【メッセージ】夢を見よう

2020年12月27日

(マタイ2:13-23)

そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。(マタイ2:21)
 
「今日は天気だね」 そう言われても、違和感はないと思います。いや、いま曇っているぞ、と訝しそうな目で見ないでください。言葉の使い方の問題です。
 
では、この言葉はどうでしょう。「今日の天気は雨だ」 これも違和感はないだろうと思います。けれども、いま挙げた二つの文は、並べるとどうなるでしょう。「今日は天気だね」 「今日の天気は雨だ」 お気づきのことと思いますが、同じ言葉が、全然違う意味で使われていました。
 
「天気は雨だ」というときの「天気」は、気象一般を指しています。その「天気」の中には、晴れも曇りも雨も雪も、含まれています。しかし「今日は天気」というときの「天気」は、気象の中の「晴れ」だけを指しています。「今日は天気だね」と言われて、雨が降っているのを想像するのは、雨が降って欲しい時季の農家の方にも、いらっしゃらないだろうと思います。
 
ある事柄を指す言葉が、その事柄の仲間全般を指すカテゴリーの言葉としても機能する。それは、珍しいことではありません。「今日のごはんはラーメンだ」という文にいちいち引っかかるような人は、普通いないでしょう。
 
他にも、同じ語が、場面により全く違う事柄を指すというのもよくあることです。例えば「犬も歩けば棒に当たる」はどうでしょう。出しゃばると悪いことが起こる、と理解しますか。本来の「江戸いろはかるた」では、その意味だったと思われますが、いまは、思い切ってやってみるといいことが起こる意味に受け取ることがかなりあるようです。これはいまはどちらの意味も許容されていると言いますが、さすがに「情けは人のためならず」は、「人のためにならない」というのは社会的に認められていません。文法的に無理があるからでしょうか。
 
もうひとつだけ。小学生に必ず話すのが「適当」という言葉。テストに慣れた子はよいのですが、塾に来て「適当なものを選びなさい」という設問に対して、何も考えずにいいかげんに答えるものかと戸惑う子は、実際いました。「適当」は本来、ふさわしくあてはまるという意味の語なのですが、どういうわけか、いい加減という意味で使われることが多くなり、子どもたちにとってはこちらが主役なのですね。……おっと待てよ、この「いい加減」も曲者ではありませんか。これも元々は「状態がちょうどよい」ことではなかったのでしょうか。
 
そろそろ本題に向かいましょう。小中学生に作文のテーマを指定するとき、よくあるのが「あなたの夢」というもの。将来何になろうかな、その統計は時折報道され、野球選手がどうの、公務員や看護師が多いのと、世相を計るデータとなっています。希望や理想、目的という、思い描く良いものを指す言葉として「夢」という語を使いますが、これは狭い意味であって、広い意味では、夜睡眠中に見る夢のことだと理解できます。心の中にのみ浮かぶ思い(表象)という点でそれらは共通しており、睡眠中の「夢」は、悪夢もあることになります。いえ、現実で最悪のことが起こったときにも「悪夢だ」なんて言いますから、言葉というのはまことに面白いものです。
 
今日開かれたマタイの場面でも、夢が何度か登場します。聖書の文化にとって、夢というのは特別な意味をもっています。
 
その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(創世記20:3)
 
アブラハムが、サラは妹だと言って、ゲラルの王アビメレクを騙した場面ですが、神はなんとアブラハムより先に、よその王に、最初に夢に現れていました。
 
ヤコブにも夢で神は作戦を与えるなどしていますが、なんと言っても創世記で夢と言えば、そのヤコブが贔屓した息子ヨセフです。夢を見ました、と無邪気に兄たちにヨセフが言ったことは、自分に兄たちがひれ伏すというようなもので、兄たちを激怒させました。「夢見るお方」と兄たちはヨセフを揶揄し、結局ヨセフはエジプトへ売られてしまいます。そこでヨセフは、夢を通じて数奇な運命を辿り、とくにエジプトの王の見た不安な夢の意味を解き明かしたことで、エジプトの宰相に出世するのでした。
 
なお、今お話ししたことで混乱なさらないようにお願いしたいのは、これはイスラエルと呼ばれたヤコブの息子ヨセフであって、ほかに新約聖書でイエスの父としてわずかに登場するヨセフのことではありません。
 
