【メッセージ】聖書をどう読むかへの提案
2021年2月14日
(マタイ11:2-14)
彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。(マタイ11:12)
図書館で常時本を借りています。その中には、小中学生向けの解説本も時折混じります。やさしく書いてあり、ビジュアル面も優れています。なんだ、こども向けの説明か、と思わないでください。なかなか詳しく、まためったに知ることのできないようなことにも言及されています。もちろん私が知らないようなことがたくさん載っています。でも何より分かりやすいのが魅力です。
一読して分かる。大人ですから、それは当然ですが、とにかく頭にどんどん入って行きますし、理解が進みます。もしこれが、大人向けの解説であったら、もっと時間がかかるでしょう。そちらはもっと詳しいことが書かれてあるかもしれませんが、結局頭に残るのは何かというと、こども向けの本とさして代わりがないでしょう。いえ、むしろよく理解できた分、こども向けの本のほうが役立ったというふうに言えるのではないかと思います。
こうした分かりやすい解説を書くというのは、ことのほか難しいものです。こどもも、それを読んで理解できる。これは難儀です。まず、語彙を選ばなければなりません。こどもに分かる言葉を使います。大人には常識と思える言葉でも、こどもには通じないことがあります。「縁側」も「うなじ」も、「レンゲソウ」も、多くのこどもには分かりません。
しかし、語彙さえ気をつければ通じるとも限りません。何より、説明をする側が、その事柄をきちんと理解していることが必要です。よく分かっていないことを、やさしく説明することはできないのです。
昔、論文などについて、よく言われていました。「難しいことを難しく書くことは簡単だ。難しいことをやさしく書くことが難しいのだ。」何を言っているかお分かりでしょうか。読む人が難しく感じる文章は、書くほうが実はよく分かっていないことに起因するということです。やさしく説明することができないから、難しいままに引用して書くなどするけれども、本質をよく理解していることならば、読む人が分かりやすいように書くことができるはずだ、ということです。いま私の話していることも、難しくしか感じられないとすれば、それは私自身がよく分かっていないからなのでしょう。何か伝わればよいのですが。
聖書を説き明かすのが、説教のひとつの役割です。分かりやすく説明できれば何よりです。けれども、ちょっとここで立ち止まります。説教者が、聖書をとても分かりやすくお話しすることができたとします。それは、その人が聖書を読んでとてもよく分かった、ということになるはずです。ここでは福音書ということにしましょう。私がイエスの言葉の意味を、ここで皆さんに納得できるような伝えることができたとすると、それは福音書記者が、私に分かりやすいように記していた、ということになると思うのです。
その福音書の記者は、イエスの言葉をまとめて、また説明を加えようとしたわけですが、その記者の説明が分かりやすかったというのは、イエスの言葉をよく理解した、ということとイコールなのでしょうか。ここにひとつの疑いが入ります。イエスの話したことを、福音書記者は正しく理解したのかどうか。もしそうであれば、四つの福音書の説明は一致しておかしくありません。正しい理解だからです。けれども現実には、福音書それぞれに、イエスの言葉の引用の仕方や説明の意味その他、微妙に違います。マタイはユダヤ人が分かりやすいように、またユダヤ人が納得がいくように書いているし、ルカは逆に異邦人本位で書いています。ヨハネはまたひとりぶっ飛んでいて、いったい誰が分かるのだろうというような神秘的な書き方をしています。最初に記したとされるマルコも、キリストの弟子たちをこっぴどく悪く書いていますが、こうした点でもマタイやルカとはずいぶん違います。
つまり、こう思うのです。イエスの言葉が確かにあった。それは資料として受け継がれ、記録されていたことでしょう。便宜的にそれを「語録」と名づけます。イエスの「語録」がそこにあったけれども、その意味を福音書という形でまとめて遺すようになったとき、それぞれの福音書記者は、自分の理解で配置し、編集した。そして、時に自分の理解するままに、イエスの言葉や言動の記録を、やさしく言い換えるような説明を加えたのではないか、と。そうなると、福音書ごとに微妙に異なることもよく理解できるような気がします。
