【メッセージ】君を待つひと
2021年2月28日
(マタイ21:1-11)
向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。(マタイ21:2)
私は基本的に夜の商売なので、ひとり遅く帰宅します。玄関を開ければ妻が三つ指ついて、「おかえりなさいませ」と迎えます――そんなことはありません。そもそも「三つ指をつく」のは作法に反するもので、本当に三本をついてはいけないそうです。これはあくまでも、言葉の上でのもののようです。
それでも、今日こんな言葉すら死語になっているのでしょう。どこに、夜遅く帰る夫を玄関で待ち、そんな迎え方をする妻がありましょうか。いや、いたらごめんなさい。でも一般的に、そんな時代錯誤なものは存在しない、としておくことにします。わが家の妻は医療従事者であり、業務が膨大に増えて疲労困憊、夕食だけは自分でつくるというポリシーですが、私が帰る前に寝てくれているほうが安心します。朝は遠い高校の朝補習に出かける息子のために弁当をこしらえる故に、夜明け前から起きなければならないからです。
では、私の帰宅など、妻は眼中にないのでしょうか。私はそうは思いません。顔を合わせなくても、自分が寝た後に、無事に私が帰ってくる、犯罪に巻き込まれず、JRの事故で立ち往生せず、またふと家出して帰ってこないことなどない、そんなとを信じて眠るという毎日ではないかと思うのです。いや、少し自信はないのですが。
イエスがユダヤ地方を歩いていたころ、イスラエルの人々は、メシアを待っていました。
時は二千年前、イスラエル人の住む地域は、完全にローマ帝国の属国となっていました。一応傀儡政権の王はいますが、ローマの言いなりです。人々にも自由が限られています。宗教活動はある程度認められていましたが、これがやがてローマ皇帝崇拝へと圧が強まると、歴史は大きく動いていきます。
しかしイスラエルには、天地万物を創造した神がいました。この神は古来イスラエル民族を愛し、導いてこの地に国を与えます。人々がこの神を礼拝している間はよかったのですが、どうしても土着の偶像に人心が傾いていくことが度々あり、神はそれを怒るとイスラエルの歴史に過酷な試練を与えてきました。それでもこの民を導き愛しているのだ、ということを告げる預言者という存在があり、この神を慕う人々は、その預言者の言葉を信じました。また、イスラエル人のアイデンティティとしては、もはやこの歴史や預言の書のほかなかったものですから、預言書は熱心に読まれていました。
それによると、イスラエルの国はやがて再興されることになっていました。救い主として新しい王が現れ、あらゆる制圧を払い除け、神の王国が実現する、そういう言葉が信じられており、その王たる救い主、メシアがいつどのように現れるのか、待ち望んでいました。この「メシア」はヘブライ語でしたが、これを当時世界共通語のように見なされていたギリシア語においては「キリスト」と表現しました。どちらも「油注がれた者」というような意味をもつ言葉で、古来イスラエルでは、王の任命式はオリーブオイルでしょうか、油を頭に注ぐというきまりになっていたことに由来すると言われています。
人々は、メシアを待っていました。そこへ、イエスが登場して、癒しや奇蹟の業を行い、神の教えを画期的にもたらしているという評判が立っていました。この方こそ、待ち焦がれていたメシアではないか、と思わせるに十分な情況がありました。
イエスはイエスで、いまついに都のエルサレムに入ろうとしています。日本のように島国ではなく、容易に敵が侵入してくる陸地においては、街なるものは、同時に城壁で囲まれた区域であることになっていました。そこで、首都エルサレムに入るためには、「入城」という形をとる必要がありました。もちろん、門さえ開いていれば、普通に歩いて入ればよいのです。しかし、イエスはこのエルサレムに入るということに特別な思いを懐いていたとすれば、何らかのセレモニーめいたものが必要でした。それとも、この場面はマルコをはじめとした、福音書記者たちが、イエスがキリストであることを鮮明に印象づけるために、脚色したものなのでしょうか。いえいえ、そんな無粋な詮索など、いまはすべきではありません。私たちは福音書を読んでいます。この書から知らせようとする「良い知らせ」を、受け取ることができるかどうか、そのチャンスをもらっているのです。
イエスがどうしてエルサレムに入らなければならなかったのか、これもいろいろ研究者は疑問に思い、調べたり考えたりしています。さあ十字架にかかるぞ、とドン・キホーテが風車に突進したように向かっていくのではないにしても、エルサレムに入ることは、危険が伴うことは百も承知だったはずです。それでも、この神殿でこそ語ることがあること、この神の都においてこそ語る相手がいること、その使命感を否むことは恐らくできないことでしょう。