もう一人、夢ということで思い起こすのは、預言者ダニエルでしょう。バビロン捕囚の民の中にいたダニエルは、才能を見込まれて教育を受けます。そのときネブカドネツァル王が奇妙な夢を見ます。エジプト王のときには、夢を話した上で、その夢の意味を解くというものでしたが、今度は、見た夢そのものをまず当てろという無理難題をもちかけてきます。ダニエルはそれを易々と解きます。
 
これを聞いたネブカドネツァルはひれ伏してダニエルを拝し、献げ物と香を彼に供えさせた。(ダニエル2:46)
 
かの偉大なバビロニア帝国の王ネブカドネツァルがダニエルにひれ伏すなどありえない図式ですが、ユダヤ人にとりこのような物語は、小気味よいものだったことでしょう。
 
これら旧約聖書でよく登場した夢は、夜眠っているときに見る夢を指していました。神は、人間の睡眠中に、語りかけてくる、あるいは何かを知らせる、という様子を私たちは見ます。預言者はあまりそのような体験をしていません。むしろ預言者エレミヤのように、夢を解き明かす預言者は自分勝手な思いを訴えているだけで偽物だと言って蹴散らします。
 
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。(エレミヤ29:8)
 
このように、夢から語るものは虚偽だ、と言うのはゼカリヤも同じなのですが、ただ、有名なヨエル書においては、夢について注目すべき記事があることを私たちは心に留めなければなりません。主の怒りの日、裁きの時が将来来たとき、預言者ヨエルは悔改めを迫るのですが、そうやって神に立ち帰ったとき、深く神を知り、それからこんなことが起こると言うのです。
 
その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、
若者は幻を見る。(ヨエル3:1)
 
聞いたことのある方が多いと思われますが、新約聖書にこれが大きく引用され、毎年繰り返し説教されるのではないでしょうか。聖霊降臨日、ペンテコステのときによく開かれる、まさにそのペンテコステの日に起こった不思議な出来事について、ペトロが、怪しむ人々にその現象とその背景について説明をする場面でした。使徒言行録にこう記されています。
 
そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。終わりの時に、
わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、
そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
上では、天に不思議な業を、
下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、
太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(使徒言行録2:16-21)
 
ずいぶん長く引用されています。もちろんヨエル書にもほぼこのような言葉があります。「ほぼ」というのは、新約聖書に旧約聖書が引用されるときには、ヘブライ語ではなくギリシア語訳のものが引用されることが多いので、ここでもまた、いま私たちがヘブライ語から訳された日本語を見ているヨエル書と、ギリシア語の新約聖書を日本語に訳した使徒言行録とでは、若干異なるからです。
 
たとえば新約聖書では「若者は幻を見、老人は夢を見る」の順ですが、ヨエル書では「老人は夢を見、若者は幻を見る」の順になっています。さて、こんな書き方をされると、そもそも若者は幻を見ないものなのでしょうか。そもそも老人は、夢を見ないものなのでしょうか。いえ、こうした表現をとるとき聖書はしばしば、同じものを別の言い方で表現するのが常であって、ここでいう「幻」と「夢」は、実質同じものを指していると見ることができると思われます。結局老若男女皆が、夢幻を見るということが言いたいのだと思います。これはもちろん、夜睡眠中に見る夢のことではないでしょう。希望をもち、理想が成立する日がやがて来ることを心待ちにしている、というあたりのことだと思われます。主を知る民は、誰でも、神の国の希望をもつ、というふうに私たちは捉えてよいのではないかと思います。
 
さて、「夢」というものについて、長々と見てきました。いったいいつヨセフに戻るのか、今日開いた聖書箇所に向かうのか、はらはらなさった方、すみません。先ほども少し触れましたが、エジプトのヨセフと同じ名の、イエスの父としてのヨセフがここに登場します。これは偶然であるかもしれませんが、私は何か意図的なものを感じて仕方がありません。
 
エジプトのヨセフは夢を解き明かしました。新約のヨセフは、夢によりさかんに指示を受けます。この場面だけで、三度、行動を促されています。しかも、気づいておきたいのは、ここでヨセフは一言も喋っていないということです。寡黙なヨセフは、ただ聞くばかりで、何も返しません。そして淡々と言われたことを行動に移します。夢を見て、直ちに行動しているのです。
 
