手話通訳者と説教者
2020年12月14日
手話通訳というもの、どう思いますか。とくに教会の方、教会の牧師などの立場の方にお聞きしたい。
どなたも、口ではきれいなことを言います。大切だとか、大変でしょうとか、寄り添うとか、共に生きるとか。しかし、そのことに内容が伴っているかどうか、福音書に照らし合わせてお考えくだされば幸いです。
教会に手話通訳者がいて、ろう者が聴者の礼拝に共に加わっているとします。いまそうでない教会も、いまにそういうふうになるかもしれません。ろう者が訪ねて来たが全く相手にしなかった教会も現にありますから、口先と行動とが伴わない可能性を、自分のこととして捉えて戴いたほうがよいだろうと私は思います。この私が実はその最先端にいるのですが、それ故に口をつぐむのであっては、教会はどんどんダメになります。さしあたり己れの愚かさは棚に上げて綴ってみることにします。
なお、初めに挙げておきますが、いま私のいる教会では、手話通訳者については非常に理解を戴いており、むしろ恐縮するほどです。とくに協力牧師の皆さんは、ことさらにこのことをいつも気にかけてくださっていて、感謝するばかりです。礼拝後にすぐ手話通訳者を労い、ろう者に声をかけてくださいます。まだご自身の説教担当のときには、原稿を「遅くなってすみません」と送ってくださり、ろう者の方によく伝えてください、との依頼の言葉を添えます。実にありがたく、心強く思います。
さて、礼拝の説教が、原稿という形で用意されることが多くなりました。そうしないところでは、手話通訳は大変です。ここでは、原稿がある説教という前提で話をします。
礼拝の、そして礼拝説教の手話通訳とは、どういうことだかご存じでしょうか。手話ができるから、右から左へ、聞いた言葉を手の形に置き換えていくのだ、などと考えていませんか。違います。そのためにどのくらい準備をするか、一例を挙げます。
一週間激務と家事に追われていたその手話通訳担当者は、プロではありません。しかし実際のろう者と共に教会にいますので、手話を覚えるようになると、コミュニケーションには不自由しなくなりました。そして、福音をろう者に伝える、ということに使命感を与えられています。
聴覚が聴者とは違うということは、傍から見て気づかないことでしょうが、実は世界の認識において、むしろ視覚障害者よりも厳しい面がある、などということについては、また別のところから情報を得てください。教会の礼拝ひとつとっても、視覚障害者はメッセージを漏らさず聞くことができますが、手話通訳がなければ、ろう者には何の情報もないままに終わることになります。教会は、ろう者には厳しい場所です。神の言葉を語る説教を、ろう者に対して基本的に閉ざしているからです。
礼拝説教の手話通訳者は、原稿を必要とします。予め、それを読んでおきます。何が言いたいのか分からないままで説教を通訳せよというのは、どこへ行くのか分からないで車を運転するようなものです。まず説教内容を理解します。聖書の詳しい説明については、知らないこともあります。その意味を確認することが必要です。そうした聖書内容についてばかりではありません。手話は、語彙としては数が少ないものです。日本語と一対一対応をしているわけではありません。ひとつの手話で幾つかの意味を表すことができるし、そのために口の形で区別することもあります。しかしすんなり行かないのは、その意味を伝えるために、日本語そのままではできないことが多々ある、ということです。
英語でも、「ある」をすべて「there is」に置き換えることはできないでしょう。「兄弟がある」は「have」を使います。その都度、手話という「言語」の伝え方や語彙などを言い換えるなど工夫が必要とされます。信じられないかもしれませんが、「ことわざ」はしばしば全く通じないのです。それで、そのことわざの表そうとする意味内容を伝える最善の手段を手話通訳者は、考えます。なかなか思いつかないこともあります。
先日の、今井絵理子議員が、国会で初めて手話を使って質問をするということを行いましたが、ご存じでしたか。そのときにも、難しい法律や政策の名を、その意味内容を的確に伝えるために、いろいろ工夫し考え、ろう者と相談して手話を決めたのだという話がありました。