イエスの言葉がそこにありました。弟子はそれをまとめて記録しようとします。意味を真剣に考えます。どう説明すればよいだろうか。それはマルコとかマタイとかいう名で呼んでいますが、個人が単独で成し遂げたことはおそらくありえないでしょう。教養のあるメンバーが集まり、これはこういう意味だろう、こういう表現にすべきだなどと話し合ったに違いありません。
ここにこれらの言葉を並べよう。こことここをつなごう。だったらここに繋ぎ言葉を入れたらいい。この言葉はこの場面に置いたほうが分かりやすそうだ。そんな話し合いをしながらまとめられていく中で、イエスの言葉自体も少しずつ改造されていくことがあったことでしょう。
福音書を書いた場所や時期にも諸説ありますから、なんとも分かりませんが、共通の「語録」があったり、独自の「語録」があったり、言い伝えを参考にしたり、様々な形で、とにかくイエスにまつわる言葉や出来事を綴っていこうとしたと思われます。違う解釈でまとめられていくということも当然ありうることです。福音書記者グループが違うことで、いくつかのまとめられ方があったとするならば、福音書そのものの一見矛盾するような叙述も、やむをえないというか、当然のことであったと考えられます。
そこへ、悩みも混じります。「おいおい、このイエスの言葉、どんな意味なんだろう」「それはこうじゃないか」「いや、違うと思う」「そうか。そうかもしれない。じゃ、ここはへたに解説を入れないほうがいいな」「そうだ。意味が説明できない。我々にはよく分からない」「だったら、とにかくイエスのこの言葉を、何の説明もなしにとにかくこのまま押し込んでおくほうがいいだろう」「そうだ。説明なしに、よく分からないけど、とにかく遺しておくことが優先とすべきだろうね」
イエスの言葉の意味を説明しづらい、あるいはしたとしても異なる意見がそこにある。その時には、とりあえず「語録」のまま掲載しておくのが無難ということになります。最初の例で言えば、難しいことをやさしく言い換える理解ができていないのだから、難しいことは難しいままにそこに置いておくということしかできないわけです。意味の説明はできないけれども、せっかくだからこれもちゃんと載せておこう。
こうして、後の読者にとって、難解なイエスの言葉がぽんと置かれていることになります。
以上は、物書きのような立場からの推測です。学問的値打ちは全くありません。福音書にはとくに、やたら理屈っぽく説明するところもあれば、意味不明な謎の言葉がそのままぽんと置かれているところもあり、その差がえらく大きいと感じます。しかし、編集者が自信をもって理解したと思うところは冗舌になるし、さっぱり分からないけど切り捨てるには忍びない内容については、手を加えずそこに並べておくが、そうなるとただぎこちなくそこに嵌め込まれているだけ、ということになってしまいます。でもそれはとても自然な営みであるように思うのですが、如何でしょうか。
編集者、福音書の記者が「語録」をまとめようとしたとき、理解できないときには、こじつけや思いこみなどで無知を遺してしまうことにならないように気をつけます。とにかくこれはイエスの言葉なのだ、とするのです。その解釈は、頭のいい読者が考えてくれ、と丸投げして。
イエスの許へ、洗礼者ヨハネの弟子たちがやってきます。悔い改めよと呼びかけ、庶民の救いの道を拓いたヨハネは、貧しい人々によく慕われていましたが、ヘロデ王にたてついたかどで牢に入れられていました。牢と言っても、軟禁状態であった可能性があります。弟子たちとの接触もできましたが、その弟子たちにヨハネは、イエスのところに行くように頼みます。ヨハネはメシアを待ち望み、その道を拓くものとして自らの使命を意識していましたが、何故かここでは、イエスがそのメシアなのかどうか質問せよ、と遣わすのです。
そしてイエスが答えると彼らはヨハネの許に戻ります。その後、イエスの弟子たちがヨハネについてのイエスの説明を聞くことになります。ここをなんだかんだと説明しようとするならば、それなりの研究がなされていますから、拾ってくることは不可能ではないのですが、ここは聖書解説の場でもないし、聖書講演会でもありません。ずばり核心に入りましょう。イエスは、洗礼者ヨハネを、神の救いの計画の中に必要な存在であると認め、またとない人物であると評しました。そのとき、突然こんなことを言います。
