【メッセージ】神は滅ぼすか滅ぼさないか

2021年2月7日

(マタイ10:26-31)

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10:28)
 
小さい頃、ずいぶんと臆病でした。子どもは皆そうかもしれませんが、夜トイレに行くというのが怖くて怖くて。小さなときは必ず母親を呼んで一緒についてきてもらいました。天上の節穴がおばけの顔に見えて、暗がりでそれが見えるともう眠れません。もちろん豆球はつけたままでしたから、ひとりで部屋にいるとたまりませんでした。
 
怖いものは、人により様々。昔から「地震・雷・火事・親父」がセットとなって、怖いものを挙げるきまりになっていましたが、そのうち最後の「親父」はいち早く脱落した模様です。かつての親父というものは、逆らうと殺されかねないような怖さがあったとも言われています。いや、頑固な私もそれくらい恐れられていたのではないかとも思いますから、今もいないわけではないのでしょう。
 
人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。(イザヤ2:22)
 
怖がるというのではないかもしれませんが、いつも頭を過ぎるのが、このイザヤ書の言葉です。人間はしょせんその程度のものに過ぎないと自分に言い聞かせます。イザヤはここでは偶像のことを話題にしているのですが、ほんとうに恐れるものは神であると告げているのは間違いありません。
 
2020年から、と言ってよいと思いますが、新型コロナウイルスは、相当に恐れなければならないものとなりました。とくに高齢者や、特定の疾患をもつ人は、命取りになると言われていますので、まさに命懸けです。小学生などの子どもは症状が悪化する例が殆どなく、若い世代の人々も、本人はさほど影響なく治ると考えられています。そのため、中にはあまり恐れない若者もいて、それが家族感染を広めている、という事態が懸念されています。逆にまた、若者たちの間でも、家族に移してはいけないから、と慎重に考える人も少なくありません。東京に住む長男夫婦は、当初2020年の5月に福岡に一度来る予定でしたが、事態を考えてそれを断念し、代わりにZoom帰省を実施してくれました。
 
病気はもちろん恐れるべきものでしょうが、私たちは常々、精神的に恐れを抱いていることがあります。自分が差別され、仲間から弾き出されることに対して、とても怖いものだと考えていることです。
 
しかしまた、それどころではない人もいます。新型コロナウイルスの感染拡大の中、ある意味で謂われなき非難を浴びているような、飲食店などの経営者と労働者、また偏見を受ける医療従事者をはじめとする人々などを思うと、いたたまれなくなります。後者は、命懸けで休みなく働いているのに、差別され酷い仕打ちを受けている場合があります。前者は、経済生活そのものが成り立たなくなっていることが多々あります。しかも改善の予測どころか兆しさえありません。これを絶望を呼ばずに、何と呼べばよいのでしょうか。
 
生活に対する恐れについては、「生活不安」という言い方をします。決して「生活恐怖」とは言いません。不安と恐怖とは、どう違うのでしょうか。明確な定義があるわけではありませんが、恐怖はしばしば対象が意識されています。不安は、対象が漠然としている場合が多いように思われます。恐怖は現実に何かに対して恐怖心を懐くことになるのですが、不安は、どうなるか分からない不気味さを伴うことが多いのです。それだけに、不安は何らかの想像力の働きによって懐いている感情であると見ることもできるでしょう。
 
ですから、たとえば動物は、恐怖は感じるかもしれないが、不安をもつことはないのではないか、という捉え方をすることがあります。動物によって違うかもしれませんね。それぞれの動物で、見えて、聞こえて、感覚している世界は、それぞれに異なるといいます。人間が認識している世界なるものも、ある意味で人間だけが感じて知ることのできているような世界であるというふうに捉える考え方があり、私はそれは適切であろうと思います。動物と話ができたら、不安を覚えることはありますか、と訊いてみたいと思います。
 
さて、いつになったら聖書を開くのか、やきもきしていた方もいらっしゃることでしょう。今日お開きしました聖書は、マタイによる福音書の10章でした。その最初はこうでした。
 
