何をしたらよい?

2021年1月5日

期末考査や実力テスト、その他講習会などでやることが多すぎて煮詰まっていた息子。それが一区切りついてほっとしていた。しかしちょっと追い詰められたような気がして苦しかったと漏らし、それから解放されてぼうっとしている、とも言っていた。
 
それはそれでいい。だが、いま何をしたらよいだろうか、と問われたとき、ちょっと思いついたことを私は喋った。いつも自分がすることを淡々と続けるのがいいのではないか、と。
 
何の用事が舞い込もうと、何かに追われて走り回ろうと、とにかく自分は毎日これをする、これをするのが自分というものだ、というそういうことを続けるのだ。自分の中の日常というものを貫くということだ。
 
何かに追い詰められるというのは、何か外からの支配を受けることだ。もう何もしたくないというのは、内からの欲求に支配されることだ。けれども、自分の日常というものは、自分がすること。他の何かに支配されない、自分というものがそこにあるとも言える。自分はいつもこれをするぞ、という道を進めばいいのではないだろうか。
 
もちろん、信仰という光を当てると、その道は神との関係の中で備えられ、与えられたものだと言える。神の導きにより進む道なのであって、神と離れた自我を押し進めることではない。しかし、それがあろうがなかろうが、外的な条件に左右されて疲れたりはしゃいだりするだけではなく、自分の世界が日常であり続けるということはできるのではないか。
 
息子からの問いは唐突だが、それに応えようとするとき、まさに私らしい考えが与えられる。対話は、独語では得られない創造をもたらす。



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