11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
天の国というのは、神の国のことです。マタイは、神の名をみだりに唱えるべからず、という十戒に束縛されていましたから、「神」の名を気軽には使いません。「神の国」と言うべきところを、「天の国」のように言います。天の国が暴力的に奪い取られる、それはいったいどういうことなのでしょうか。
あまりにも時代と共に、地理的にも違う文化の言葉です。時間でも空間でも離れすぎた土地の、謎の言葉です。文化が違えば、言葉だけではどうしても伝わらないことがあります。一見同じ文化の下に共に生きているようでありながら、言葉が通じない、意味が分からない、そんな経験を、私たちはよくしています。若者と年配の人の間で対話ができない、というのは、ありがちではありませんか。いえ、親子の間でもそうかもしれないし、パートナーとの間でそうだと深刻になるでしょうか。上司と部下との間でも、気持ちが通じないということが多々あるでしょう。教会ではどうですか。牧師と信徒との間で、考えていることが通じていますか。信頼関係がありますか。ある、といい気になっているのは、能天気な牧師の独り善がりであるかもしれません。
そもそもこうしたマタイによる福音書の中に記録されているイエスの言葉ですら、果たして「語録」そのものなのか、マタイの編集理解により手を加えられたものなのか、いろいろ研究もなされているし、中には極めて断定的に、ここはああだこうだと決めた本も見受けられますが、実際のところ、ここも謎だとするのが適切であろうと思われます。もし私たちが、聖書の最初の原稿を知りたいという歴史的な目的を第一とするならば、この謎の解明を徹底的になすべきでしょう。
けれども、果たして最初の原稿を求める意味は何でしょうか。オリジナル、それだけが真実で、改変されたものには意味がないとでも言うのでしょうか。
カントの名著『純粋理性批判』は私が最もよく読んだ哲学書ですが、この本には、第一版と第二版とがあります。第一版でいろいろ誤解されたカントは、大きく自ら書き直して第二版を出します。本文の中でも全く書き換えたところがありますが、有名なのは序文です。そこに記された執筆の意図や目論見などは、カント哲学の目指すところを知るために、非常に詳しく研究される対象となっています。このとき、オリジナルであった第一版こそ意味があり、カント本来の思想だ、というように言うことができるでしょうか。むしろ、誤解されないように思い切って書き直した、第二版のほうが、改善されている、とするのが普通ではないでしょうか。事実カントは、この第二版を皮切りとして、さらに『実践理性批判』『判断力批判』と立て続けに執筆し、その後に自らライフワークとした形而上学への道を進みます。尤も、途中で宗教論を書いたときに思わぬ妨害が入り、それに憤ったために大きく道を逸れてしまうことになりますが。
修正加筆をしたほうが、よりよいものになる、という感覚は、現代ではむしろ普通であるように思われるのですが、聖書に関しては、何故か古いもののほうが、そしてついには最初の原稿こそが尊いというように考えるのが当たり前のように見なされています。オリジナルだけが神の言葉であり、加筆されたものは人間の臭いのぷんぷんする邪道のものだということを、暗黙の了解だとしているのは、よろしくないと私は考えます。ひとつには、聖書を神の言葉、つまり背後で神がそれを書かせているのだ、というのが聖書への信仰のひとつの核心であるとするならば、オリジナルのみが神により、改訂は神ではない、とすることの危うさが出てきてしまいます。写本を選んで総合的にまとめた現代の聖書テクストが、神の言葉だとは全く言えなくなってしまうからです。そうです。新約聖書には写本の種類が半端無いほど多く、だから、唯一の神の言葉としての原本なるものが存在しないのは当然なのですが、だからなおさら、そのどれもに神の息がかかっている、と私は考えているのです。
つまり、唯一オリジナルの原稿のみが神の言葉であり、そこにしか救いの力がない、意味がない、とする必要はない、とするのです。確かに、不安なほどに、意見の違う別の写本が多数あります。時にずいぶんと解釈の異なる文章が並行して見つかってもいますし、昔は本文として見られていたのが、その後の研究により、オリジナルにはなかったと発覚したために、本文から除かれた箇所も多数あります。オリジナルの時期にはなかったはずだと犯人扱いされた逸話は、なんとか捨てられずに済んだとしても、聖書には〔 〕付きで異端扱いされている、というのもあります。ちょっと不憫です。
