ヒュパティア
2020年12月18日
西暦4世紀末、女性哲学者がいました。哲学書の註解をしつつ、なお数学と天文学に長けていたと言われています。エジプトのアレクサンドリアの最後の図書館長の娘で、その校長を務めました。
そして、キリスト教徒に虐殺されました。
その生涯を描いた映画の存在を知り、調べるとDVDが手頃な価格で買えると分かりました。何日か冷静に考えた末、取り寄せました。
レイチェル・ワイズがヒュパティアを演じ、見事でした。映画のタイトルは「アレクサンドリア」。
アレクサンドリアと聞くと、聖書学における最重要地のひとつであることを思い起こす人がいると思われます。七十人訳聖書の翻訳と、新約聖書の初期の写本とで知られます。しかし、このアレクサンドリアには、紀元前3世紀ごろ建てられたと思われる、アレクサンドリアの大図書館がありました。さすがに長年のうちに衰退し、火災にも遭いましたが、ローマ帝国の支配下になっても細々と続いていたようです。
図書館というよりも、新プラトン主義の学舎のような体であったのではないかと考えられていますが、ヒュパティアはそこで、新プラトン主義の思想を、あるいは天文の計算を教えていたと思われます。映画も、そのシーンからスタートします。
私がヒュパティアの名を意識したのは、ある通読していた本からでした。それ以前にも哲学史の中で触れたことはありましたが、気に留めていませんでしたから、この度の紹介で関心をもち、少し調べると、とんでもないことが起こっていたことを知ったのでした。
映画のストーリーを全部紹介するつもりはありませんが、当時ユダヤ教徒とキリスト教徒、ローマ帝国市民との三つが微妙なバランスでアレクサンドリアに暮らしていました。映画は、それが平和につながっていられるという希望を訴えているようにも見えましたが、映画の中ではそうはいけませんでした。ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教と認めた後、このアレクサンドリア図書館は異教の偶像があったことなどから、キリスト教徒により破壊されます。図書も燃やされ、廃棄されます。ヒュパティアは異教徒としてもなんとか生かされるものの、総司教キュリロスの異教徒迫害からユダヤ人が町から追放され、その後ヒュパティアはキリスト教徒によって、ここに文字で書くのをためらうほどの残虐な方法で殺されました。その学問がキリスト教から見て神を冒涜するものと見えたのかもしれません。
ヒュパティアの著作はすべて失われていますが、間接的な文献で彼女のことは知られるようになり、その後文学や絵画のテーマにも選ばれ、2009年にはこのように映画にもなりました。その莫大な制作費を、興行収入では取り返せなかったようでしたが、それほどによく作られていました。
クリスマス直前に、こんな話題はどうか、とも思いましたが、キリスト教徒は、このようなことを歴史の中でしてきたということを弁えておく、それが私の信仰です。キリスト教を国教とした人がヒュパティアを殺した。映画の中では地動説とその軌道が円ではなく楕円軌道であることを見出すという演出がなされていましたが、天文観測に画期的な方法を用いていたであろうことが分かっており、ともありなんとも思います。
この昔のアレクサンドリアだけで、このようなことが行われたのでしょうか。そうではないことを、私たちは歴史から知っています。中世にピークを迎えた魔女裁判、あるいは動物裁判もありました。近代科学の誕生の頃にも、その楕円軌道の法則のケプラーは比較的うまく立ち回ったものの、ガリレオは宗教裁判にかけられました。さすがに今では、むしろ科学に抵抗する原理主義者のほうが風変わりだと見られるようになりましたが、何も科学を相手にするだけが問題なのではありません。
幾多の文明を滅ぼし、抑圧支配を続けたのはキリスト教です。政治のために使われたなどと弁明する人もいますが、私は、キリスト教がそれに乗っかった以上、キリスト教徒がやってきたと捉えています。人道的な進歩に貢献したのも確かですが、禁酒法が却って地下組織を増強させたように、さも良いことばかりしてきたような自負というものは、棄てなければならないと考えています。
こんなキリスト教を私は信じています。痛みを感じつつ、信じています。加害行為をしてきたキリスト教の歴史を、他人事だとは思っていません。なにも過去のことに責任をとるのかという意味ではなくて、いまのキリスト教徒の中でも、同じようなことを行う可能性を覚えていたいということです。
英語の中で、図書館の破壊や異教徒の殺害のとき、キリスト教徒たちは、十字架を掲げ、「ハレルヤ」と合唱しながら、暴力の限りを尽くしていました。確かにそうだっただろうと思います。
教会が、あるいはキリスト教徒であろう人々が、新型コロナウイルスを信じずにマスクもなく堂々と密集している報道映像を、見たことがありませんか。アメリカで感染が拡がっている背景に、そのような影響が、ないと言えるでしょうか。
日本の教会にはそんなエネルギッシュな反抗はないかもしれません。けれども、権力や不条理に対する戦いの旗を揚げたのは最初確かであったとしても、次第に自分を義とするようになって仲間同士争ったり、誹謗中傷を繰り返したりするようなことは、これまでなかったでしょうか。聖書に書いてある、ということを正義の根拠として、特定の人たちを抑圧している、いわば迫害しているようなキリスト教会がない、と言えるでしょうか。
私の中に、そのような考え方があったことも知っています。いまはないつもりではあっても、きっとあるのだろうと思います。いつの間にか自分が正義となっている。自分の判断が唯一の真理だと思い、他者を悉く間違っていると見なす。そうならないように、と願いつつ、臆病に声を発するばかりですが、決して声をつぐむことはないようにとは考えています。このバランスが難しいのですが。
映画「アレクサンドリア」は、日本語の題名です。原題は「AGORA」です。古代ギリシアの都市国家における、いわば「広場」です。公共空間であり、人が集まるところでした。意見が互いに違うのは当たり前で、根底においては人間としてひとつだという前提を保って対話や議論を行うことができる場所です。自分の信仰が正しいのだ、と暴力を是として反対意見者を殺すような場ではないということです。
そんな野蛮なことをするものか。そうお思いでしょうか。誠実な人は覚えるかと思います。私たちは日々、心の中で人を殺している、ということを。山上の説教など、もう卒業したというようなことは口が裂けても言えない自分を知っていることが、どうしても必要だと私は考えます。ヒュパティアというイメージが、そのことを具体的に、教えてくれたように、いまは受け止めています。