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
 
2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
 
ヨセフは夢で神からの声を聞く。そして、起きる。起きることが大切です。目覚めるのです。私などのように、ぼうっと生きているばかりで寝ぼけているような者にとって、目を覚ましていることは容易ではありません。人の気持ちに気づかない、人の困惑も、逆に思いやらも、意識の中に映らないような者は、目を覚まさなければなりません。まさに自分の思いこみばかりの「夢」の中にまだいるわけですから、主からの声としての確かな「夢」を受けて、起きて、ヨセフのように直ちに行動に移したいと願うばかりです。
 
頼りになるこのヨセフは、イエスとマリアを守り導きます。しかもここで、「妻」とは決して言いません。「母」です。まるでヨセフは、この二人を動かすためだけに、聖書に登場しているかのようにさえ見えます。
 
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 
このように、マリアは「母」の役に徹しています。博士が訪問したときにも、「母マリア」(2:11)でしたが、これはやはり当然だとしてよいでしょう。「夫ヨセフ」(1:19)とは呼ばれていますが、マリアは妻として迎え入れた(1:24)というだけで、ヨセフの仕事は、二人の命を救う行動をとるばかりとなっています。
 
エジプトのヨセフも、数奇な運命を辿りながらも、結果的に、飢饉のイスラエルの地にいた兄弟たちを招き寄せ、民族が絶えないように守りました。そしてもちろん、ヘロデの手を逃れるためだけならどこへ逃げようと構わないかもしれませんが、逃避行先はエジプトを宛われます。それは、マタイが、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」とするヨエル書11:1から引用していることからも分かるとおり、マタイがなんとか旧約聖書で言われていたメシアが、まさにこのイエスなのだということをなんとか訴えようとしているためであるのでしょう。けれども、それに尽きない捉え方があると思います。それがこの、エジプトのヨセフです。
 
イエスの運命は、ヨセフと重ねられるのです。それは、血の繋がらない形での父としてのヨセフが導くことによって、イスラエル民族の旅と運命を共にしようとしているかのように見えます。少なくとも、当時マタイの記述を見たユダヤ人は、きっとそのように感じたことでしょう。
 
エジプトのヨセフから四百年ほど後ということですが、イスラエル民族は、ヨセフの活躍を忘れ去ったエジプト人により虐げられていたところを、モーセという指導者によって、エジプト脱出を経験します。ここでもヨセフがまたイエスとマリアを庇い守って、エジプトから夢によって呼び出され、イスラエルの地に戻ってきます。モーセは旧約の律法を著しました。モーセといえば律法です。それでは今度は何なのかというと、イエスが、そのモーセの律法を成就するという形で、新しい律法を宣言したというふうに、私たちは理解しています。
 
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
 
ヨセフという名の人物を通して、イエスが新しいモーセとなって帰ってきます。成長するとイエスは、新しい愛の律法を私たちに、身を以て示すことになります。やがてその十字架の死を経験するというところへ続く道を、もうすでにこのとき歩み始めているのです。
 
ヨセフはさらに、この場面で三度目の夢を見ます。今度は少し表現が違います。
 
2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 2:23 ナザレという町に行って住んだ。
 
ヘロデ王の息子のうち3人が領地を三分割して治めたそうですが、そのうちの一人アルケラオが、ユダヤやサマリアの地を支配することになりました。どうやら圧政で領地の人々に厳しくあたったようです。今回は夢でそのお告げの内容は記されていませんが、イエスを育てるには危険だということで、夢で示されたのか、ヨセフの判断だったのか、定かではありませんが、イスラエルの中でもサマリアよりさらに北、異邦人の地とまで呼ばれたガリラヤ地方に引きこもりました。ガリラヤはアンティパスの支配地域でしたが、アルケラオほどの危険性がなかったということなのでしょう。ガリラヤに戻ると、そのナザレという土地に住んだことが記録されています。引きこもったといいますから、近年よく話題に上る「引きこもり」にも、もっと肯定的な考え方が適用されてよいのだと私は考えますが、いまはそのことは検討できないことをお許しください。
 
