く者としてはその負荷が軽いであろう。
実はこれが怖いことがある。いまは戦争反対と多くの人が考えているけれども、何らかの情況の変化で誰かが戦争をしようと言いはじめ、そのうちその意見に変わる者が現れると、誰もがそちらに流れていくということが大いに考えられるのである。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴う事象の中にも、そういうことがあるだろう。東京オリンピックのボランティア関係でも、最初に反対するには勇気が必要かもしれないが、どんどんと追従者が現れて大きな勢力になっていくのを見てそう感じる人もいることだろう。皆と同じことをしていればいい、という心理が核心にあるとすれば、あとはその「皆」という条件がどの程度で満たされるかどうかで、ひとと社会は容易に、あっという間に変わっていくことがあり得るのである。
エスカレータで歩く人の様子を日々感じていると、誰かが動けば自分も動くというこの心理学的な仮説が、この社会では間違いなく本当に成り立つということを肌で感じる。まさかそうなるものかなどと構えていても、この社会は、いつどのようにして、一気に逆方向へとシフトしてしまうか、予想がつかないのだ。
また、「自分はそんなことはない、変わらないぞ」などと思っていることこそ、実は危険なのだと強く思う。自分は詐欺にはひっかからない、と思っている人が実に危ないことは実証されているし、キリスト者は、息巻いたペトロがいとも簡単に三度もイエスを否定したということを知っているはずだ。ペトロが間抜けだからだ、などと嘯く人がいたとしたら、まさにそれこそサタンの思う壺であることは明白であろう。
むしろ、エスカレータには両側に立つ人がいることがバランスを導き、また歩き抜く危険性を排除するために有効であるように、別の考え方がそれなりに対立しているほうが、一度に社会が変わっていくことを避けるのに役立つものなのかもしれない。信仰にしても、こう考えるのが当然だ、絶対にそうだ、というように頑なになっている方が、もしかすると脆いのではないか。そのくらいに警戒しておくことが、マスク以上に、私たちには日常的に必要であるように私には見える。他人と同じふうにしておけば安心だという心理、それは、有名な人だから賛同しておくとよい、と考えている人の多い有様にも窺える。ともかく、キリスト者であれば神と自分との関係をいつも意識しておくことの大切さを、しみじみと覚えるものである。