教会で話す説教の言葉は、神の言葉であり、いのちの言葉です。そのいのちを伝えようとするために、この工夫の作業は非常に気を使います。まず自分がよく理解し、受け止め、それを伝える手話の最善の方法を考えます。それも、実際の礼拝の中では、ゆっくりとやってはいられませんから、時間的な問題からも、表現の仕方をあれやこれやと考えて、また手を動かしてみるわけです。
知らない語彙もあるでしょう。手話辞典を引きます。それを全部頭にインプットできそうにない場合もありますから、原稿にメモを入れます。時に手の形をイラストで描くこともあるし、どの手話を組み合わせてするか、連結技を書き留めることもあります。このためにも、原稿は必要なのです。
その手話通訳者は、自分が説教者であるという自覚をもっています。説教者に働く神の霊と同じものを受け、その霊が伝えようとするそのままに、福音を伝える気持ちでいます。説教者と一体であるという意識です。そうでないと、ろう者は、その手話通訳者を見て神の言葉を聞くのであり、そこからいのちを与えられることを願っているわけですから、福音を聞くことができません。もちろん、これは福音伝道という意味のことだけを言っているのではなく、何よりもそれは神を礼拝するという営みですから、共に礼拝するという機会をどう理解するか、ということにかかっています。手話通訳者は、ひたすら音声による礼拝プログラムを聴者がつくったために排除されている、そのろう者たちを共に礼拝する出来事につなぐための架け橋となっています。だから、説教に限りませんが、音声によってなされるすべてのプログラムを、ろう者に届ける唯一の窓となります。ろう者の耳になるのです。
だからまた、思いつきで書いたのではない、説教者の原稿を尊重し、耳で人が聞くそのままのことをろう者も聞くことができるように、との願いと祈りをもって、準備に取り組みます。ここでの通訳は、その場を乗り切るというものではなくて、本の翻訳者にも等しいものとなっているのです。こうして翻訳を考えた上で、それが手で動くかどうか実際に動かしてみます。リハーサルをするのです。こうして、説教者が語る時間の数倍の時間をかけて、準備を調えていくのです。説教者と同じ心になって、同じ神からの霊によって、ろう者にも同じメッセージを届けたいからです。
ところが、こうした背後の切実さに、何らリスペクトを払うことのできない説教者がいます。ある手話通訳担当が、原稿を求めたところ、「それを何に使うのか」と怪しみ、拒んだ牧師がいたそうです。何に使うことを恐れているのか。通訳者を信頼できないのか。ろう者に福音を伝えるために必要なこの予めの手だてを拒むということは、ろう者には自分の語る福音は適切に伝わらなくていい、と切り捨てていることになるという自覚もないのです。つまりは、ろう者に福音を伝える気持ちがないわけです。こうした人が、きっと普段は、障害者のために祈りましょうとか、寄り添いましょうとか、美しい言葉を語っているのだろうと思うと、腹が立ちます。
関心のない方はニュースが流れてもお気づきではないと思いますが、近いところでは、当時官房長官だった後の総理大臣が、新しい元号を発表したときの事件があります。手話通訳者は、新しい元号を「めいわ」と手話で伝えたのです。どうしてだかお分かりでしょうか。新元号は、発表まで秘密であるために、通訳者にも知らせていなかったのです。それを、ぼそぼそと発表したのを「めいわ」と聞いて、即座にそれを指文字で表したというわけです。事前に原稿を渡さないということは、政府の、手話通訳者に対する無理解と無知とを表していましたが、なんのことはない、原稿を渡さない説教者は、これと全く同じ有様だということを知って戴きたい。