ともかくイエスは、エルサレムに入ろうとします。しかも、特別な使命を受けて入るということを示す必要があったと考えました。そこで、手筈を整えます。イエスは2人の弟子に命じます。弟子たちの行動はしばしば2人組にするので、その点はどうということはないのですが、実に不思議な命令をします。
21:2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
予定通りにろばは手に入ります。それが私たちには不思議でたまりませんが、たぶん問題はそういうところではないのだろうと思います。どうして「ろば」なのか。いったい「ろば」とは何を意味するのか。
エジプトで奴隷状態だったイスラエルの民をモーセが脱出させたとき、追いかけてくるエジプト軍には、馬がいました。いえ、これは発端に過ぎません。旧約聖書では、よく「馬と戦車」という組合せの言葉がよく見られます。ならば、イエスも、もし軍事的に王となるのであれば、間違いなく馬を選んだことでしょう。そもそもイスラエルにおいて「王」というのは、サウルからダビデというように始まるのですが、その後も、統帥権をもつ軍事的なリーダーを表していました。メシアを待つ人々も、イスラエルを他国の支配状態から解放してくれる、軍事的な王を待っていたのが一般的だったと思われます。その期待に応えるためなら、必ず馬を求めたはずです。
だのに、ろばでした。
では、ろばは旧約聖書ではどういう存在だったのでしょうか。ろばは、明らかに身近な家畜でした。ちょっと検索してみますと、旧約新約併せてですが、「馬」という語は135節に登場します。対して「ろば」は151節です。むしろ「馬」以上に用いられているのです。
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。(創世記22:3)
この場面は切ないものです。アブラハムが、神の約束でようやく与えられた息子イサクを、今度はその神が、いけにえとして献げよと言うのです。指定された山へ向けて、アブラハムは荷物を運ぶのに、ろばを用いていました。
ろばは、このように荷物を運ぶため、また家畜としては、農業のために使われたと思われます。その他、人が乗るためにも、一般的にはろばが適していました。次の場面は、少し長い引用となりますが、非常に面白い特異な場面なので、なくもがなと思いつつ、背景の説明抜きに紹介してみます。民数記からです。
22:21 バラムは朝起きるとろばに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた。
22:22 ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃え上がった。主の御使いは彼を妨げる者となって、道に立ちふさがった。バラムはろばに乗り、二人の若者を従えていた。
22:23 主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たろばは、道をそれて畑に踏み込んだ。バラムはろばを打って、道に戻そうとした。
22:24 主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていた。道の両側には石垣があった。
22:25 ろばは主の御使いを見て、石垣に体を押しつけ、バラムの足も石垣に押しつけたので、バラムはまた、ろばを打った。
22:26 主の御使いは更に進んで来て、右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがった。
22:27 ろばは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。バラムは怒りを燃え上がらせ、ろばを杖で打った。
22:28 主がそのとき、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」
22:29 バラムはろばに言った。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」
22:30 ろばはバラムに言った。「わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」彼は言った。「いや、なかった。」
22:31 主はこのとき、バラムの目を開かれた。彼は、主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見た。彼は身をかがめてひれ伏した。