10:26 人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
 
ははあ。やはり、私たちが恐れているものの代表格は、人だったのですね。人間ほど怖いものはない。そんな悟りきったような言い方をしなくても、私たちは人間を恐れている、それは本当でしょう。子ならば親、学校なら先生、仕事場では上司など、いまはずいぶん優しくなっていますが、怖い相手もいそうです。世間の人間が怖いとなると、そんなこと言われなくても当然ではないか、との声が聞こえてきそうです。世間の目、とでも言いましょうか、昔はよく「他人様」という言葉を使っていました。いまは図々しくなってきたようで、人を人とも恐れないタイプで厚かましい生き方が常識のようになってきたようでもあり、なんとも言えなくなりました。
 
その恐れから、外に出られない、あるいはひとと交流ができない、というタイプの人も多くなりました。いわゆる「ひきこもり」と呼ばれる人もそうかもしれませんが、私なども根は厚かましいくせに、人前に出るのは嫌で、好ましくない人と話すことにはトラウマもあり、苦手です。表向き、にこやかにおつきあいしていても、内心恐れていたり面倒だと思っていたりもしますので、まぁほどほどに相手をしてやってください。
 
どうして怖いかというと、ひとつには、ここでイエスが言ったように、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」ことがあります。これは、すべてを知る神ならではのことですが、詩編ではすべてを見抜く神の前に詩人は出ています。
 
44:21 このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り/異教の神に向かって/手を広げるようなことがあれば
44:22 神はなお、それを探り出されます。心に隠していることを神は必ず知られます。
 
いえ、このような心変わりについてのみならず、悉く主は私について知っています。
 
139:1 主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
 
詩編はこのように、すべてを知る神の前にいるという前提でうたった言葉です。だからこそ、安心して、心の正直なところを述べるのです。それはもう神に知られているのだという安心感がそこにあります。祈っても神は聞いてくださらない、というようなためらいはありません。神は知る、という信頼がありますから、知られていることは恐怖というわけではないことになります。
 
イスラエル人、それはこのイエスの頃にはユダヤ人とよく言われていました。今もなお、そうです。ユダヤ人は、辛い歴史を生きて、20世紀に再びイスラエル国を建てることができました。そこには政治的に様々な事情がありますが、聖書を知る者は驚きました。世界の終わりに向けて、イスラエルが集まることには意味があると思われたからです。また、このユダヤ人の苦難の歴史は、基本的に、キリスト教徒が追い込み、作り、そして加害者となっていた出来事です。胸が痛みます。私たちは、偏見と残酷さにかけては、最悪の歴史をもつ宗教をいま信じている、と言ったほうがよいと私は考えています。キリスト教は偉いのではないし、優れた宗教だと誇りたい人もいるかと思いますが、私はそうは思いません。優れた宗教だという自己義認があったからこそ、幾多の文明や民族を滅ぼすことを正当化してきたからです。
 
ところで、ここでマタイがイエスに語らせていることが、イエスに基づくものか、マタイがまとめたものか、そうしたことを研究している学者がいます。つまり、マタイによる福音書が成立したのは、早く見積もってもイエスの十字架と復活から半世紀ほど経っている時期だと言われています。半世紀も過ぎていますが、さすがにイエスが言いもしないことをイエスが言ったと堂々と書き記すと、何かと問題になったことでしょうが、それでも、その半世紀後の教会の事情を加味した表現にはなっている可能性は多々あります。ですから、キリスト教が迫害された情況や体験を踏まえた教えをイエスが語ったという記録を残していた可能性は否定できません。
 
迫害は怖いと思います。命を奪われます。たとえば日本のキリシタン迫害のときの記録があります。美化した部分もあるかもしれませんが、信仰を否定しなかったからこそ拷問を受けたり、磔にされたりしたわけです。伝えられる健気な信仰は、決して嘘ではないだろうと思います。二十六聖人の中には、十代の子が5人ほどいて、うち一人(ルドビコ茨木)は12歳だったと言われています。私たちは、想像しなければなりません。それが自分のことであり、自分の仲間のことであることを。昔話、へたをするとお伽噺のように考えたくはないと思います。
 
