【メッセージ】迎え入れる

2020年12月13日

(マタイ1:18-25)

ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。(マタイ1:20)
 
クリスマスを前に、Cさんが教会のメンバーに加わることになりました。もう仕事を引退しても良い頃合いなのですが、こき使われるような仕事に誠実に取り組んでいる方です。もう何年か前からその教会の礼拝に参加していたのですが、以前の教会から転入することが、諸事情でなかなかできなかったのです。いまの教会で迎え入れられるためには、自分の信仰や教会に対する考え方など、いわば自己紹介をする必要があります。
 
Cさんはろう者のひとりです。片耳は、補聴器で音を感じることができますが、基本的に手話を使います。ひじょうに勉学にも励まれて、察しがよいので、聴者の唇を上手に読むことができますので、かなりコミュニケーションはできますし、口からも一定の発案が訓練されていますが、聴者に比べるとやはり聞き取りにくいことは否めず、手話を使いながら発音をすることが普通です。
 
教会に転入するときのその自己紹介、これは教会では「証し」などと言いますが、このときにも、壇上でCさんは、手を動かしながら、口からも言葉を出すという、聴者を前にしての普通のスタイルをとりました。
 
けれども、印刷された原稿も用意しました。Cさんの配慮でもありました。自分の手話は、手話を解する何人かしか分からない。それと共に発音もするが、十分伝わらないだろう。それでは何をここで話したのか、伝わらない。だから文章で伝えれば、皆さんに自分の信仰を伝えることができる。そんなふうに考えたのではないか、と推測します。
 
では、Cさんにお話をお願いします。司会者がこれを言っただけであったら、情況は変わっていたことでしょう。しかし司会者も気遣いがあったのか、こう付け足したのです。「お手許に証しの原稿があります」
 
Cさんは壇上から、手話と語りで、自分の話を始めました。しかし、聞いている人々の多くは、原稿を手に、それを読むようになりました。
 
Cさんは、とくに手話賛美が好きです。補聴器を通じてわずかに感じるサウンドやリズムを頼りに、豊かな賛美を手話で表現します。その様子を見て、周囲の人々も、「手話はいいですね」と目を細め、感動を覚えていた、それも決して嘘ではありませんでした。けれども、その方々も、この原稿のほうに熱心に見入り、Cさんの手話はもちろん、顔さえも見ようとしていませんでした。
 
原稿を読むのが悪い、などとは申しません。信仰の体験をその時に確実に理解するためには、手話を見ても分からず、発される言葉も曖昧に聞こえる通常の聴者にとっては、原稿の文字を見たほうがよかったことは事実です。そのほうが、理解できたのは確かでした。
 
そんな中、賛美リーダーのSさんは、原稿を手にせず、壇上のCさんを食い入るように見つめていました。若い女性です。手話には興味がありますが、使えるとまでは言えず、従って読み取るということも難しいはずでしたが、Cさんが伝えようとしていることを見逃すまい、と見つめ続けていました。
 
推察するに、原稿は、持ち帰って家でも読もうと思えば読める。けれども、いまライブでCさんが伝えようとしていることは、いまここででなければ受け取ることができない。いえ、Sさんの思いを私が勝手に決めることは許されませんから、これ以上は控えます。ただ、原稿ではなく、Cさんの証しを熱心に見ていた、それだけは確かなことでした。
 
こんなクリスマスシーズンのスタートを経験した私は、いまから、いわゆるクリスマスの記事を開くことになります。イエス・キリストの始まりを、マタイが説明しているところです。
 
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。
 
「誕生」という箇所は、この1章の冒頭の「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」の「系図」と同じ語です。要するにどちらも指しうる言葉だということですが、これが genesis 、つまり「創世記」を表す語であるところは、気に留めておいて損はないと思います。これはイエス・キリストによる創世記の叙述だったのです。だから、四つの福音書のうち、どうしても最初に、つまり聖典の冒頭に掲げなければならなかったのです。
 
と、言葉に感動している間に、次の表現なのですが、どうにも私は馴染めないで困っています。
 
1:18 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 
主語と述語というのがあります。ここで「母は婚約していた」というのです。しかし「婚約者同士が一緒になる前に妊娠していることが明らかになった」と言っています。もうめちゃくちゃです。妊娠したからこそ母なのであり、それに先立って母が婚約していたなどと言われると、私は大混乱します。もしかするとこれは、息子のイエスが思い出しているのでしょうか。「母はそのとき婚約中だったのですが、結婚前に私を妊娠しました」と回想しているのなら、少し分かります。でもたぶん福音書はイエスの目線で語っているとは思えない。さて、どうしたものでしょう。「穴を掘る」というように、結果や目的を先取りして言う表現のひとつなのでしょうか。だとしても、次の節の「夫ヨセフ」が気になります。結局ヨセフは「父」にはなれず、「夫」であるということを含んでいることは確実です。
 
