心の闇

2020年12月6日

理解し難いような事件があると、わいわいと騒ぐタイプの報道番組ではすぐに「心の闇」という言葉を持ち出して説明しようとします。
 
でも誰もが、感じているのではないでしょうか。自分の心の中に、闇があることを。人前では隠せても、すべてを見通す神がいたならば、隠し通すことのできない、闇を覚えない人は、恐らくいないと思うのです。
 
しかしメディアはなんだか特別な人にだけ、その闇があるかのように突き放して見ます。また、悪気はもちろんないのですが、病名をつけて心の病だとして扱う医学。心の病だということで、却って安心できる場合もあるでしょう。治療も大切です。しかしまた、特定の病名を付けられることで、そのネーミングにより、その人自身が束縛される可能性も否定できません。その病気がどうなるのか、という説明に暗示を受け、その流れに巻き込まれていくことも考えられます。
 
私なども、順風で明るいように見えるかもしれませんが、とんでもない。ここにわざわざ書き表すことはしませんが、精神的な病気についての説明は、多く合点がいくような経験をしています。「救い」という原点に、それが関わっているのですし、人生でとんでもないことばかりしてきているのも事実です。善良風な市民を生きているとは思いますが、アウトローでありオフコースそのものです。しかしまた、だからこそ、闇だ病だという情況に苦しんでいる方の心苦しさを、完全に外から眺めることができません。もちろん、その人のことを理解できるとか分かつているよとか、そんなことを軽々しく言うつもりはありませんが。
 
そもそも、旧約聖書の預言者など、読めば読むほど、心を病んでいるとしか思えないようなものの言い方をしていないでしょうか。変ですよ。しかしその変なものが、神からのものだということを、キリスト者は受け容れているわけです。
 
それどころか、イエスの言葉、如何ですか。明るい世間に同調することのない、奇妙な発言ばかりに感じませんか。誤解されるような言い方をするかもしれませんが、異常さがそこにあるように思えないでしょうか。
 
事実、洗礼者ヨハネは悪霊に取り憑かれている、と言われたことが明記されていますし、ヨハネによる福音書に至っては、イエスその人に向けて群衆やユダヤ人がこぞって、「あなたは悪霊に取り憑かれている」と突きつけています。「常識人」たる群衆の目から見て、イエスは明らかに変なのです。
 
キリスト者は、この悪霊に取り憑かれたと世間から指をさされたひと、権威にたてついたとしてなぶり殺しにされたひとを、主と呼んで崇めているのです。
 
その奇妙さは、異常な奴隷道徳にほかならない、とニーチェは反抗しました。牧師の子として神学を学んだニーチェだからこそ、聖書信仰の奇妙さに耐えられなかったのかもしれません。
 
心の闇の中にどっぷりと浸かり、出口が見えなくなった状態の人の苦しさ。どこかそれはいけないと分かっていながらも、どうしようもないありさま。そんな苦しさを、イエスという方だけは、分かってくださるのだと私は信頼しています。善人面をした自称クリスチャンには同調できなくても、あのイエスという方だけは、信頼してみませんか。



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