画を作るのではなく
2021年2月2日
全国大会出場となると、地元の新聞社が取材に訪れる。高校が賑やかになる。出場決定の電話が入るその日、報道陣が待ちかまえている。電話を受けるシーンがよく放送され、選手たちが「やったー」などと笑顔でVサインなどを画面に向ける。無邪気でうれしそうなニュースに、地元の人々は祝福を贈るだろう。
だが、これらはみな「やらせ」である。
このように電話をとってください。さあ、こんなふうにポーズをとって、笑顔でカメラに向かって叫んでください。あ、先生、そこで写真を撮らないでください、画面に妙に入っちゃいますから、放送局のカメラの中に入らないように。
全部、報道側の「制作」した画面である。
学校側の記録のためにカメラを向けた先生はどけと言われ、退くことになる。立派な画が完成して新聞社や放送局が去った後、この先生は、グラウンドを黙々と走る選手たちを見る。日々精進してきた彼らの練習を知っている。いつも黙々と、練習に耐えてきた。コロナウイルス対策に気を使いながら、なかなか以前のようにはできない練習環境で努力を続けてきた。ひたすら走る彼らに笑顔はない。だが、それこそが、本当の選手たちだ。報道すべきは、こちらの方ではないのか。そんなことを思いながら。
テレビカメラがオンのとき、画面ではやたら楽しそうにはしゃがないと、その芸能人にはもう仕事が回ってこない。しかし、オフになると、我に返る。現実に引き戻されて、ぶすっとする人がいるかもしれない。ハイテンションな演技に疲れて。
私たちも、常々画を作る。人からどう見られるか。それは大切な、処世術ではある。だが、聖書はその偽りを神が見抜いていることを告げている。あたりまえだろう。それが分からぬなら神などではない。だが、私たちは神の目をごまかせると簡単に考えていることがある。神は存在しないとしているのだ。
黙々と走る選手たちは、大人の都合にうまく合わせてくれたことになるだろう。どうか自分たちの続けてきたその営みを、大会で生かして戴きたい。私たちはそういう君たちを知ることが、うれしいのだから。