さて当時、「婚約」という制度には、私たちの社会とは少し違う意味合いがこめられていますので、それには触れておきます。当時の「婚約」は、実質結婚生活と等しかったということです。婚約は契約の一部であり、花嫁の代価が男の側から支払われると、婚約の契約が成立します。こうなると契約なので、安易に解消はできなくなります。結婚と同じくらいの拘束力が生じることとなりました。通例1年くらいの期間をもって婚礼の宴が開かれ、1週間とも2週間とも言われるほどの間、祝宴が続きます。その最初の日に二人は床を共にすることとなります。「一緒になる」とはそのことを指しているのでしょう。しかし、それまでの婚約期間中、女性に万一不貞が発覚すると、姦淫の罪を犯したことになりました。
 
それでこのマリアの場合、婚約期間中に妊娠したというのですから、明らかに姦淫罪が適用されます。これに対して、ヨセフが悩んだ、というところがポイントです。婚約期間中に相手が妊娠したとなると、これは怒って当然です。当然のことながら婚約解消ですが、そのように怒ると、世間にマリアの姦淫が明白になります。これは市民社会の犯罪ですから、死刑となります。ヨセフにはそのように行動しても、何の非難もあろうはずがありません。当然の権利だとも言えます。しかし、そうはしませんでした。
 
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 
ちょっと待ってくださいよ。この前に「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と書いてありました。これはヨセフが知っていたことなのでしょうか。知らなかったのでしょうか。知らなかったからこそ、姦淫罪が適用されてマリアは死刑、という流れがまず仮定されます。しかし、知っていたとしたら、どうなるでしょうか。「聖霊による妊娠」だと知っていたが、これはやはり姦淫罪となるだろう、と現実を見たのでしょうか。聖霊によるのだからこれは姦淫罪ではない、と主張する可能性があったのでしょうか。このあたりも、謎です。この後、「胎の子は聖霊によって宿った」と初めてのように知らされますから、やはり聖霊による妊娠だということは、ヨセフは全く知らなかったのかもしれません。それとも、マリアがこっそり、こういうことがあったのよ、と打ち明けたのでしょうか。ルカによる福音書だったら、このようなマリアの出来事が詳しく書かれていますが、マタイは女性の側の事情については沈黙しています。あるいは、この沈黙に耐えられずに、ルカは女性であるマリアの側の出来事を詳細に調べて綴ったのかもしれません。
 
ともかにヨセフは「正しい人」でした。正義の人だというのです。だからマリアのことを表沙汰にはしたくないと考えました。婚約期間中であれば死罪となりますから、婚約していなかったことにすればどうでしょう。マリアはその後不憫な人生を送ることにはなるでしょうが、法の規定は逃れることができるかもしれません。婚約解消のためには、証人を立てて手続きを踏まなければなりませんが、そしてそれはよほどのことがなければできないことになっていたのですが、ヨセフはそれでも解消を試みて、マリアの命を救うことを考えたのでした。悩んだことでしょうが、そうすることに決意しました。これが「ひそかに縁を切ろうと決心した」という背景です。正しいヨセフがこのように、法で裁くことを求めなかったところにはもっと注目してよいかと思います。正義とは、法の処罰に値する人を、法の規定に任せて処罰すること、ではないようです。
 
このヨセフの「正しさ」があってこそ、イエスはこの世に生まれることになりました。ヨセフがマリアを救おうとしなかったら、イエスは生まれなかったという可能性があったわけです。すると、神の計画が実現するために、ヨセフの方向性は正しかったというふうに理解することもできるでしょう。それが「正しい」意味なのだ、と言うつもりはさらさらないのですが。
 
なお、この「正しい」ヨセフという考え方は、歴史の中でも継承されており、カトリック世界では、父ヨセフを聖人と見なし、「義人ヨセフ」と形容することがあるといいます。その他、ヨセフを追究した分かりやすい本として、『「弱い父」ヨセフ』(竹下節子・講談社選書メチエ)が面白いのでお薦めしておきます。
 
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
 
ヨセフは眠りに就きました。旧約聖書では、よく夢のお告げということがあったことが描かれています。エジプトに売られたヨセフは、エジプト王の夢の意味を説き明かして、エジプトの繁栄を導きました。その前に、牢の中で二人のひとの夢を解き明かし、見事にその運命を当てていたことを確認しましょう。その他夢で人生が導かれることもよくありました。日本でも、夢に恋しいひとが現れたら、その人が自分を思っている証拠だと考える文化がありました。旧約聖書で夢は、神が未来を告知する手段だと見なされていましたから、ヨセフは夢の中で天使に告げられたことを、ただの夢だとは考えなかったことでしょう。
 
「ダビデの子ヨセフ」と天使はまずヨセフに呼びかけました。名を以て呼びかけるということは、神がひとを個人で捉え、呼びかけていることの現れだと考えられます。これは旧約新約を問わず、度々あることです。名で呼ぶことは大切です。ここではヨセフに呼びかけていますが、「ダビデの子」と付けるあたり、マタイの意図が明白です。「ダビデの子、イエス・キリストの系図」と、これがダビデの子孫から現れるというメシアの条件をはっきりと伝えるためです。もちろん、「イエスの父ヨセフ」とは決して呼ばないところも、私たちは気にしてよいかとは思うのですが。
 
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 
天使は続けます。マリアが妊娠している。産むのは男児である。イエスの性別が男であることがさりげなく決められています。あまりここに男女の区別の問題を差しはさむのはよろしくないのかもしれませんが、ひとつ見ておきます。そして、名づけの件が触れられています。ルカの福音書では、ヨハネと名づけることでその両親と周囲に一悶着ありました。ひとを名で呼ぶことの大切さを先に考えましたが、名づけるということはさらに重要な出来事となります。そのひとの本質を決めるような行為ですから。旧約聖書の創世記から、この名づけることは重要な思想を意味するものとして受け継がれています。このイエスという名は、名前そのものとしては、当時ありふれたものだったと言われています。しかし神は救い主に、この名を指定しました。イエスという言葉の意味合いとして、「自分の民を罪から救う」ことが暗示されているという説明がなされています。言葉そのものは「主は救い」との意味がこめられているのだといいます。私たちも、「正義(まさよし)」さんなどと言うと、正しく生きてくれ、と親が求めたのだと想像しますし、昔だったら「久美子」という名の多い時代がありましたが、ずっと美しいようにという希望があったからだと考えるわけです。
 
マタイは、旧約聖書に、新約の出来事を根拠づけさせる名人です。ここでも、イザヤ7:14から「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と引用して、さらにこの「インマヌエル」という語について、「神は我々と共におられる」という意味だと解説を加えています。イエスのことをこの後、文字通りに「インマヌエル」と呼ぶことはありませんが、マタイはこの福音書を閉じるにあたり、最後の言葉として、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と告げ、神が我々と共にいることを宣言し、余韻をもつ形をとっていることから、マタイの福音書を読むにあたり常に意識しておくべきことなのだろうと理解したいところです。
 
ところでもう一度振り返りますが、ヨセフに夢の中で現れた天使は、まずこう言いました。
 
1:20 ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。
 
特に旧約聖書で度々「恐れるな」とまず呼びかける神の言葉が紹介されますが、それは結局人間が恐れているから、また必ず恐れるに違いないことから、そう釘を刺されるものと考えられます。となれば、ここでヨセフは恐れていたことになります。ヨセフは恐れていた。何を恐れていたのでしょうか。何故恐れていたのでしょうか。「恐れる」という言葉には、神を「畏れる」意味もありますが、もちろん「畏れるな」と言うはずがありませんから、これは間違いなく、恐れていたということを意味しています。今日は最後に、この点に注目したいと思います。
 
ヨセフは恐れていた。何を恐れていたのでしょう。恐れずに妻マリアを迎えよ。婚約している以上、もうマリアは妻という立場であってよいことについては、初めに触れておきました。この点は問題ありません。妻の立場で姦淫の罪を犯したマリアは、律法により死刑と定められています。マリアを死刑台へ送ることを恐れていた。これが分かりやすい、合理的な解釈だと言えます。
 
しかしいまから「迎え入れなさい」というからには、この婚約中は、まだ迎え入れていないことになります。迎え入れよ。その理由としては「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」ということしかありません。マリアを救う手段や方法を教えてくれているわけではないのです。理由はただ一つ、「聖霊により宿った」ということ。これは信仰を試しているようなものです。このことを信じられるか。こんな、奇想天外なことを、お人好しにも信じよというのか。
 
できるだけ、このときのヨセフの気持ちを再現したい、ある意味で体験したいと思うのですが、どうも情景が浮かんで来ないのです。このマリア妊娠事件が発覚したというのは、どういう情況だったのでしょうか。「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」という説明が、誰に明らかになったのか分からない、と先ほど申しましたが、ここで二つのシナリオを考えてみます。
 
ヨセフとマリアが距離を置いている場合。ヨセフはマリアとは直接連絡を取り合っていないという設定です。マリアの腹部が膨らんできて、大変だ、マリアは妊娠しているようだぞ、と人づてにヨセフに伝わってきた。ヨセフはマリアを死罪にしたくなかったので、婚約解消を策略した。しかしヨセフは何か恐れを感じていた。思うに、このような策略が通用するのだろうか、ヨセフはそれを恐れたのでしょうか。婚約者に裏切られた男として非難あるいは嘲笑されることを恐れたのでしょうか。
 
もう一つ、ヨセフにマリアが直に打ち明けた場合。ルカが記したような背景があったものとします。そもそもルカも、マタイのこの物語の隙間を埋めるために、マリアの事情を綴ったという可能性はないでしょうか。ともかくマリアは自分の妊娠をヨセフに直接打ち明けた。勇気が必要だったことでしょう。そのときには、これは聖霊によるのだ、と説明した。ヨセフはそれを信じたかどうか、分かりません。ただ、それで世間が納得するはずがないので、これは婚約は最初からなかったということにする道を考えた。マリアは納得しなかったかもしれないし、あるいは傷つきながらもそれしかないか、と考えたかもしれません。このままだと死刑になるのだから、と説得するヨセフのことを、頼もしく思ったのか、残念に思ったのか、いろいろな可能性が考えられます。
 
全く、いくつかのシナリオが考えられますので、それぞれを小説にすることができるのではないかと思えるほどです。
 
中世ヨーロッパでは、このマリアのいわゆる処女懐胎が、不埒な娘たちの言い訳として用いられていたという話があります。結婚前の娘が妊娠してしまった。これで父が激怒し、娘に怒り狂うと、娘はマリアの例を挙げ、聖霊によって宿しました、と言い訳をしたのだそうです。これを否定すれば、聖書の出来事を否定することになると非難されるかもしれず、当時こうした非難を浴びると社会で生きていけない背景がありましたから、父親も引き下がるのだった、などというのです。
 
閑話休題。ヨセフは怒り狂いはしなかったようです。しかし悲しい、残念な思いは懐いていたのではないかと想像します。夢の中でヨセフは、天使に告げられるのを一方的に聞くしかなかったことでしょうが、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」は、怒る男に向けての言葉とは違うような気がします。何かしら恐れがあった。自分が世間からどう見られるかの恐れもあったでしょうし、せっかく結婚の見通しまで立てたマリアが死刑にならないかという恐れもあったでしょう。どうであれ、ヨセフは自身の考えの中には、マリアを迎え入れるというアイディアが、ありませんでした。いや、この妊娠発覚までは、この直前までは、ヨセフはマリアを愛する者となり共に生きていこうと張り切っていたに違いありません。迎え入れる、それは当然のことであり、その日を今か今かと待ち焦がれていたことでしょう。迎え入れるというのは、ことさらに力を入れなくても、当然じゃないかと思えるようなものだったはずです。それが、この発覚で、それは恐れになってしまっていた。だが平安あれ。これは本当に聖霊により宿った子なのである。
 
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。
 
父親が名づけるにしても、その名を神の側が指定してくるというのは普通ではありません。夢の中なのでなんでもありかもしれませんが、ヨセフはただこれを聞くばかりでした。名づけるといのは、父として子を認めるという行為にもなります。ローマ帝国では、自分の子として育てたくない子は、父が子を認知しないということもしばしば行われていたと聞きます。その子は私生児として弾かれ、あるいは奴隷として売られるようなこともあり、父の態度ひとつで人生が完全に分かれてしまったのでした。ヨセフは、名づけることを言い渡されたことで、父としての立場を得ます。それは皆の立場を守ることになります。ただヨセフにとっては、自分に心当たりのないその子を自分の子であると認めることを受け容れよと命じられるのですから、葛藤があって然るべきでしょう。でも、天使はそんなことに興味がないかのように、このイエスという名は、「罪から救う」という意味があるから、自分の民を罪から救う子になるのだと説明しました。「自分の民」はマタイも多分そう思ったように、もちろんイスラエルでもよいのですが、私は異邦人を含むすべての人間がイエスの民になりうるもの、少なくともターゲットとしてはすべての人類が目されていると捉えたいと思います。
 
