神はあなたをひとりにしない
2021年2月10日
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ10:29)
幾人かの学者が指摘していると教えてもらったが、ここで「お許し」という語はマタイによる福音書の原文には全く存在していない。日本語に訳すと、「あなたがたの父なしで、地に落ちることはない」というようになるだろうか。
ある学者は、ここを自分なりに解釈した。雀が地に落ちるのは父なしではなかった、父も一緒に雀の死に伴う、つまりともに苦しんでくださるのだ、と理解したい、と。それは、たとえば東日本大震災で津波に流された人、そこに神もともに流され苦しんでいたのだという慰めを与える理解であった。あるいはまた、地に落ちる雀を神が支えてくださる、という意味だと捉える人もいるという。興味深い捉え方だと思う。津波に流された家族や知人、あるいはほんとうに目の前で自分が手を放したばかりに海へと消えていったあの人のことを悔やむばかりの方が、それにより上よりの慰めを得たとしたら、ただ黙ってその心を心で抱きしめたいと私も思う。
しかし、この聖書の箇所を、そのように受け止めなければならないきまりは、どこにもないのも事実だ。また、この聖書の言葉の意味はこれである、と決めつける理由もないはずだ。
この聖書の言葉はイエスの語ったこととして書かれているが、次のように続けて言葉を結んでいる。
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ10:30-31)
ここと併せて読むとき、果たして一緒に苦しむ神の姿が読みとれるだろうか。「あなたがたの父なしで」という言い回しが、どのような文化の下で成り立っているのか、私は知る者ではない。だから心情的に想像するしかないのだが、「あなたがたの父から離れては」のようなニュアンスをもつ英語の訳が多いことをも考え合わせて、私は、「あなたがたの父と無関係に」という感覚で受け止めている。
ややこしい二重否定を避けてざっくり言うならば、「雀の痛みを父なる神は知っている」ということになる。
たとえて言うならば、子どもがいじめに遭っているとき、親はその子の苦痛を直接知ることはできない。しかし子どもは、親が自分の味方になってくれたら、いくらかでも支えられるかもしれない。もし親がその子に向かって、自分の問題だから自分で解決しろ、私は関係がない、と突き放したら、最悪ではないだろうか。おまえの言い分だけでは事態がよく分からない、と冷静に話す親を、その子はどう思うだろうか。確かに親はその子と同じ苦しみを味わうわけではない。だが、おまえを分かってやりたいという親の切実さは、どうしても求められるのではないだろうか。そして、子を信頼するということも。
人間世界の話は、安易に神の出来事の比喩とはならないため、不完全な例であったかもしれないが、考えてみよう。私たちが苦しんでいるとき、実に孤独感に苛まれることがしばしばであろう。誰も味方になってくれない。誰も自分を分かってくれない。信頼してもらえない。これは辛い。そう、友人であっても、自分のこの苦しみを同じように味わうことはできないのだ。
新型コロナウイルスの感染拡大の中で、生活が絶望的な情況になっている人は、収入が変わらずある人から「気持ちは分かるよ」などと言ってもらっても慰めになりはしないのだ。むしろ怒りが起こる場合が多いのではないか。医療従事者は、現実の病気への恐怖に加えて、家族まで差別されていることがある。まさに孤立なのだ。自分の心の問題であろうとも、思い悩み苛まれる人は、誰に言葉をかけられても、自分のことを分かってくれもしないのに、となおさら苦しくさえなりやすいのだ。
だが、ここに神がいる、と聖書は言う。雀一羽にしても、神はその生きるも死ぬも知っている。神は雀よりも、心のあるあなたをもっと値打ちがあると思っている、とイエスは言う。そのあなたのことを神は見ている、知っている、信じている。あなたを見放すようなことを神はしない。あなたは独りではない。たとえ近くにいる人間が背を向けても、この神というお方は、あなたを知っていて、あなたから離れない。あなたの髪の毛一本一本までも神は関心をもって数え上げ、知っている、そんな方なのだ。
もしこれを信じるならば、希望になりうると私は思う。いや、私はそれを希望にしている。あなたもそうでありうると思う。
もちろん、これは私の捉え方に過ぎない。このように捉えなければならない、などと言うつもりはないし、この聖書の意味はこうだ、などと説明しているのでもない。だから、一緒に苦しむ神をここから読み取った学者もまた、それでよいと思う。そのスピリットで、聖書の各書を読み、どんなところからも、その意味に通じるような理解で説いていくのであれば、それらは全体として、ひとつの福音となっているに違いない。私もまた、そのような理解で慰めを与えられた人がいたら、Es ist gut.(よかったね)という思いのほか余計なことを懐かないようでありたいと考えている。
しかし、そういう解釈があるという知識を得たがために、ここの聖書の箇所はこういう意味なのです、とただ言い切るような説き方をするというのはどうだろうか。それはただの受け売りではないのだろうか。そして、そこに何の希望があるのだろう。何の命があるのだろう。
特にこのコロナ禍において、目に見える形ででも、見えない形ででも、人々は苦しみを覚えている。他の疾病を有する人の命にも影響が出るし、この感染症そのものと闘っている人がいる。その家族や、介護者や医療従事者たちの労苦はいかばかりかとも案ずる。一年間もこうした中にある医療関係の方々が、医療という堤防が破壊されないように決死で働き続けているというのは、奇蹟のようなものだ。子どもたちは好きなように遊ぶこともできず、学生たちも山ごもりして修行しているばかりような勉学を強いられている。世の中のすべての人が、ほかの人との間も物理的な距離を置く必要があり、自分の心を吐き出すことを妨げるマスクが常にあり、互いの表情さえ読み取ることができないというように、コミュニケーションがまともにできないようになっている。
神はあなたをひとりにはさせない。そのメッセージによって、希望が少しでももてるようになれば、と願っている。教会は、聖書を語る。今こそ、ひとを生かす言葉を提供することで、世にも貢献できるのではないか。教会は、それをするように、いま神から期待されているのではないのか。神という存在を通じて、心がつながるのだ。そう信じる道が、まだ残されているのだ。神は、ちゃんとあなたを知っている。人間の親より以上の力をもつ神が、あなたを救うのだ。