【メッセージ】癒すということ

2021年1月24日

(マタイ8:1-17)

それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、
 わたしたちの病を担った。」(マタイ8:17)
 
先週は、阪神淡路大震災の日がちょうど礼拝にあたっていました。それもあって、『心の傷を癒すということ』という本にも触れました。キリスト教会の中で、この震災について話した説教がどのくらいあったのか、私は知りませんが、散見するというよりも、殆ど目にすることがなかった、というほうが適当ではないかと思われました。「寄り添う」とか「絆」とか、とても耳によく響く言葉を、教会も語ります。その時は。
 
イエス・キリストは、誰もがそんな「寄り添う」など言わず、思いもしないようなところで、淡々とそれをしていたのだということを改めて感じます。弟子たちすら理解しなかったようなことをしていたのだ、と。
 
安克昌さんは「心の傷」の専門医でした。PTSDについての理解が彼の本や活動(だけではないのは当然ですが)で、社会に拡がったのではないかと言いました。心の傷は、外からは見えません。どうかすると、当事者にもよく分かりません。しかし、メカニズムが分かることも期待できないので、悪いところを取り去るのが得意な西洋医学であっても、心の傷は簡単には解決できません。
 
手首の傷は 消えないけれど
心の痛みは 僕がいやしてあげる
優しさで 君のためなら (20歳のめぐり逢い/田村功夫/シグナル/1975)
 
心の傷をも癒すという歌がありました。ここでは、心の痛みを癒すというのが「優しさ」だといいますが、要するに「愛」が傷を癒すということなのでしょう。キリスト教も、ひとの心を癒すために役立つとよいと思います。
 
この歌詞にあるように、「手首の傷は消えない」のですが、確かにからだの傷は、目に見えて残ることがありますから、治ったかどうかについては、ある程度客観的な判定がなされることでしょう。心のほうは、「治った」とごまかせるできるかもしれませんが、実際の傷や病気が「治った」とごまかす訳にはゆきません。
 
マタイによる福音書の8章の特に前半には、三つの癒しの記事が並べられています。本日はそこを開きました。いわゆる「山上の説教」が終わった後、山を下りると直ちに、病人がイエスの許に集まってきたのです。
 
最初は「重い皮膚病」の人でした。イスラエルの律法規定では、このような感染症的なものは非常に厳格な規定で、治癒と社会復帰について決められていました。イエスのように聖書について知る教師がそれを知らないはずがありません。つまり、触れれば汚れるという規定がある以上、病人のほうもうっかり近寄ることができないのが普通です。この「重い皮膚病」とはズバリ「レプラ」ですから、律法に規定された恐るべき皮膚病です。かつて「らい病」と訳され、「ハンセン病」とも読んでいたものですが、旧約聖書の叙述とこれらの病気の症状とは一致しないというのが現在の常識です。日本でもその患者は非常に差別的な仕打ちを受けました。様々な事件や物語もありますが、今日は割愛します。
 
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
 
驚くべき描写です。イエスは触れたのです。汚れるではありませんか。また、この病気が「清い」と認められるためには、やはり複雑な規定がありました(レビ14章)。イエスはなんと一言で、「清い」と言い切りました。意地悪な言い方をすると、「清くなった」とは書いてあるが、「治った」とは書かれていないではないか、と見る人がいるかもしれません。しかしこの人が、その後祭司のところに言って、レビ記の規定により「清い」ものと証明されれば、この人は社会復帰が果たせます。要するに、治ったのです。
 
このことは、昨今の新型コロナウイルス感染症についても、同様の厳密な規定が適用されていますから、いまの私たちにとっても切実に感じなければなりません。複雑な規定がありますが、大雑把に言って、最低10日を経過しなければ退院ができないといいますから、本当にこの旧約聖書の文章なども、実際実感をもって読むことができるし、そう読まなければならないと思うのですが、如何でしょうか。
 
ここでの二つ目の癒しの記事は、ローマ軍の百人隊長からの申し出でした。その僕、つまり遣いの若者または奴隷が、病気だと報告するのでした。「中風」だと訳されていますが、要するに「麻痺」が起こっていると推測できます。実は「癒してほしい」という頼みの言葉はこのときなかったのですが、目的ははっきりしています。家にいるというその僕を癒そうとイエスは言って、その家まで行こうと言いました。ところが百人隊長は、言葉ひとつだけをイエスに求めます。自分が部下の兵士に、言葉で命令すると兵士は動くのだから、神の権威の下にあるイエスも、その発する言葉に力があることを信頼しているというような説明でした。
 