日本にも、多くの殉教者がいました。秀吉から徳川に向けて、どれほどの残酷な形が執行されたか、一部の記録を契機として、私たちはそれを知り、想像しなければなりません。いったいこの人たちは、恐れなかったのでしょうか。当時の情況だと逃げ場がなかったであろうことを考えても、殺されることに恐怖がなかったのかどうか、いえ、やはりあったのかどうか、苦しくなるくらいに考えてみたいものです。
 
命を奪われても、彼らは信仰を守った。あるいは、自由を守った。人を恐れることよりも、神を恐れていた。基本的人権などなく、治安も悪かった時代、恐れることは、人生の中でいま以上に身近であったことだろうと思います。その中でなおさら、見せしめの刑に処せられていたキリシタンなどの信仰に、どうして生きていけたのでしょう。
 
10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
 
イエスの言葉は、神をこそ恐れるべきであることを教えます。神は、滅ぼすことができるお方だからです。人は、体しか殺すことができない。けれども、神は、体ばかりか、魂までも滅ぼすことができる。魂の救い、魂の自由は、人への恐れよりも強く、ひとの心を支えていたのです。
 
これからどんな時代になるか分かりません。そこまで言わなくても、私たちは身近なところでどんな仕打ちに遭うか分かりません。何も、頑なに信仰を保持せよなどという「きまり」のような教義を押し付けるつもりは私にはありません。但し、意に反することを強いられたり、害を及ぼすことに加担させられたり、私たちの社会生活は、良心から拒みたいようなことが拒めないということは、ありうるのではないかと思います。心ならずの事柄に追従してしまったとき、後々後悔の念に苛まれる場合があるでしょう。それを気にするならば、自分が損をしても、辛い目に遭っても、自分の信念に従うほうを選びたいと思う人もいるのではないかと思います。
 
その時、今日お開きした聖書箇所は、心の支えになる可能性があるでしょう。イエスの言葉が、歩む道を選ぶときに確信を与えることになるかもしれません。いったい誰を恐れるべきなのか。本当に恐れるものは何なのか。私たちの人生の分かれ道、まさに十字路において、選ぶべき道に光を照らしてくれることが期待できると私は考えるのです。
 
ところで、いま神について「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」と呼ばれていました。「滅ぼすことのできる方」というのは、「滅ぼす方」とは聞こえ方が違います。物騒ですが、殺人事件ドラマを想像しましょうか。「俺はお前を殺す」と言ってしまうのと、「俺はお前を殺すこともできるんだ」と言うのとは、だいぶ場面が違うような気がしませんか。「できる」というのは、能力を表してはいますが、それをいまここで実行するかどうかは問わないのです。潜在的にでも、能力をもっているということを意味するのであって、直ちに実行するかを決めてはいません。
 
人間は、魂までも殺してしまうことはできない、とイエスは言いました。これはもう能力的にできないのであって、そんなことはありえない、と言っていることになります。しかし、神は魂をも殺すことができるのだ、というようなことで、その潜在的な能力を示しているのは確かなのですが、神はいま魂を滅ぼすということは言っていません。いえ、あなたがたに対しては、神は決して、滅ぼすという能力を適用しないでしょう。最後に「恐れるな」と言ったのも、そういうことなのだろうと思います。
 
10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
 
こうしてイエスは、具体的な例を挙げて説明を分かりやすくします。空の鳥や野の花など、私たちが見渡すところに知る自然の世界を、あるいは人の有様イエスはよく見よと促します。抽象的な教えを言い放っているようでも、その背景に画が浮かびます。ヨハネによる福音書のイエスは別格ですが、他の福音書では、イエスは非常に具体的なものをイメージしてこそ肯けるような教えを告げているような気がします。というより、具体的なものでこそ、イエスは人々に身近に語ったのではないでしょうか。
 