確かに説教者は、ずいぶんと長い時間をかけ、悩みながら説教を組み立てます。私もそのくらいのことなら分かります。しかし、失礼な言い方をしますが、牧師はそれに対して俸給があります。牧師が語る時間の何倍かの時間をかけて手話通訳を実現する通訳者は、いわばボランティアです。自分では手話ができないために、ろう者に福音を伝えることができない説教者が、なんとろう者にも届くように通訳してくれる人がいる。英語に翻訳してくれる人がいてこそ、世界に読まれる文学作品となるというような事態です。自分になりかわって福音をろう者に伝えるボランティアの働きに必要な原稿を渡すのを渋るということは、福音宣教にも意欲がないばかりか、通訳者へのリスペクトもなく、ろう者に救いはいらない、と宣言するような行為と見られないでしょうか。失礼に言い方ばかりしていますが、その事実に、気づいて戴きたいのです。
戴いた原稿は、そのときに調べたり、このように伝えようと決めたメモを書き入れています。これは、たとえば同じ聖書箇所からまた説教がある場合に、非常に参考になります。同じ箇所ではなくても、関連した話題があるときに、そのメモが活用できます。学習の軌跡にもなるわけです。こうして手話通訳者の働きのための財産になるし、ひいてはろう者が福音を聞き、共に礼拝をささげることを可能にすることに貢献する財産になると言えます。何の理由だか分かりませんが、原稿は渋々渡したが、終わったら棄てろと命じた説教者がいました。悪用されてはいけないのでしょうか。悪用された経験があるのかもしれません。すると、福音を伝える通訳者への信頼がないことになります。いったい、これを信頼できずに、神を信頼することなど、できるのでしょうか。自分の説教の文章を誰かがもっているということが恥ずかしいのでしょうか。そんな恥ずかしい説教ならば、しなくてよいではありませんか。年配の方でしたから、もしかすると、昔の「手真似」と呼ばれていた頃の手話の意識しかないのかもしれません。とにかく、手話通訳やろう者ということに対する想像力は残念ながら皆無であったと言わざるをえません。世間一般のほうが、いまはもっと理解が進んでおり、小学生たちは学んでいるために、もっとすぐに気づくことではあるのでしょうが、いくら口で差別はいけないとか抑圧することは悪だとか繰り返していたとしても、自分がまさかそうしたことをする可能性があるなどとは、微塵も思わないでいるのではないかと推測します。
要するに、用が済んだら原稿をコピーして広めるようなことをされたら迷惑なのですぐに処分してくれ、などというのは、教会の手話通訳者がそのようなことをするはずがない、というあたりまえの信頼ができないことの表明であり、そのような付け加えをわざわざするということは、言葉が足りないのではなくて、言葉が多すぎるのです。「よけいなこと」なのです。子どもにおつかいを頼む親が、「万引きをするな」とわざわざ言うでしょうか。それは傷つける言葉だとは思いませんか。そういう想像力をお持ち戴きたいのです。
盲導犬をご存じですか。視覚障害者の目となってくれる賢い犬です。それだけ訓練された犬だけが盲導犬となります。その厳しい訓練のために、必要とする人に派遣される盲導犬の数があまりにも足りません。この犬は、レストランにも入ることができることになっています。しかし、今でもなお、追い出される場合が後を絶ちません。外につなげと命じたり、なんだかんだと理由をつけて断ったりするのです。渋々(ほんとうに渋々らしいですが)入れたとしても、犬に吠えないようにとか、そそうをしたら訴えますよとか言ったり、囁いたりすることもあるかと思います。
こうした話に、教会の説教者は、百パーセント、それをよくないことだと言うはずです。誰をも迎えましょうとか、その人の身になってとか、必ず綺麗なことを言うと思います。では自分の教会に盲導犬が来たらどうするでしょう。恐らく、そこで断ったらすべてが台なしだと判断して、なんとか受け容れることでしょう。もちろん、喜んで迎える人もいることでしょう。
しかし、その同じ人が、手話通訳者に原稿を渡すのを渋ったり、渋々渡してすぐ棄てろと言うのです。通訳者を犬に喩えるのどうかとも思いますが、現実に、盲導犬と少し似た立場にあります。この働きを感じ取れないというのは、まだまだ仕方がない面もあります。無知であることを責めるつもりはありません。しかし、教会はかなりの場合、口ではきれいなことを言うのです。「もしかして自分は、口で言っていることと逆のことをしているのではないか」と省みることのできる人は、まだ幸いです。人間はなかなか自分のことは分かりません。こうして吠えている私も、ある立場の人を傷つけていることになるだろうと思います。すみませんが、強い立場の人を傷つけることに対しては、ご辛抱ください。その強い人が、多くの弱い人を傷つけるのを防ぐことがあるならば、私は強い人を傷つけることはするかもしれません。そうではなく、弱い立場の人を苦しめるようなことを、無知故に気づかずに言っているということを恐れているわけです。いえ、きっとあるでしょう。どうぞご指摘ください。私はそこから学びたいと思います。
