人間関係と神との関係
2020年12月24日
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:12)
別の道を通って、というのは、ヘロデのところに戻るな、ということでした。博士たちは、自分たちの国に帰って行くのでした。
聖書が果たしてどんな意図で、何を意味して書かれていたのか、それに関心をもつひともいます。案外ここは、ただのストーリーテラーとして進行を司る部分でしかないのかもしません。
しかし、自分にはこのように思えて仕方がない、ということがあります。たとえそれが、有名な神学者や解釈者が言っていないことでも、従ってある意味で読み方として間違っていたとしても、自分はそのように受け取った、ということがあると思うのです。
さて、それはやはり間違いなのでしょうか。もしその人が、「私はこう思った。だから、聖書の言葉はこういう意味なのだ。それが正しい。それ以外に考えてはならない」と言ったとしたら、それは拙いことでしょう。しかし、「私はこう受け止めた」と自覚し、何かしら生き生きと歩いて行けるのなら、誰も何も咎める必要はないのではないか、と私は考えます。
博士たちは、東の国を出て、生まれたユダヤの王を探しに西へ動きました。その噂を聞いたヘロデ王は博士たちを招きます。密かに招きます。救い主がその子の居所が分かったら自分も拝みたいから知らせるようにと頼みます。「その子」としか言いません。王だとか救い主だとかの名で認めたくはないのです。そして、おそらくは敬虔そうな顔をして、その王に会いたいのだと熱心に語ったことでしょう。博士たちは星の導きでユダヤの王、イエスに出会います。
そこで、それでは約束通りヘロデ王にこの場所を教えなければ、とエルサレムに帰ろうとしたときに、博士たちの誰かに、あるいはもしかすると全員に、「夢」のお告げがありました。「ヘロデのところへ帰るな」というのです。夢は、神の介入です。ストーリー展開としては、何でもありなので、マタイも喜んで用いたことでしょうが、逆に言えば、人の思いにより判断して決めたことでないものは、神からのもの、すなわち「夢」だとしておくことができたのです。私たちは、神からの声を、「夢」と呼ぶのかもしれません。
このとき博士たちが、何か理由を聞いたのか、考えたのか、確認したのか分かりません。とにかく博士たちは、ヘロデに戻る道を選ばず、それとは別の道を通り、東の国に戻ったというのです。
私なら、王と約束した、あるいは王に頼まれたから、当然王に幼子に会えたことを報告しに戻るはずです。あの敬虔そうな笑顔、自分たちを王室に呼び厚遇してくれたその親切に対して、当然礼儀を以て対応しなければならないと考えたに違いありません。義理立てするのが当然だと思うでしょうから。
しかし、博士たちは、神の声を信頼しました。人の歓心を買うようなのとは、別の道を通って、自分の持ち分、与えられた場所へと戻って行ったのです。
教会で集まるとき、教会の中でももちろん人間関係が築かれます。どうしても私たちは人間として、人の顔色を見ていくし、人に気に入られようとします。また、人間関係から教会が嫌になることもあります。そして、親切にしてもらえたら、そこに義理を覚えます。嫌なことも、義理立てして配慮するようなことも、きっと多々あるでしょう。
けれども、神が介入したら、人間関係は無に等しくなります。私たちは人を見に、神を礼拝しているのではありません。確かに、神を愛するように人を愛することは望ましいし、互いに愛し合いなさいと神は命じているのですが、人間的な関係よりも上にまず、神との関係があるという秩序を逆転することはできないのです。