オンライン礼拝考
2021年2月8日
2020年当初の緊急事態宣言の時には、キリスト教会も慌てふためいていた。さて、どうしよう、と。危機のときにも機器がある。オンライン礼拝という方法が見出されもした。その機器をもたない高齢者や生活困窮者に対する問題もあったが、それはまた別で考えるとして、集まれない中で、つながる者だけでもオンラインでつながる「リモート礼拝」という形が始められた。
一旦それは解除された。しかし、2021年になろうとするあたりから、福岡も猛然と雲行きが怪しくなってきた。再び「リモート礼拝」に切り換えざるをえない情況になってきた。
前回経験した問題点が、2021年になって果たして生かされているか、改善されているか、それは教会によって様々であろう。それで、当てはまるところと当てはまらないところと様々にあることを前提として、幾つもの教会の配信を目にして、気になるところを少しばかり挙げてみようと思う。つまりは、当初の間に合わせの場面とは違い、その後対策が練られたかどうか、という問いかけである。かなりストレートな表現を以下使うが、もちろんこんなことが少しも該当しない素晴らしい教会もたくさんある。まさにそのことを実践しています、という教会の関係者は、どうぞ聞き流して戴きたい。あるいは賛同するか、修正意見を教えて戴きたい。しかしもし該当しても、どうか感情的にならずに、事態をお考えになって戴きたい。私という個人を、傲慢だとか鼻持ちならぬとか、不快な者として非難するのは結構だが、それでもなお、言っている内容がどうであるかの検討は、教会にとって意味のあることだと理解して戴きたい。
まず、ただ中継してそれで終わり、というところが多いこと。
確かに、礼拝に集まれない信徒のためには、それでよい。だがこれでは、新しい方を受け容れませんよ、という表明に等しいのではないか。会堂で会えば、聖書を手渡すなり、何か話しかけるなり、またこの歌ですよ、と教えて差し上げたりすることもできる。だがリモートではそれがない。いつも教会に来ていて、礼拝の何たるかを熟知している人には当たり前のプログラムであるが、慣れない人には何がなんだか分からない。そのプログラムや、専門用語の意味も分からない。これでは、外から教会に関心をもって訪ねてきても、なんの愛想もなしである。二度と来ないだろう。
仏教寺院の中には、こうしたことに詳しい僧侶がいる大きな寺では、法事の動画に、字幕などで解説を入れて配信しているところがあった。これは親切である。説明によってまた、信仰内容も伝えることができる。
キリスト教会の礼拝配信では、字幕すら殆どない。コロナ禍以前から配信しているところでは、タイトルくらいは文字で表しているところもあるが、礼拝内容の解説は見たことがない(あったらお教え戴きたい)。
経営の方面では、危機はチャンスである、と教えられるはずである。顧客のクレームは、商品やサービスの改善の契機となり、営業を良くするものと受け止めよ、というのである。コロナ禍による危機は、これまで教会に来ていた人をも、精神的に教会から遠ざけることになった。そして、新しく教会に来ようとする人の来訪を不可能にしたばかりか、これまでミッション系の学校からのレポートのために時折礼拝に来ていた学生たちをもシャットアウトすることになった。この危機を、言葉は世俗的で申し訳ないが、新たな戦略として考えていく知恵はなかったものだろうか。
しかし、上の言い方は、私の本位ではない。嫌な言い方をしてしまった。ひとつには、教会の危機などと言うが、場合によっては、教会はもっと潰れてよいと考えている。もし淘汰され、選ばれた教会が残るのであるならば、福音を語れない教会、あるいは逆に世間に愛のないドラの音しか鳴らしていないような教会を、無理に保とうとする必要はないと考える。
そこで私の本音は、つまりこのリモート礼拝の時代にしばしば不満に思っていることは、教会が救いの言葉を伝える意志を示しているように見えないことである。コロナ禍、まさに「わざわい」である。打ちひしがれた羊たちのような人々と、混乱した社会がある。命を自ら落とす人もいるし、命を落とすかもしれないような情況に陥っている人も多い。聖書は、救いの言葉ではないのか。教会は、虐げられた人を救うために、聖書の言葉を伝えるという第一の使命があるのではないのか。聖書を救いの言葉だと信じているのなら、聖書の言葉を以て、ここに救いがある、ここに愛がある、と山の上から大声で響かせることを、今こそしなければならないのではないのか。それなのに……。
その問題点をはっきり伝えるために私は、もうひとつ例を挙げる。これは説教についてである。語る牧師の皆さまにお尋ねしたい。リモート礼拝の中で語るとき、それまで会堂で語っていたときと、明らかに違う「意識」で語っていただろうか。