なお、「事後直ちに棄てろ」と言われたあの手話通訳者は、手話通訳者への不信感と蔑みのようなものを感じて悔しくて悔しくてたまりませんでしたが、立派にその説教の手話通訳を全うし、礼拝が終わった瞬間、原稿をびりびりに破って棄てました。これがお望みなのでしょう、と。まるで、聖書を読んだら破れと命じられたのと同様であり、ヨヤキムが巻物を燃やすようなことを自らしなければなりませんでした。
さらに、その説教たるものが、何を言いたいのか分からないようにまとまりもなく、原語を巧みに説明はするものの、自分が聖書記事を批評しているだけの全く命のない、学者先生の「講演会」でしかなかったことで、余計に立腹していましたけれども、当のろう者には、その中から立派に福音のメッセージを自ら伝えることに邁進していたといいます。
福音書には、綺麗事を言う人のことがたくさん書かれています。正しいことを言う人、そして自分が苦しめている弱い人々を虐げ、苦しめているのにそれに気づいておらず、自分はいつもよい教えを話している、と思い込んでいる人のことが書かれています。時折、自分は何か間違っているのではないだろうか、と予感する人が描かれ、こっそりイエスのもとを訪ねたり、イエスに心から教えを求めたりしています。しかし、自分が間違ったことをしているはずがない、との確信犯的な態度をとる人たちは、イエスの救いの中には入ることがありませんでした。
手話通訳者は、その説教者が自分の口では語ることを伝えられない人々に、説教者になりかわって、説教者の言おうとするとおりに伝えようと、そして共に同じ神を礼拝しようと、無報酬で時間を献げ、知恵と体力を使って、(説教者から見れば)福音を伝えてくれる存在です。そうお感じになってくださった方は、きっと、福音書に書かれてあることの意味が、ほんとうにお分かりになっている方であろうと私は思っています。
しかし最後に、私も敢えて「よけいなこと」を吐き出します。全くこんなことを言われる筋合いはないような、すばらしい説教者が多いなか、心が痛みますが、そうでない説教者がいるので、そこに届くように、「よけいなこと」を申し上げます。めったにここまでは言わないので、ここだけを見て不当な攻撃をなさらないでください。牧師たる立場の人にそのようなことをされたこともあるので、どうか初めから申し上げている手話通訳ということ全般を視野に入れて、考えてくださるよう、お願いします。
手話通訳者のいる教会で説教する機会があったら、自分の説教のためにこれだけ労苦を払って福音を伝えようとしている手話通訳者がいることを誇りに思い、どうぞ説教者は命懸けで福音を語ってください。衒いのためか、笑いをとるためか分かりませんが、悪質な冗談は使わないでください。説教者の信仰を見せてください。自分が神の前に立ってどんな風景を見たのか、見せてください。説教者をメッセンジャーと呼ぶことの是非はあるかもしれませんが、もしメッセージを届けるメッセンジャーであるとしたら、それは「天使」を表す言葉でもあります。神の遣いです。神からの告知をする役割を、少なくとも壇上では担っていることになります。ただの人の言葉や人生訓、調べた知識程度のことなどをそこから聞くために、私たちは労務の果て、嫌な世間での辛さに耐えた後に、教会堂までやってくるのではありません。命の息を受けるため、神を礼拝するために、信仰をもって喜び集まるのです。神の言葉が出来事になる、という理解をする人もいます。説教はそういう時間空間であるのだ、と。そのためにはまず説教者が神と出会い、神から言葉を受けなければならないのではありませんか。そしてそこで与えられたいのちの言葉と物語を、これはいのちの言葉なのだ、と懸命に語ってください。お願いします。