どれも意味がある、というのは、そのどれにひとが救われるか分からないから、という理由を設けます。
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕(ルカ23:34)
十字架の上のイエスが、自分を責め立て痛めつける人々を赦す、感動的なシーンですが、ここにも〔 〕が付いています。初期の写本になかったからです。でも、この言葉に救われた人がどれだけいるか、数知れません。このイエスの言葉を生涯のモットーとして生きた人もいます。真珠湾攻撃の隊長であった淵田美津雄さんは、戦後、この言葉と出会い、キリストに救われた後、自分が殺したアメリカ人のところに伝道講演を繰り返しました。それはそれは勇気の必要な行動でした。酷い扱いを受けたこともありました。けれども、結局このルカによる福音書を訴え続け、和解を得るのです。それとも、彼の信仰の中心にあったこの言葉は、聖書の本文という点で最初になかったとするが故に、彼の言動すべてに意味がなくなるとでもいうのでしょうか。
ひとはそれぞれ、聖書の何らかの言葉を通じて、イエス・キリストと出会います。神と出会います。その言葉は、人により異なります。その人は、その言葉でなければ、神の国に入ることができなかったのです。その言葉を、聖書の中でも価値がないとか低いとか、けなす権利が、私たちにあるでしょうか。日本語訳の誤りが直されることがありますが、誤りだった訳語により救われた人のその救いは、間違いだったとでも言えるのでしょうか。私はそうは思わない。そのひとが救われるために、その誤った訳語の聖書があり、その後から組み入れられた聖書の言葉があったのであれば、大いに結構なことだと考えるのです。そのひとが救われるためにこそ、そこは誤って訳されたのであり、後から聖書に書き加えられたのだ、とまで言ってもよいと思います。聖書は、どんな形ででも、なんでもありで、とにかく神の言葉としてそこにあるという意味で、あなたを救うために、待ち構えていたのです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
コリントの信徒への手紙第一の、有名な個所ですが、パウロですらこのように、ひとの救いのためにはどんな身にも自分を置くことができたというのならば、神もまたそんなことは簡単になさっただろうと思うのです。神はイエスを血に染めるまでもして、ひとの救いの道を拓いたのです。福音のためなら、どんなことでもしたのです。聖書自らが身を裂いて、そのひとが救われるためには、どんなふうにでも書かれることを厭わなかったとして、問題があるとは思えないのです。そのひとが、神と出会い、救われたのであればいい。聖書というものを偶像のように求めるのではなく、聖書を通じて、そのひとが生きたのであれば、命が与えられたのであれば、十分ではないだろうか、と。
まるで功利主義ではないか、と非難されるかもしれません。結果さえよければよいのか。結果を求めるためには何でも手段とするのか。カントを学んだ割には、カントの精神を全く受け継いでいないではないか、とも言われそうです。それでも私は、ひとが救われるほうがいい。聖書をありがたく拝むようなことはしたくない。身を裂いてひとを救ったイエスの愛は、聖書自ら、その愛のままに用いられてよいのではないか、と思うのです。
ですから、もう一度今日のテクストに戻りましょう。せっかく開いた聖書箇所です。ざっとですが、見渡していこうではありませんか。
ここは要するに、洗礼者ヨハネについてのイエスの見解、ひいてはマタイの教会の見解を説明している箇所です。洗礼者ヨハネは、もちろんヨハネによる福音書とは関係のない、たまたま同じ名前であっただけの人ですが、イエスの先駆者、先導者だと認識されています。恐らく、当時イエスよりもっと有名だったと思われます。庶民の信頼が厚かったのではないかと推測されます。悔い改め運動は、権力者にではなく、それに虐げられていた庶民の救いの道を、神に対する誠実な心を通じて示していたと受け止められました。人間自分が正しいとおだてられるのではなく、神の前に罪があるが悔い改めることにより救われるというメッセージは、希望の光となったことでしょう。
