紅白歌合戦と天気の子

2021年1月9日

今回の新型コロナウイルス感染症の危機の中での紅白歌合戦が異様だったことは、見ていない人も、「無観客」だったという報道で、ご存じかもしれない。先に世代の歌詞について触れたが、今度は災禍についてである。紅白歌合戦に興味のない方ももうひとつだけ話題についてお付き合い戴きたい。
 
東日本大震災のときの紅白歌合戦には、切実なものがあった。
 
震災から八ヶ月余り、復興の文字が浮かびつつも、悲惨な情況にある人々や地域のことは、まだ現実そのものでしかなかった。原発の危険も増し、懸念された。被災者自身も前を向こうとしていた動きはあったが、その地域ではない方面からも、助けようと言う声は途切れず、また日本中で「絆」という言葉が広がった。
 
但し気をつけなければならない。絆は「ほだし」とも読み、これは切っても切れないしがらみをいう。家畜をつなぐ紐である。そこで、災害に遭った人々と、できれば切りたい束縛の紐で結ばれている、などという意味で響く故に、言葉の使い方としては不自然なものを私は感じたが、言わんとしていることを想像できないほど無粋ではない。
 
だがさて、わざわざ結んだかもしれないその絆、今どうなっているだろうか。
 
意地悪な言い方で申し訳ない。
 
たとえば九州からすれば、東北は遠い。距離の故だ。同情したり共感したりすることはいらもあるが、自分の身に直接その津波は来ないと考えている。放射能も間接的だから逆に風評被害を与える素地があった。もちろん、九州に限らないが、自分は安全なところにいて、口先だけであれこれ批評する、という構図もあった。たとえば、原発賛成派の中には、放射能は安全だといまなお吠え続けている人もいる。現地の人は愚かだ、というようなことを言う、自称キリスト教徒までいる。だが、そう言う人の中に、自ら福島に移住して安全性を証明しようとしている人の話は聞いたことがない。もしもいたらお知らせ願いたい。
 
新型コロナウイルスは、昔からいう疫病である。これをコロナ禍と呼んでいる。禍は災であり、災禍という言葉もある。いまこれを災害のひとつとして捉えようとする動きが起こり始めた。この災害は、地域限定ではない。もちろん都市部を中心に脅威を与えてはいるが、日本全体に影響を与えている。否、世界中と言っていい。国や地域によって異なるが、多くの場所で、多くの人々が、不自由を強いられ、経済的に困窮している。自分は安全なところにいて、俯瞰しているというような構図は、基本的にない。
 
要するに、こうした中での紅白歌合戦だったのだ。観客もいないし、ステージでも出演者同士が密にならないように苦慮し、各スタジオで歌うなどもあった。よくぞテレビドラマや映画が撮影されるようになったものだと感動する。最初は謎すぎたウイルスへの対処法が、じわじわ分かってきたということの証拠なのかもしれない。しかし歌はいまだ慎重であったのだ。これでは歌手やバンドのライブ活動はやはり相当厳しい状況にあると言えるだろう。
 
紅白歌合戦を見る人々も、皆がこの災禍の中にある。共感を呼ぶという次元ではなく、同じ俎の上にいるということになる。高みから眺めている訳にはゆかない。切実さが、共有されていたということだ。
 
男女という分け方の紅白でよいのか、この派手なパフォーマンスは何だ、と批判や非難も多い。オリンピックでも何でも、反対者はいくらでもいるし、文句のつけようのない行事というものもそもそもないだろう。これは「合戦」なのかというあたりも、ツッコミを入れることはきっとできる。
 
だが、いまや「シェア」という言葉が普通になってきた「共有」という点において、いまや消滅したに等しい「茶の間」で家族が一年を振り返るような催しがうれしい人も、たくさんいる。切実さも、ほんとうに生活が破綻している人との間では共有できないもどかしさがあるし、医療従事者に対しては依然として差別や偏見が著しい。報道関係でずいぶんとそのことを訴えることが多くはなったが、生活の現場では、医療従事者を遠ざけることは当然のことにようになされている。それを逆に慮って、医療従事者は教会の礼拝に行くのをためらい、休んでいるというのが現状だ。それを、ぜひ来てください、と偏見と闘う牧師の姿は、殆ど聞かない。教会もまた、共有からは程遠い。
 
三が日最後の夜に、映画「天気の子」が放映された。映画終了直後に、映画のシーンを振り返りながら、帆高の語りで特別なエンディング映像が一分間、流れたのである。サブタイトルは「Weathering With You」。映画は、異常気象により変貌した、水没の東京で終わる。世界を元に戻す力があった主人公の二人は、陽菜を犠牲にすることを否んだために世界が変わってしまったという結末であった。新海誠監督は、新型コロナウイルスで変わってしまった世界とこの映画のストーリーとを重ね合わせ、映画を見終わった視聴者に、コロナ禍の時代を生きぬくことへの強いメッセージをこめて、この映像を作ったのだという。そのメッセージそのものは、録画した方はまた見ることができるだろう。私もここでは引用しない。
 
「コロナが収束したら」「コロナ後は」と安易に希望(もはやのぞみではなく希なものだ)語る声があちこちで聞こえる。そう言う当事者が、危険を指摘されているような形での会食を行い、医療従事者を差別しているとすれば、こんな無責任なことはない。
 
私たちは、何を共有できるのだろう。紅白歌合戦なり、天気の子なり、考えるヒントはいくらでもそこにあると思われる。もちろん、聖書もそうだ。



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