ここにあるように「彼はナザレの人と呼ばれる」と預言者たちが言ったそうですが、ここは旧約聖書を探してもどうにも見つからず、この「ナザレ」というのは地名ではないのではないか、という説も出ています。が、いまそうした謎解きに興じることは遠慮しましょう。
 
2020年の主の日の礼拝は今日を以て終わりとなります。私たちは今年、過酷な運命に喘ぎました。日本でも感染症の力は拡大し続けていますが、欧米での様子は情報がよく届くせいか、逼迫し、また経済が機能不全に陥っていることが伝わってきます。アフリカや南米、アジアの一部など、情報がいまひとつ少ないところでも、多くの人が苦しんでいます。聖書にある「疫病」という文字を、どこか他人事のように見ていた私などは、聖書をまともに読んでいなかったことを痛感しました。いったいどこに目をつけて、聖書を読んでいたのでしょうか。ちゃんと疫病、疫病、と度々聖書は記しているではありませんか。現代医学はそんな疫病を抑える科学の力をもち、またたとえ感染症が発生しても、そんなに拡大させずに済んだ実績を以て、大丈夫だと勝手に思い込んでいたのではないかと省みるばかりです。
 
私たちは、この苦難から逃れることを願って止まないし、祈りが献げられています。しかし私たちは、今日「夢」をキーワードに、イエスの受肉後の出来事を経験してきました。夢は眠っているときに見るのが基本でした。聖書にもその基本が流れていると思います。しかし、その夢は、人間の側の願望や脳の記憶調整などといった冷静な記述で説明しきれないものがあると聖書は教えています。つまり、神が人間の意識に介入してくる手段として、夢を用いているような書き方がしてあるのです。神は夢を通じて、つまり人が自分の理性や判断力で防御できない、無防備な状態でいるときに、人の心に踏み込んでくるのでした。私たちは、このような経験をめったにもちません。いえ、一度もない、というのが普通ではないでしょうか。いかに信じると言い、祈りを重ねて、聖書を読んでいても、神が夢の中で告げてくるという経験は、ほとんどないと思われます。
 
でも、私は、逆に考えたいと思うのです。眠る、夢を見る、神が告げる、この順番ではなく、神が告げる、それを夢と呼ぶ、こう捉えたいのです。
 
何が言いたいかと言うと、聖書を読むことを夢と呼びたいわけです。聖書を読み、そこから神の声を聞く。神から私の心に、言葉を注いでくる。神の霊を受ける。自分が変えられる、自分の中に神が踏み込んでくる。その出来事を経験したのなら、それが実は聖書が度々いう、「夢」であったのだ、と捉えてみたいのです。
 
よく見ると、今日の箇所で、天使は夢で現れたとは言いますが、眠っていた、とは書かれていません。言葉を受けてヨセフは起きていますが、眠りから起きたとは限らないと受け止めてはいけないでしょうか。起きるとは、立ち上がること、つまり行動を起こすことである意味で受け取れる言い回しであるのは、聖書でしばしばあることです。神の言葉を受けて、行動を起こしたならば、それは「夢」で告げられたのだ、という方向でこの事態を見つめてみると、聖書を読むことが、夢で告げられることだと思い返すことがあってもよいのではないか、と考えてみたいのです。
 
神の言葉を心に受け容れて、行動を起こす。歩み始める。すると、希望がもてます。願うことの実現を期待する思いが芽生えます。これが、睡眠中に見るのではない、もう一つの「夢」の意味となります。希望です、未来です。これから起こることであり、これから起きるように願うことです。
 
私たちは、こうして、聖書から聞くこと、聖書の言葉を受け容れることによって、その出来事を夢だと称することができ、聖書の中の夢の記事のように、起きて、立ち上がって、歩いて行くことができるようになっていると思うのです。ヨセフは家族を守り導きました。あなたも、家族を守ることができるでしょう。家族でなくてもよいでしょう。友だちを、仲間を、同僚を、近所の人を、守り導くことができるように、促されていると思うのです。そのためにはまず、聖書が告げる神の言葉を、受け止め、受け容れることが大切です。2021年に、私たちが行動し、夢をもつことができるように、祈ります。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります