牧師エイド
2020年12月12日
教会に集う人々は、敬虔なクリスチャンであり、清く正しく美しく生きる人たちです。
言ってて恥ずかしい。そこで教会「内部」の人は、「罪人の集まりですよ」などと言います。
後者は、教会「外部」の人には理解しづらいかもしれません。これを理解しているということは、信仰が与えられている、という道筋につながります。しかし、教会「内部」の人にも、この辺り気持ちが一致しているとは言えない「フシ」があるように思います。
教会に来て、喜びに満たされ、聖書に祈りに励み、伝道の熱意が強い、そんな人もいます。他方、息切れ切れでそれでもなんとか教会に来てそこでの居場所を確かめるという人もいるでしょうし、そこで語られる言葉にすがって一週間を耐え抜きたいと求めている人もいるかもしれません。なんとなく居心地がよくて、お話はよく分からないけれど楽しいから毎週来ている、という人がいてもいいと思いますし、テレビ番組でも見ているのと同じような態度で礼拝を眺めている人も、案外少なくないのではないでしょうか。
同じ教会の同じ礼拝に集っていても、「温度差」の違いはずいぶんあるだろうと思います。私はなにも、それらのどれが正しくてどれが間違っている、などと言うつもりはありません。人さまざまであり、神はあらゆるタイプの人に呼びかけ、語りかけることができるお方だと信頼しています。聖書のオリジナルが定まらなかったり、付加や改訂がなされるのも、そこにこそ語りかけられる、なんらかの人がいるからだろう、と信頼しているほど、私は呑気なのです。
さて、プロテスタント教会だと牧師という立場の人がいる(ことになっている)のですが、この人はどのタイプでしょう。一応職業です。しかしただ職業としてだけでは通常やっていけないので、やはり先ほどの例でいえば、最初の、伝道の熱意が強いあたりに近いものと思われます。そこに集う人々、教会員が、皆同じように教会のために働き、キリスト教を広めるために熱心になってくれるようにと願い、祈り、そのために励んでいる、というふうでもあるでしょう。もちろん、個人差はありましょうが。
しかし、教会には実に様々な人がいてい、様々なタイプの居場所というものがあります。牧師にとってはフルタイムの信仰ですが、他方、信仰なるものは自分にとりサイドビジネスに過ぎず、しかし教会員である限り、意見は言う権利があるし、教会のビジネススタイルが間違っていると思えば徹底的に改善すべきだと強く迫るタイプの人も、けっこういるわけです。
牧師が信仰に基づいて何かをしていこうとしても、聖書を実はそれほどよく理解しているとは思えない、そういう強い意見の持ち主、あるいは聖書を自分の強い信念で読み解釈して自分の考えが正しいと思い込んでいる人物が、どこか無神経に、どこか無邪気に、口出しして止まらないとなると、牧師は疲弊してしまうかもしれません。会社でも、総会でやたら攻めてくる人や、総会屋と呼ばれる困った輩がいる場合がありますが、教会の総会でもそれと見紛うようなケースがあることを、耳にすることがあります。これをやりこめる、あるいはうまくかわすことのできる技量のある牧師であれば、うまく立ち回れるのでしょうが、そういう世渡りの巧くない純な牧師は、神経が参ってしまうことでしょう。
しかしまた、信徒のほうはと言えば、牧師という存在に、どこか理想像を思い描き、あてはめようとすることが多いものです。ある意味で牧師を偶像化してしまうということですが、自分の理想を押し付けて、常に減点方式でしか牧師を評価しないなどということもありがちです。
確かに、「牧師」という肩書きがあっても、見かけや資格だけしかなく、中身がスカスカである人物がいないとも限りません。語る説教が、聖書の叙述を辿るだけで、あとは教案誌に書いてあることを少し付け加えるだけで、立派な形の説教ができたと自己満足しているような人がいて、そういうものをウェブ上で公開している場合があるかもしれません。ふとしたことで、素の人間性を表に出してしまい、省みることがないままに、口先だけで福音を語り続けているようなこともあるかもしれません。すべての「牧師」を画一的に見る思いこみは排除したほうがよいでしょう。しかしそれでも、説教が語られている以上は、教室と同じで、訓戒を垂れても、それの必要な生徒は聞いていないし、それを聞く必要のない良い子が熱心に聞くというような情景はどこにもあるもので、通じない人にはどうにも通じません。
ここでは、真摯な牧師と、無神経な信徒というケースがあったとしたら、不幸なことかもしれない、という点だけを考えてみたいと思いました。自分もその無粋な一味になっているかもしれいので、よく胸に手を当てて戒めとしたいと考え、また、とにもかくにも、牧師のために祈り、また何らかの形で支えるものでありたいと願います。