すべての人と平和に暮らせ
2020年11月20日
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(ローマ12:18)
「できれば」「できることなら」と控え目な言い方をしていますから、パウロとて、完全に誰とも平和に暮らすということはまず無理であるのだ、と考えていたのだろうと推測します。「すべての人と平和に」となると、さすがにこれは天国においてでもなければ、不可能というものでしょう。
実際、敵がいます。敵を愛せなどと言われても、迫害されている中で、迫害する者から逃げまどうことは当然だったでしょうし、敵を悪者として罵ることも聖書では当然のことでした。パウロからすれば、教会を乱す者は追い出すこともあったでしょうし、信徒を滅ぼそうとする勢力は思い切り呪うしかなかったことでしょう。
聖書の言葉は文字通りに解釈できないことも度々あります。「すべての人が集まった」などというオーバーな表現を、そのままに全員ととる必要はないでしょう。「殺すな」という戒めがあったといっても、「殺せ」という命令が続けざまに飛んでくる世界です。
平和にせよ、という言葉を厳密な意味で完成することに、ナーバスにならなくてもよいだろう、という捉え方もあってよいだろうと思います。それでも、できるだけ、その理想に近づくように、というアドバイスは、やはり有効なのだろうと思います。
ところが、イエス・キリストほど、人と平和にできなかった方がいたでしょうか。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。(マタイ21:12)
イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。(ヨハネ2:15-16)
いやはや、大暴れです。自分から喧嘩を売るというのは、すべての人と平和などという言葉が霞むほどの振る舞いです。
けれどもまた、ユダヤ教のトップたちやエリートたちを挑発するようなことも度々言い、相手を怒らせているようにしか見えない場面も多々あるし、なにしろ彼らから憎まれたことで、十字架への道が決まったというわけですから、すべての人と平和な関係を築こうと努めような様子は、全くないと言わざるをえません。
イエスは、信仰の見られない人々に対して憤りを覚えることもありましたし、弟子たちに呆れて怒り心頭に発するような様子も見受けられました。それは私たちの怒りと単純に同じであるとまではいいませんが、イエスはたんまり怒っていたということは、押さえておいてよいような気がします。
人も、怒ります。平和に過ごせと言われていても、やはり怒りの感情は生まれます。しかしまた、それは感情ではあるのです。どんなに理由を説明しようと、これは義憤だなどと述べようと、所詮その怒りは感情です。教育的配慮から、教師が叱るために怒りの演技をするということは別として、私たちはそれほどに怒りをコントロールすることはできないでしょう。
時に、思います。自分が怒っているとき、そしてそれが自分でコントロールできないような怒りであると感じ始めたとき。その怒りは、イエス・キリストに対しての怒りではないのか、と。
十字架につけろ、とヒステリックに叫び続けたあの群衆のように、自分は怒ろうとしていのではないか。自分が正しいと主張して止まない、あのファリサイ派や律法学者のように、正義の怒りを弁明しようとしていないか。すると、どんなに弁解をしようとも、その怒りは、イエス・キリストに向けての怒りではないか、という思いが生まれたならば、私はまだ、できるだけ平和に過ごそうと努めていると言えるのかもしれない、と安心できることがあるのも、事実です。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
平和を実現するには、なかなか至らないのですけれども。