それは、人々がいなくて話しにくい、などというものではない。私も別の業種で、リモートの画面で話すことを経験済みであるから、体験的にはっきりと断言できる。画面の向こうに届ける語り方は、会堂で語るそれとは明らかに違うのである。また、説教原稿も、「意識して」変更しなければならない。ともかく、これまでとは違うステージであるという「意識」をもって語らなければ、伝わらないのであるが、その「意識」があっただろうか、という問いかけである。
俳優が、舞台で演じるのと、カメラの前で演じるのとでは違うはずだ。テレビ番組でも、観客を入れてのライブと、スタッフしかいない収録とでは、話し方が違うはずだ。(注・これは、舞台がふだんの礼拝で、カメラがリモート礼拝に比せられる、という意味で言っているのではない。たんに「違う」と言っているだけである。)
礼拝の場に出席していれば、おいそれとそこを抜け出ることはできない。せいぜい、居眠りをするくらいのものだ。多少退屈な話をしても、束縛することができる。だが、リモートであれば、途中でスイッチを切ることはあまりにも簡単だ。長年連れ添っている信徒ならばともかく、教会に興味をもってチャンネルを訪ねてきた人が、意味も分からず、ぶすっと知らない言葉ばかり使って話すのを、忍耐強く最後まで聞くということが考えられるだろうか。そこで何が伝わるというのだろうか。いや、語るほうが、いったい何を伝えようとしたのだろうか、と問うたほうがよいだろう。
愛の告白をする場合、シチュエーションの演出や、話す言葉の内容はもちろんのこと、タイミングやムードなど、考えられるかぎりのことを考え、気を払うはずだ。伝えたいならば、それだけ考えを巡らすはずだ。しかし、リモートの向こうにいる、初めてのゲストに対して、いや、普段からつながっている信徒に対してであっても、このメッセージでこれをこのように伝える、という熱意と手段、構成や口調など、本当に工夫をしているだろうか。会場の空気を読みながら話しているのとは訳が違うのである。
マイクを通してであることも、考慮すべき課題である。まして、マイクなしで会場の音を全部拾うような形で音声配信をするなど、まるで伝えようとする意志がないのと同然である。聞こえにくいだろうが頑張って聞いてくれ、とのお願いをしている場合ではない。音量レベルが低すぎたり、椅子の音や子どもの声などが、わんわんと響いたりする礼拝説教から、何を伝えようとしているのだろうか。
マスクをして話す場合もあるだろう。その時には、声もこもりがちであるし、口元が見えないせいもあって、聴者でも聞き取りにくい。シールドなどがあると、スーパーマーケットなどのレジで、聞き取りにくい体験をした方は少なくないだろう。「意識して」口を大きく動かして、しかも明確な発音を心がけて話すのでなければ、伝わりはしない。それまでと同じように、早口でぼそぼそと喋っているなどというのは、伝える意志がないのと同然ではあるまいか。
「こうすれば万全」というマニュアルが決まっているわけではない。問題は「意識して」いるかどうかだ。タレントでさえ、カメラの向こうの視聴者が自分のこの発言をどのように受け止めているか、想像しづらくて不安になることがあるという。だが、精一杯「意識して」想像し、向こうで見ている人々に届くように心がけて話すことができるタレントが、結局好感を持たれ、生き残るのである。そうでない独り善がりのタレントは、そのうちに画面から消えていく運命にある。映っている間が勝負だ。そこで視聴者の心に残ることを言い、また演じることで、タレントは生活している。
牧師はタレントではない。だが、神からタラントを受けて、神の言葉を話しているはずだ。リモートという、全くそれまでと違うシチュエーションにおいて、果たしてその違いを「意識して」語っていただろうか。途中でスイッチを切られないような説教の運びとするために、従来と違う構成を考えただろうか。聞き取りやすい発音を、マスクなどでどうなるのか調べたり、機器を通してだとどうなるか調べたりしてきただろうか。
繰り返すが、いま現在決まったマニュアルがあるわけではない。マニュアルめいたものを、互いに知恵を出し合って、改善していくこと。SNSは、そんなことに使われているだろうか。忖度とお世辞の並ぶ、お友だちの交流で満足していてよいのだろうか。それとも、「いや、大切なことは聖霊が語る、人が稚拙であっても、聖霊が伝えてくれる」と、ものすごい信仰を掲げて、自画自賛を貫くつもりなのだろうか。私には、聖書には、それとは違うことが多々書き連ねてあるように思えてならないのだが。