雀はいけにえに使うというよりも、食材であったのではないかと思いますが、庶民の口に入る安いものだったようです。ルカとマタイとで、ここの表現には微妙な違いがあり、ルカでは5羽の雀が2アサリオンですが、マタイでは2羽が1アサリオンでした。まとめ買いの安さがルカに出ているのでしょうか。また、マタイは訳語の上では「父のお許しがなければ」とありますが、原文は「父なしでは」のような表現が取られています。「父から離れては」のような意味に取る英語訳のニュアンスを鑑みると、「神と無関係に」のような感覚で受け止めてはどうかと考えます。つまり、「雀なんぞであっても、神とは無関係に生き死にしているのではないのですよ。まして神がよく愛している人間は、隅々までちゃんと見ておられますし、神と結びつく心をもっている者を滅ぼすようなことはしない」と言っているように聞くことにしました。なお、ルカでは「神の前に忘れられることはない、」のような言い方をしています。人は雀よりももっと愛されている、人であるが故に、神との霊的な交わりができるのであって、信仰が求められているのだから、神と結びついている心を与えられたならば、何も恐れるものはないのだ、どんな恐ろしく迫害してくる人間どもであっても、この神とあなたとの関係を断ちきるような能力は誰も持ってはいないのです。人を恐れることから、どうぞ解放されなさい。神との強い絆の中にある限り、人の攻撃に最大の恐怖を覚える必要はないのです。
 
私には、イエスがそんなことを言って迫ってくるような気がしてなりません。
 
この神は、私たちへの怒りを、イエスの死のためにぶつけたと考えられています。そんな馬鹿なことをするだろうか、などと心配しなくてよいでしょう。また、イエスがそれを十分知っていて勇猛に十字架に着いたのだ、などと考える必要もないでしょう。私は、アブラハムとイサクが二人で歩いている風景を思い起こします。
 
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
 
神が約束して、絶望的な高齢のアブラハムに独り子イサクを与えたのでしたが、そのイサクを屠って献げよと神は残酷な命令を下しました。アブラハムはそれに従います。心の中ではすでにイサクを葬っているこの父親は、献げものをする目的地に向けて、二人だけで歩いて行きます。イサクは無邪気に小羊はどこかと尋ねていますが、アブラハムは、どうとでも取れるような答えを返します。イサクは内心、気づいていないはずはありません。この後、祭壇に縛り付けられるイサクは、暴れたり叫んだりすることなく、穏やかに横になるのです。
 
二人は黙々と歩きました。先に挙げた会話のほかには、聖書には何も記されていません。黙々と歩きます。イエス・キリストは、その死刑判決の出る裁判においては、特にヨハネによる福音書においては、いくらか謎めいた発言をしますが、概して殆ど語りません。人々に救いの道を説いたようなあのお話は一切せず、黙々と死刑台へと引き渡されます。イエスの心情をそこから知ることはできません。
 
それは、私たちに精一杯、想像して受け止めよ、ということなのかもしれません。あるいはまた、さすがの福音書記者ですら、それが分からなかったのだとも言えます。それを露骨にそこに書いちゃおしまいだと思ったのかもしれません。イサクの心情を、創世記の記者が一切書かなかったように、イエスの思いも説明などしないのです。
 
神は神の正義を貫きます。もちろんイサクはすんでのところで救われますが、イエスは無惨にも十字架刑で殺されてしまいます。人間の手によりその命を奪うことを、神は認めたのです。但し、復活させることで、神のけじめはつけました。神はイエスを、ある意味で滅ぼしてしまいました。私たちですら、他人に暴力を揮うよりもまず、自分を殴ってやりたいという悔しい気持ちに満たされることがあります。それと同じではないはずなのですが、神がイエスを一旦滅ぼしたとき、どんなにか悔しかっただろうかと邪推してしまいます。
 
イエスは、神から選ばれた特別な存在でした。神の子であり、神自身でした。神が滅ぼすとはどのようなことか、そして神は滅ぼさないというとはどういうことなのか、感じとることのできる人間に知らせるための、隠された業でした。人間が恐れる死というものは、人間にとり最大の束縛ですが、それから解放されるための、驚くべき裏技でした。このイエスがあなたがたに言うことを、明るみで、屋根の上で言い広めなさい。恐れる必要がないのだという、このメッセージを、恐れている人々に知らせる役割が、私たちには与えられています。また、そのために、まず私たち自身が、無用な恐れを懐く必要がないということがこうして告げられました。この言葉を受けて、神を正しく恐れることを知るときに、私たちは決して滅ぼされないという希望を、確かに握り締めることができるのです。



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