その向こうには、かつて神に愛され栄えたイスラエルの国が再興する夢が見えました。ローマ帝国の支配と、同じユダヤ人のエリートたちに見下される屈辱の中で、救いの欠片も見られなかった日常が、洗礼者ヨハネの登場により、神が救う、悔い改めて洗礼を受けるならば神はまずあなたを救う、と希望の道を与えられたと思うのです。
イエスは、この路線の先に、実は預言者たちにより約束されていたイスラエルの救いを全うするメシア・救い主なのである。これが福音書の主張です。このイエスの登場を、元々スターだったヨハネの弟子たちからすれば、怪しく見たというのもストーリーとしては肯けます。そこでイエスを訪ねさせ、ヨハネからイエスへのスムーズな主人公の移行を描いていると思われるのです。
イエスはヨハネを認めます。前座だなどと軽んじることはありません。人間の中で最高の存在だったと持ち上げます。その上で、あの謎の言葉を流したのです。
11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
この辺りの内容は、ルカによる福音書が7章で、ほぼ同じような流れで記しています。ところが、ルカはこの12節と次の節を、きれいに省いているのです。それは、ルカにとりこの句が難解であり、ないほうがスムーズに話が流れる、と判断したためか、あるいは、マタイが別の資料をもっていてここに入れたか、どちらかだと思われますが、しかしマタイにしろ、この言葉の意味がよく分からなかったのではないかと推測します。しかし省くには忍びないため、ここに遺した、という可能性を探ることも可能ではないか、と。
ヨハネにより、時は動いた。イエスのもとにその時がもたらされてきた。この時間は、さほど長い間ではありません。神の国が間近であることを、ヨハネは口にしており、人々はそれの実現を期待することを覚えました。問題は、この次にこう続けていることです。
11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
つまり、かつての旧約聖書の時には、神の国は力ずくで云々ということは見られなかった。いまヨハネがイエスへの道を備えたときに、それが始まった。神の国を奪い取ろうとする激しい時代が始まった、何かが変わったのです。律法学者たちが説いているような神の国や永遠の命というものは、もはや通用しないという、教会の力強い宣言であるようにも聞こえます。ヨハネもまた、過去となったという宣言です。マタイの教会にとり、華々しい活躍と人気を誇ったあの洗礼者ヨハネですら、過去のものとなっていると言っているわけです。ヨハネが神の国を奪おうとしたのだったら、もうそのヨハネの考え方も要らない、とするのです。
神の国を奪おうとするのは、ここから見る限り、悪い側の者のように見えます。すると、誰が奪うのか、ヨハネなのか、この教会はヨハネをふるい落とそうとするためにこんなことを言ったのか、そんなところも邪推してしまいます。もしかすると、それは私のことなのかもしれません。神の国に熱心になることで、他人を裁き、ひとを見下すようなことをしていないかどうか、問われます。
他方、神の国を激しく奪うべきだ、と読むこともできるかもしれません。私たちは、それほど熱心に神の国のことを考えているだろうか、と自問するのです。もっと求めよ。もっと熱心になれ。これもまた、ひとつの問いかけとなるでしょう。私はどうなのか、問われていることを常に意識して、聖書を読むことが、求められていることは確かです。
もう、争わないでいいではないか。イエスがいる、それだけでいいではないか。マタイの教会の意図を適切に汲んだわけではないでしょうが、私たちはもっと自由に、自分なりに、聖書の言葉を受け止めてみることがあってもよいと思います。ただ、それを他人に押し付けるのは御法度です。自分が神と向き合い、分からないことは分からないままでいい、しかし何か神からメッセージを受けたら、それを大切に扱う。自分なりに、神と向き合い、神から言葉をもらう。そしてそれを神から自分への命の言葉だとして、受け止め、受け容れる。それに頼って、自分の生き方を決めていく。日常の言動の基準とする。そのように聖書の言葉を大切にする。すると、そこから喜びが与えられます。こうなってくると、神の国を奪い合うような中に飛び込むよりは、耳ある者として、神の言葉を聞いていきたいと願うばかりです。