さらに、ヨセフにとっては、この「民」が、マリアであり、ヨセフ自身であると感じたのではないかと私は想像します。たとえマリアが不義の子を宿したとしても、それが罪であっても、罪から救う子が与えられる。また、そのように疑った自分の愚かな罪から、自分は救われるのだ、と思えるのです。ここに、「罪」という語が幾重にも意味をもち、ヨセフに挑みかかってきます。そしてそのあらゆる意味での「罪」から、この生まれてくる子は救う存在だという驚き。すべての人を救う力をもつ奇蹟が、ここから始まろうとしている。それを信じたい、信じる。ヨセフは揺り動かされ、この天使の告げた未来を信頼し、それに懸けることができるように感じたのではないかと想像してみます。男として苦しみ、悩んで当然だし、怒りや悲しみに包まれていたかもしれませんが、この神からの言葉に信頼を置こうという、大きな変化がヨセフにもたらされたのだと捉えてみたいのです。
 
ここからマタイの説明が入ります。
 
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 
本来、ここが、説教の核心となるはずのところでした。マタイの福音書はこの「インマヌエル」をモットーとして、展開していると言われています。福音書の最後の言葉が「共にいる」と結ばれるのも、そのことを意味しています。ここから先、イエスのことを「インマヌする」と呼ぶようなことは、二度とありません。けれども、マタイの福音書を通して、インマヌエルのスピリットは貫かれていくのです。それは聖書全体においても、神が私たちと共にいるというのは、大切な信仰の柱であることに変わりはありません。
 
でも、私は今日、これをスルーします。ヨセフの物語に戻ります。
 
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
 
ヨセフはただ、従いました。分かるのはそれだけです。心の中の葛藤やこだわりなど、いろいろあったに違いありません。あるいは、ヨセフは私たちと違い超人的に問題を乗り越えたのだ、などと安易に他人事のように言うつもりもありません。でも、私たちにしても、大切な人をこのように受け容れていくことの必要を迫られることがあるはずです。重く言えば、パートナーの不貞や過去もあるかもしれませんし、犯罪歴や悪癖など、許せないと思うような相手の姿を、受け容れることで戦っている人もあることでしょう。友だちに裏切られたからもう友情は終わり、とするのか、そこからまた手を結んでいくのか、若さ故の悩みもたくさんおありだろうと思います。人前に恥を晒されて相手を恨む気持ちがあると共に、その人を許したいと思うことの戦いを覚えている人はいないでしょうか。キリスト教だから許さなければ、などと義務的に考える必要はありません。もっと素朴な、自分の正直な心情として、ひとを受け容れていきたいが難しい、と悩むことが、私たちには多々あるのではないかと思うのです。
 
ヨセフはマリアを、受け容れます。マリアが運命を、受け容れます。それは極端な出来事であり、救い主の誕生という、とてつもないたった一度の歴史的な出来事であったと言えばそれまでですが、私たちが互いに受け容れていくことへの、ひとつのモデルを提供しているように見てはいけないでしょうか。
 
マリアを受け容れたヨセフ。しかし、ヨセフが「正しい人」であったときには、まだ受け容れていませんでした。むしろマリアを遠ざけようとしました。それでも、ひとつの「正しい人」の選択でした。けれど神はもっと大きな正しさ、つまり受け容れること、「迎え入れる」ことへと導いていきました。
 
Cさんの信仰の話を――覚えていますか――、適切に理解するために、原稿を読むばかりで、Cさんの手話も顔も見ず、その聞きづらい話も聞くことがなかった人もまた、「正しい人」でした。それを私は否定するつもりは全くありません。しかし、その時にCさんのライブの心、手話という語りにひたすら注目して目を逸らさなかったSさんの姿は、私はまさに「迎え入れる」ものだったのではないか、と気づかされるのです。話の内容は、原稿を読むほどには正しく理解できないかもしれないという恐れを超えて、それでもいまはこれを見ていよう、これを聞くのだ、と、Cさんを「迎え入れる」ことをしていたことになる、私はそう思わされたのです。もちろん、原稿を読んでCさんを知ろうとしていたほかの人々のことも、私は迎え入れます。誰もが、Cさんに関心をもち、Cさんを捉えた神の業を共に感じるという場の中にいたのですから、そのすべてを、迎え入れたいと思います。クリスマスですもの。弾かないで、迎え入れましょう。



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