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
 
イエスはこの返答に感心します。そして、イスラエルを支配している宗教的リーダーへの非難を浴びせますが、マタイの気持ちがこめられているような気もします。イエスは百人隊長に、言葉を贈ります。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(13)とだけ言いましたが、その言葉が言われたその時に癒しが起こっていたことを、後から百人隊長は知ることになりました。
 
人間の言葉は、口先だけのことがあります。言ったことと、それを実現することとの間には、限りなく遠い距離があります。しかし神の言葉は、言葉が発されたということがそのまま実現する意味を含んでいます。聖書は神の言葉だと私たちは信仰告白をするでしょうし、説教は神の言葉を語るものだなどともよく言います。けれども、「神の言葉」というものの重みを、改めて覚えたいものだと思います。
 
そうして三つ目の癒しの記事です。イエスはペトロの家に行きます。宿泊のためでしょうか。漁師ペトロの家には、癒すために向かったのではなかったようですが、姑が熱を出して寝込んでいるのをイエスは見ます。とくに尋ねた様子は記録されていません。癒しを求めたというふうでもありません。イエスも、何か言葉を発した訳ではありません。ただイエスは、その病人の手に触れました。すると、熱が去り、姑は起き上がります。「起き上がる」という語は、時に「よみがえる」意味でも使われますが、ここにその意味を読み込む必要はないと思われます。ただ、「イエスをもてなした」はそれでよいかどうか、議論があります。というのは「もてなした」は「仕えた」と訳すことの多い語なので、仕えるようになったことを読み取るのはどうか、というのです。女性が仕えるということは、せいぜいお茶くみ、でなく、食事の支度や身の回りの世話だけである、と決めてしまうのが良いのか、実際そのようなものであっただろう、と現実的に理解するのがよいのか、私は決めることができません。でも、「仕える」含みを以て理解はしたいと思います。
 
三つ目と言いましたが、実は同時にさらなる業がここに書かれています。
 
8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
 
マタイはこの後にイザヤ書を引用して、旧約聖書が実現したのだという、マタイらしい締め括りをつくるのですが、それよりこの記事は「いやされた」とあるのに、なんだか病気ではないように見えます。「悪霊に取りつかれた」者が大勢連れて来られたこと、イエスは言葉でその「悪霊を追い出し」たことこちらは「病人」とは別扱いをされています。精神疾患は、最初に申し上げましたように、容易に原因や症状が決まることが少なく、治療も画一的にできるものではありません。古代人は、いまでいう精神疾患をすべて悪霊のせいにしたのであって、原始的な医学知識しかない情況では、このように記すしか仕方がなかったのだ、とやや見下したような論評も世にはあります。しかし私は「悪霊」という捉え方が原始的だとは思わないし、現代の医学が決定版だとも思いません。物質的なものに還元してしまう考えがお好きな人もいますが、「悪霊」というものをひとつの符合のように捉え、何らかの原因や理由のことを「悪霊」と呼んだのだ、とするならば、説明の素材として用いることは十分可能ではないかと考えます。
 
癒しについて並べられた記事をこうして見てきましたが、これらは一つひとつがユニークで、何かしらパターン的に語られたような気が少しもしませんでした。子どもの絵本などでは、同じことが何度か繰り返されるということがよくありますし、それを子どもたちも期待して聞いているのですが、この癒しの記事のパレードは、どれひとつとして同じパターのものがあるわけでなく、症状もイエスの対応も、言葉や行動についても、様々なケースがあるものだと私たちは見ることができるように思います。
 
様々な癒しの事例が挙げられました。これは、イエスの癒しの業は実にいろいろなものがあるのであって、ひとの傷や病を癒すのに、画一的な方法が取られているのだと教えてくれます。それだから、この霊の壺を買えば病気が治る、などというような売りつけを得意とする宗教を、聖書の教会だなどと、勘違いなさらないように。神は決まり決まった方法で救いや癒しをする方ではありません。そんなものは、ロボットに任せればよろしい。忠最近のロボットには、AIが搭載されているので、決してワンパターンで対処するのではないかと思いますが。
 
キリスト教会にとり、イエスのこのような「癒し」の記事は、どのように見られ、また扱われてきたのでしょうか。聖書に書いてあるならば、神の癒しは起こると信ずるはずです。
 
イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。(ルカ9:1)
 