もうしばらくこの場面は続くのですが、ここで止めます。ろばが喋ったというのも、昨今のアニメや物語からすると、なんの不思議もないような錯覚を起こすかもしれませんが、動物と人間とがまともに対話をしているという、唯一の場面です。なお、このことについては、新約聖書でもペトロの手紙第二2:16がコメントしています。
イエスが馬ではなくろばに乗ったことについては、ヨハネも少し触れていますが、マタイがゼカリヤ書から引用して示しています。
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9:9)
これをマタイは、次のようにアレンジしています。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
マタイは、イエスの出来事が旧約聖書が現実になったというように理解させるように、随所で旧約聖書を引用していますから、この場面でも、マルコのように事実だけを伝えるのではなくて、旧約聖書の背景を説明しなければならないと考えたのでしょう。果たしてマルコがそこを捉えていたのかどうかは不明ですが、ここでマタイは、ちょっと分かりにくいことを書いてしまいました。マタイは「ろばと子ろば」と書いていますが、他の福音書はろばの子であることを書いています。どうやら七十人訳の訳し方に引きずられて、二頭いたと思い込んでしまったのではないか、などという見解もありますが、やはりここは子どものろばが一頭連れてこられたのだ、としておいて読み進むのが無難かと思います。
ともかく、イエスはろばに載りました。人々は、馬ではなくろばに乗った有名人でしたが、えらく歓迎しました。これは軍事的な王ではないのだというイエスの表明であったのでしょうが、群衆はついにエルサレムに現れた噂のメシアかと色めき立っただけで、ろばでも大丈夫でした。逆に言えば、イエスのほのめかしが通用しなかったことになります。
21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
えらい騒ぎです。「ホサナ」というのは、「救いたまえ」のような響きの言葉だそうですが、日本語では、たとえば「バンザイ」くらいの雰囲気で捉えてもよいでしょうか。歓迎と期待とがこもっています。この方こそ、待ち望んだ救世主である、という期待心がありありと窺えます。
大歓迎の群衆とは別に、都の中に住んでいたその他の人々も、これはなんだと騒ぎになりました。群衆はそうした人々に、いま自分たちが迎えたことを自慢するかのように、得意気に「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」(21:11)と説明しました。
場面はここでひとつ区切りを置きます。イエスはエルサレムで行動を起こすのですが、この歓迎の場面から、今日は神の言葉を聞くことにしています。
群衆はとにかく喜んでいます。ろばだから貧相だなどという気にもなっていません。噂の預言者をついに見たということで、満足しています。東京から離れた地で話題になった美少女アイドルが全国的にブームになり、ついに東京に姿を表したとき、大騒ぎになった、とでも想像すればよいでしょうか。
政治の世界でも、時に大いに期待される人物が現れます。それまでいた者に不信感を懐いた人々が、新たな英雄の登場に期待を寄せます。けれども、やがてその新鮮な英雄も、期待ほどの働きをすることができないと分かると、人々の反応は冷たくなることでしょう。かつて熱烈なファンであった民衆が、そっぽを向いてしまいます。そして以前の者に対するのと同様の不信感をぶつけ、非難を始める、といったことを、長いこと選挙を経験していると、日常茶飯事と言えるほどに見てきました。スポーツでも大活躍をした選手が熱狂的にもてはやされ、マスコミもその取材を盛んにして持ち上げるのですが、そのうち勝てなくなると、冷たく切り捨ててしまうことになるでしょう。芸能人などは、テレビという大衆的なメディアで老若男女にさらけ出されるものですから、よけいに惨めかもしれません。「一発屋」などと称され、忘れ去られて行く。あるいは、死んだことにされるというのも珍しくありません。
イエスを熱狂的に歓迎したこの群衆は、一週間と経たないうちに、イエスを捕まえに権力者の手先となって剣や棒を手に追いかけてきます。また、ピラトの裁判の場では、祭司長などに説得され、イエスを死刑にするようにと動かされます。そしてついに、
27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
