SNS暴力

2020年12月26日

これは怖い。身に覚えのないことで、ある日突然、見えざる攻撃を受け、集中砲火を浴びる。精神的にまいってしまう。そればかりか、自宅や勤務先に、損壊被害がうまれ、家族への脅迫もくる。
 
2020年、自殺した若者の故に、再び社会問題となった、この暴力ですが、私たちはいつその被害者になるか分かりません。インターネットしていないから関係ない、などということもないのです。これが犯人だ、と情報が勝手に使われて大変な目に遭った人の例もあります。
 
本書は、2020年のコロナ禍、オンラインの業務や教育がやむなく進む中、同じインターネットによる暴力の実情を取材し、それは何故なのかを問おうとしたものです。毎日新聞取材班著ということになっていますが、新聞社だからこそ、情報も集まるし、取材も可能になった面があります。被害者・加害者からの声も提供でき、その背景にあったことも加味して、いろいろと考えていきます。学者の学問的研究ではありませんし、政策的な調査でもありませんが、ただの素人の想像や思いこみではない、現場の力というものを感じます。
 
副題は「なぜ人は匿名の刃をふるうのか」。私も実はやっていたことがあります。もちろん、人の名前を出すことはしません。しかし、やはり当人がもし見たら傷つくであろうような批判の言葉を並べていました。それはそれなりに理由があったのですが、今なら同じことはしないだろうと思います。
 
いや、相変わらず、言うべきこととして、露骨なことも何か言ってはいます。そう、あの暴力的な炎上や独り善がりの正義漢も、これは言うべきことだ、言ってもよいことだ、と考えているからできることなのです。相手が悪い、だから正しい自分がそれを罰するのだ、という単純な論理から、ひとりくらいと思いつつ、何百何千という声を集中砲火するようになってしまうわけです。
 
表現の自由との関係がありますから、法的な対処も難しい面があります。ようやく最近賠償金の支払いが命じられたなどの報道もありましたが、かつては警察も全く被害訴えを相手にしなかった時期もありました。安易に発言を禁ずるということが認められたら、それこそ権力者はそれを用いて、政権批判を禁ずることができるように動いていくかもしれません。実際、そういう実例を私たちは最近見たと思います。
 
被害に遭ったときにどうすればよいか、そういうところまで本書は情報を提供します。その上で、この現象の背後にも、ジャーナリストなりに可能性を見出します。そこに、山本七平氏の『空気の研究』が見出されたのは、ひとつの道だと感じました。キリスト者として考え続けた、日本人の問題性を指摘する本でしたが、いまこの時代に、それを読み返す人が現れたのは、よいことだと思ったのです。
 
取材班は、こう問いかけました。「目には見えず、明文化された規範でもないのに、強い拘束力を持つ日本社会独特の「空気」。SNS空間でもその影響力は大きい。それが誹謗中傷や暴力的な投稿という闇にもつながっているのだとすれば、社会の病理と真剣に向き合う必要があるのではないだろうか。」
 
そうだ、そうだ。教会に属する人、クリスチャンは、手を叩くかもしれません。この世はそうなんだ、と肯くかもしれません。しかし、私は問いかけます。そうでしょうか、と。
 
この見方こそが、この種の暴力の源泉ではないか、と私は考えてきました。それは私自身に対する戒めでもありました。目に見えない拘束力という空気、見回してください。教会の中にありませんか? ない、と言うなら、真理を行っていないのだと思うほどです。教会の中にも、とくに日本の教会は、と言うべきかどうかは別として、私の経験の中では、確かにそれはあると断言します。
 
その存在に気づかない、意識しない、意識しようとしないということが、最も恐ろしい暴力を生むのです。幾度その暴力に遭ってきたか。いえ、下手をすると、その暴力を振るっていたことか、と。



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