イエスは弟子たちにも、癒す力を授けたといいます。私たちが主の弟子であると信ずるならば、私たちにも、この癒す力が授けられているのでしょうか。
 
半世紀よりさらに昔の話でしょう。私の先輩のキリスト者がよく話した思い出話に、「癒しの集会」というものがありました。戦後間もない時代に盛んだったのでしょうか。病人を連れて来なさい、とキリストの名の集会が開かれるのです。そして伝道者なり牧者なり、力のある人の祈りが捧げられ、神に癒しを皆で祈ります。病気の親を連れて行き、ほんとうに治ったために、信仰した、という人がいました。何かしら迷信を頼るような方ではありません。信仰を深く知る人でしたが、確かに実際に癒しが起こったことを目撃すると、信仰も強くなるのではないかと思います。癒しの業は、いまもそれをさかんに宣伝する人がいます。身近にもいますし、癒されたという話も伝わってきます。それを「気のせい」とか「思いこみ」とか呼ぶことは自由ですが、神の癒しがあるかないかと問われるならば、あるに決まっている、とは言いたいものです。
 
でも、癒しの集会でも、治らなかった、ということも当然あるでしょう。なんだ、神の業というのもちゃちなものだ。そのように思われると、いまの時代だと大きなダメージを受けるでしょう。情報社会ですから、あっという間に、神の業が実現しなかったことも広まります。それに教会が、癒し、癒し、と騒いだら、カルト集団だと通報されるかもしれない、と考えることが多いのではないかと予想します。そして、冷静に聖書を扱う考えの教会では、癒しの集会など、許されない存在であるかのように考えている可能性があることにも触れておきましょう。 
 
イエスの時代、病を罪の結果だと考えるのが普通でした。少なくとも、そのように考えるのが、宗教的エリートたちの考えであり、教えていることでした。従って肉体的な苦しみのほかに、あるいはそれ以上に、精神的な苦しみが強かったのかもしれません。
 
しかし最初に申し上げたように、肉体的な治癒はごまかしが利きません。癒しがうまくいったかどうかは、客観的に分かるであろうと思われます。
 
そうでしょうか。本当にそうなのでしょうか。そもそも「癒し」というのは、何がどうなったことを言うのでしょうか。また、イエスの癒しがいまなされるとすれば、ほんとうにその「癒し」を期待してよいのでしょうか。信仰するなら、期待しなければならないのでしょうか。いえ、期待という言葉自体が不遜かもしれません。イエスの「癒し」を信じると言い切りたい。でも、その「癒し」とは何のことなのでしょうか。
 
元の状態に戻ったことが癒しだよ。それはそうかもしれません。では、私たちは癒されていると言えるでしょうか。健診の数値が悪くて、治療が始まる。薬で数値の改善を図る。しかし年齢が進むと、どうしても数値が元のように戻ることはありません。血圧は、年齢が高くなると、上がるのがむしろ自然です。ここに「癒し」は存在できないのでしょうか。
 
事故で腕を失いました。元のように戻ることはありません。この人は「癒し」とは無縁なのでしょうか。生まれつき右手がない人がいました。この人は、生まれたときからそうなのですから、癒される必要すらないのでしょうか。それとも、手が生えてくるのが「癒し」なのでしょうか。
 
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
 
これは元来「癒し」とは呼べないような気もすま。先ほどの、手が生えるかどうかということを「癒し」と私たちは普通考えないからです。この盲人は、目が見えるようになることを求めました。しかし、中には目が見えることを求めない盲人もいたのではないかと想像します。目が見えないことで金をもらえる「仕事」というのがあったのです。しかし見えるようになったら、その「仕事」ができなくなります。それを幸福と考えるかどうか、という点では、当事者の考え次第だということになります。見えるようにしたからと言って、すべての盲人が喜ぶかどうかは分からないのです。
 
そのことには、実ははっきりした実例があるのだそうです。吃音の人に対して質問したのですが、もし吃音が完全に治る薬があって無料で飲めるとしたら、飲むかどうかというわけです。すると、多くの吃音者が、飲まないと答えたというのです。どういうことか。それは、これまでの人生で、吃音とつきあってきた自分がいる。自分の人生は、吃音と共に歩んできた。そもそもこの自分というものは、吃音と共に成り立っている。いわば自分のアイデンティティの内にある吃音というものを、ただ消すということは忍びない、というのです。
 
考えましょう。健常者と自認する立場の人々が、障害者や病者に対して、あなたたちが幸福になるためには、このようにすればよい、治してあげよう、というように、親切の押し売りをするという点が、この何十年、厳しく議論されています。  
あなたたち弱い立場の人々が困っていることは分かりますよ。私たちは、あなたたちの味方です。あなたたちが幸福になれるように、何かします。頑張ってください。私たちは運動しますよ、助けますよ。さあ、このように私たちは努力しました。あなたたちはこれで幸福になれると思います。私たちがいろいろ考えて、こんなふうにしたのですから。よかったですね。私たちはあなたたちに寄り添っています。
 
どうですか。聞いていて、恥ずかしく思った人が多いだろうと思います。けれども、半世紀前まではこれが福祉の常識でした。そしていまなお、この時代遅れの優越感を押し付けているような、そして虐げられた立場の人を善意の暴力でさらに押しつぶそうとしているような「善人」が、うようよしています。私もまた、その一人かもしれません。
 
そもそも、病や障害があるということが、何かマイナスなのでしょうか。それは不条理なのでしょうか。病も障害もないという「健康」な人が、いったいどれほどいるのでしょうか。どこにいるのでしょうか。
 
聴覚障害があるというだけで、かつてはできる職業が非常に限られていました。まだ若い早P久美さんが薬剤師になろうとしたとき、それはできないということになっていました。『こころの耳 伝えたい。だからあきらめない。』という本に、その経緯が描かれています。激烈な闘いの末、日本で初めて聴覚障害者で薬剤師免許取得を果たしたのです。その他、自動車運転免許も長らく不可能でしたが、ようやくその道が拓かれてきました。
 
色覚異常というものがあります。軽度であっても、就くことができない職業が多々あります。ところが男子だと、クラスに1人くらいはいると言われているのです。それは信号の色が分からないなら操縦士にはなれなくて当たり前だろう、と健常者は簡単に結論します。しかし見え方というのは、人により様々です。それを画一的に資格なし、と決めつけるのは、健常者中心の社会の側の論理です。当事者ではありません。
 
手足に不自由があっても、車のほうを工夫すれば運転もできます。サリドマイド児として両腕がない状態で生まれたレーナ・マリアさんが運転をしている姿は、眩しく見えました。
 
病がある、障害がある、しかしそれを病として規定し、障害として規定しているのは、マジョリティの側の論理に過ぎないのではないでしょうか。誰しもが、何かしら病や障害を抱えているという捉え方をしてはいけないのでしょうか。一定の恣意的な線引きをして、多くの「健常者」が「こちら側」に入り、その多数派の論理により社会制度やイラフラを構築し、それでは困るというマイノリティを「病」や「障害」のある人として括り、差別している現状を知ることから、まずスタートしていくことが必要なのではないでしょうか。
 
なんとしても、イエス・キリストこそ、このような差別をしなかった、そのお方だからです。キリスト者は、イエスに従うと口では言います。しかし、規定された病気の人に触ろうとするイエスに従うのでしょうか。異邦人の僕を癒すイエスに従うでしょうか。女性を差別せず癒し、また近寄りがたい悪霊の憑いた人を癒すイエスに、同行しているでしょうか。イエスはそして恐らく、元のように戻す「癒し」をしていたというよりも、そのままのその人を大切に扱ってきたのではないかと推測します。その人らしく、その人の人生を送ることができるように、「癒し」をなしたのではないかと推測します。自らその弱さに近寄って、友となっていったのだ、と。
 
「癒した」という記事を、ただ単に、元のように戻した、という意味に私は読まないことにしました。元のようになったのではないこともあったと思うからです。その人の弱さなりに、病と付き合いながら生き続けた人もいたでしょう。傷や障害が残ったまま、それでもその人のアイデンティティを保ちながら生きていった人もいたと思うのです。ただ、社会的に差別を受けるようなことがなくなり、周囲の人とも和解を受け、人々の中で受け容れられる程度に、邪魔な要素を取り去ることは、確実になさっただろうと信じます。「癒し」は人間を新品にすることじゃない。使用可能なように修理はしたと思います。そして一人ひとり、決して不条理ではない病や障害をある程度抱えながら、そのような自分を愛せるようなそのままに、生き生きと人生を歩んでいけるようになったのだろう、と思うのです。
 
私も異常さを抱えながら、しかし確かに「癒し」を受けて、生かされているのだと断固告白します。
 
8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
 
イエスはここで「癒し」を行いました。決して、患いを負ったのでもないし、病を担ったわけではありません。けれどもマタイは、これを引用しました。差別を受けていた人の苦しみと同じところにイエスがいたこと、そして抱えていた重苦しいものを人々は、イエスに任せることができたこと、そのように私は受け止めてみたいと思いました。人々が癒されてピンピンになったようなイメージは、少なくともこの引用句からは窺えません。けれども、病や障害がどこか残りつつも、自分らしく生きていける勇気と手段とをイエスからもらったと口にすることができるような人々のイメージは、ここから窺うことは十分できると思います。もちろん、十字架へまで思いを繋げば、罪という問題にまで踏み込めるでしょうが、この「癒し」の記事からは、私たちの現実的な「傷を癒す」ことについて、十分目が開かれるようになったのではないか、と考えたいのです。
 
震災の遺した傷もまた、心だけのものではありませんから、その「癒し」が、イエスの手によりなされるようにと祈ります。まさに、その「手当て」が受けられますように、と。



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