これが、「ホサナ」と叫んで興奮していた群衆の、次の瞬間の姿です。私は自分の中に、このような要素があることをひしひしと感じます。期待していた人が期待通りにならなかったときに、非難し背を向ける、そんな自分を思うことはありませんでしょうか。異性に対してそのように振る舞ったことがあるかもしれません。憧れて入った会社に、そう感じた人がいるかもしれません。贔屓のチームに高額で入った選手に、そんな不満をぶつけたことはないでしょうか。
イエスの入城を大歓迎して昂揚していた群衆は、がらりと変わりました。このとき、もうひとりのキャラクターに注目できると思います。あの「ろば」です。
ろばは、確かにイエスの許に連れてこられるにあたっては、ドラマチックな経緯がありました。しかし、イエスを乗せて歩いているあたりからは、全く私たちの目に留まらなくなります。「イエスはそれにお乗りになった」(21:7)の後、ろばは言葉の上で一度も登場しなくなるのです。マタイすら、忘れているかのようです。いえ、描く必要がなかったということなのでしょうけれども、とにかくろばはもう登場しません。
では、この現場にろばはいなかったのでしょうか。そんなはずはありません。ろばはいたのです。イエスを支えて歩いていたのです。「主のお入り用」として渡されたろばでした。このろばに自らをなぞらえる、教会学校の子どもたちはたくさんいたことでしょう。それどころか、自らを「ちいろば」と称して、生涯を伝道に生きた牧師・榎本保郎という人もいました。機会があればこの人や、そのお嬢さんのことをどこかでお話しすることができたらと願います。
ろばは、ここではやはり地味な存在です。誰もわざわざろばを見はしません。けれども、イエスを乗せました。イエスを支えました。王として入城するために、人々に意識されなくとも、必要な存在でした。そんな役割、ステキだと思いませんか。
この子ろばが見つかったら、こうしろとイエスは言っていました。「それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。」(21:2) この「ほどく」(luo)は、ギリシア語を学習するときにとても有名な動詞です。動詞の活用を示すのに用いられる代表例なのです。たとえば、同じマタイで、次のように使われています。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
この「解く」は、よいことを意味しています。神の国に入るように許されることを意味し、いうなれば、罪や悪から解放されている、とでも言えばよいでしょうか。究極的にはもちろん神の赦しというところに行き着くのですが、弟子たちもまた、赦しがあることを人々に伝えることが肝要であるという意味にとりましょうか。かの子ろばも解かれたのでした。絆しから解かれたのです。
十年前の東日本大震災のときに、しきりに「絆」という言葉が飛び交いました。それを大切になさった被災地の方々にとって、それはまさに命綱のような言葉でした。但し気をつけたいのは、傍観者が安易に「絆」をあの方々に押し付けることはできないということです。「絆」という漢字は、そもそも「ほだし」と言って、離れたくても離れられない、逃れられないつながりを指すのです。
私たち人間も、罪というものから簡単に逃れられはしません。それから離れたくても、どうにも離れることがてぎません。強い力で結びつけられています。この罪の力から解き放ってくれるものはないものか、と祈ります。そのとき、イエスが十字架の上から招くのです。地上の旅でもさかんに、罪は赦されていると告げ、罪の赦しを宣言しました。それはこの十字架により完了するのだ、と言って招くのです。
「それをほどいて」との言葉に、私は、罪からほどかれて、罪から解かれて、という声を聞きました。そして、「わたしのところ」つまりイエスの許に連れてこられた自分を意識しました。罪の束縛から解放されて、イエスのところへ呼ばれたのだ。子ろばのように、イエスのところに来たのです。
そのろばの働きは目立たないけれども、誰の目にも留まらないけれども、イエスはご存じです。イエスは入城のために、そのろばを待っていました。2人の弟子が連れてくるそのろばを待つイエスの姿が頭に浮かびます。子ろばはうれしくなったと思うのです。イエスを確かに乗せたのですから。イエスが共にいる、それだけのことで、子ろばはいつまでも満足の気持ちでいることができるでしょう。
あなたも、そんな少しばかり誇らしげな気持ちに、なってみませんか。あなたも、ほどかれて、イエスが必要だと言うので呼ばれている、その声が聞こえませんか。派手な働きなどいりません。イエスが共にいますから。イエスのところに、連れてこられたのですから。イエスが、あなたを、待っていたのですから。