きょうだい
2020年11月24日
新しい聖書・聖書協会共同訳は、かつての「共同訳」ほどではないにしても、かなり思い切った変更を施しています。そのために教会における導入が躊躇われているように見受けられるのが少し残念な気がします。また、その改革の割には、女性への配慮に乏しいのではないか、という声も聞きます。
その改革のひとつに「きょうだい」という表記があります。通例「兄弟」と書きますが、これだと男性本位のように見受けられるためなのでしょうか、読み方としては言葉としての「きょうだい」を活かすものの、表記としては男性性示す「兄弟」をやめた、ということではないか、と推測することにします。
教育学では、この傾向がある、という話も聞きました。男女別名簿順を廃し、また呼称も性で区分けせず「さん」と呼ぶことを標準としている現場からも、そのことは肯けるように思います。
「兄弟」を「きょうだい」と呼ぶのは、漢字の読みとしては馴染まない読み方です。比較的少ない「呉音」だとされています。「漢音」だと「けいてい」となり、これは漢字の読みとしては一般的であり、法律用語としてはこちらを使うのだそうです。
その「兄弟」の表記がよくない、という捉え方ですが、今の語感では確かにそうかもしれませんが、日本において元来この「兄弟」は男性を限定するものではありませんでした。この辺りは、インターネットで調べてみるといくらか出てくるはずです。無知な私が説明をすると却って誤りを伝える可能性が高くなりますので、いま厳密さをここには求めないでください。
同胞(はらから)を「兄(え)」と「弟(と)」に分けていたこと。「弟(と)」は本来は「おと」と言い、「若い」という意味をもっていたこと。ここですでに、男性に限るわけではないこと。ヤマトタケルノミコトのために死んだ「弟橘媛(おとたちばなひめ)」や、浦島太郎の「おとひめ」にある「おと」が若さを示す言葉だというのです。このようにして、若い人という意味で「弟人(おとひと)」と呼ばれていたことになります。年上は兄も姉も「え」、年下のほうは弟も妹も「おと」であった、というそうです(『日本語をみがく小辞典』森田良行の最初の頁)。
それで、現在は兄弟姉妹を一括して「兄弟」と呼ぶことは、元来の意味を反映していることになります。これは日常私たちはよく用いている考え方です。「ごはん」という言葉は、「米を炊いたもの」という狭い意味とともに、「食事」という広い意味とを同時に表し得ます。「天気」は、「晴れ」という狭い意味とともに、「天候一般」という広い意味を同時に表し得ます。そのようにして、「兄弟」は「同じ母から生まれた複数の男」という狭い意味とともに、「同じ母から生まれた子どもたち」という広い意味を同時に表し得るというわけです。
確かに難しい問題ではあります。言葉そのものが差別意識に基づいているという場合があり、それは自ら意識していないままに差別にまみれていた、という構造があるとき、言葉というものが大きな意味をもってきます。聖書にしても、「父なる神」という呼び方に抵抗する人もたくさんいます。また、現実の父親との関係がよくないときに、このような言い方ができない立場の人もいことがあるので、事は簡単ではありません。
ただこの場合、「きょうだい」という平仮名が不自然ではないのか、という点と、元来広い意味を有する語という認識によって従来どおり問題なく使えるのではないのか、という点など、再検討してよいのではないか、と私は考えるわけです。しかしまた、原語の感覚が果たして日本語と類似点があるのかどうか、知る必要があると言えるでしょう。聖書でも、その「兄弟」と「姉妹」とをわざわざ並べている場合は、前者は男性を意味しているように見受けられますが、たんに「兄弟たち」と呼びかけているとき、女性を排除しているとは言えないこともあろうかと思われるのです。こうしたことについてはまた、知恵と知識のある方にお委ねすることに致しましょう。