教会の閉塞感を打ち破るために
2020年11月16日
キリスト教会の、短期的対処は何でしょうか。長期的対処は、何でしょうか。こんな問いを皆さまに投げかけました。適切な問いを提示することは実は困難なことであり、問いが立てられた時点で、有効な仕事ができた、というのはいわば常識的なことであるのですが、私の問いかけは、役立つところがあったでしょうか。
教会にはかなり前から閉塞感が漂っていると言われ、多くの問題を抱えていますが、それがどうも存続に関して危機が迫っているということが、最も深刻であると言える可能性があるでしょう。SDGs(持続可能な開発目標)がいまグローバルな課題となっていますが、教会もまさに持続可能であるかどうかを気にすべき時に来ている、と見られているわけです。ヨーロッパの教会の没落は目に見えて深刻ですが、日本はもともと教会が栄えたことすらないのですから、没落以前の問題であると言ったほうが正しいのかもしれません。
指導者の減少、そして平均年齢がすでに後期高齢者ではないかと言われるほどの高齢化、これも痛いのですが、何も神学校に行かなければ牧師になれないなどというルールが聖書にあるわけではありませんから、乗り越える道はいくらでもあると考えて然るべきでしょう。それよりも、そもそも教会に集う人数が増えないこと、いえ増えないなんて生やさしいものではない、減少の一途であるということは、まるで死を待つだけの状態のようにさえ見える現象だと言っても過言ではないでしょう。もはや教会学校に来る子どもがいない、というだけでもない、教会の存立が即座に不可能になっていくような未来予想図しか描けない人も少なくないと思われます。
ここまで悲観的な情景を描いてきました。もっと明るい未来を、と仰るかもしれませんが、これで明るくするならば、あまりに能天気だと非難されないでしょうか。しかし、見方を変えること、発想を転換することは、どんな場合でも新しい道を拓くためのヒントになります。
教会員であればよいのでしょうか。
教会員であれば、囲われた主の羊であり、救われた人間であり、教会員でなければ世に属する罪人である、そんな単純な図式を、いつしか前提としていなかったでしょうか。もちろん、そんなことはない、という立場で教会を支えている人も大勢います。しかし、教会員を増やすこと、教会の規模を保持することなどの背景に、あるいは深層心理として、教会に属していること、礼拝に出席していること、それが救われたということであり、キリストの弟子であり、神の国に入れてもらえるという条件であるかのように、錯覚する思いがなかったかどうか、常にないのか、顧みる必要があると思うのです。
教会に熱心に通っている。そこで奉仕している。だから神はそれをよしとしているのだ、というような単純な思いこみ。本当でしょうか。私は熱心にやっているとは言えませんが、多様なSNSにアンテナを張っています。多様と言っても、代表的な二三のものに過ぎないのですが、アカウントを使い分ければ、違う分野での発言を集めることも可能です。クリスチャンという名乗りのアカウントの人も多く知っていますし、教会員であることもまず間違いないとは思います。聖書についての知識も多いし、かなり突っ込んだ神学を勉強している様子も伝わってくる、そんな人も少なくありません。
けれども、何かその発言に、ひとを見下しているようなものがありありと見えることがあります。つまり先ほどの、教会は救われた者のいるところで、世は滅びの罪人の場所だ、というような前提で、自分が正しいということを自信たっぷりにまくしたてる声です。それは、自分の考える教義だけが正しくて、違う教義を言う人は間違っている、そして異端だ、のような単純な声をばんばんぶつけているという姿に現れています。
信じられないでしょうか。でもこれは多々見られる事実です。ですから、時折言い争いもあります。意見の合わない者どうしが引っかかると、傍から見るとやはり醜い、なじりあいのようなものも起こるのです。また、論争を招かなくても、他人の意見をぼろかすにけなすようなものがあることを、否定することはできません。
それは、牧師というような立場であっても例外ではありません。これはSNSではありませんが、私はこれまでにも、牧師という立場の数人から、幾度も裁かれ、罵られ、醜い言葉を投げつけられました。あるいは、自分を善人に見せかけるために、陰で私を悪役として利用されるということもありました。およそ、説教の中で、ふだん聖書を引用して、このようなことを言ってはいけません、と話しているような、「このようなこと」が次々とぶつけられてきたのでした。
ですから、牧師ではない信徒がネットで誇大妄想や大言壮語を振りまいていても、さほど驚くことはありません。人間の口先と行動とは、そう簡単に一致はしないものです。教会の重鎮であっても、肩書きがあっても、弁舌があっても、また教会組織を支える知識があっても、そうしたものがなんぼのものだろうか、と思います。それらを無意味だなどと言っているのではありません。それらが神の目に適うことと等値ではない、という当たり前のことをただ言っているだけです。
教会が善であり、世間が悪である、そんな図式がもはや成立しない、あるいは成立するようであってはならない、とするのです。そうすると、なんとしても教会に来なければだめだ、という論理は成立しなくなります。むしろ、純朴な信仰をもつ人は、いまの教会には来ないほうがいい、というちょっと悲しいことも、現実にありうることになります。いえ、これは実際に私が経験した思いです。また、教会で何か奉仕することで注目され、ほめられるのがうれしいというだけで、聖書や教会について何でも知っていると豪語するような自己愛の塊のような迷惑な人がいることも知っています。教会の中にいるから善人だとか、キリストの救いを体験しているとか、とにかく単純な判定をすることは危険だということは確かなのです。
教会員の数が増えない、その背景にも、別の可能性が開けて来る可能性があることに気づきましょう。聖書の知識を伝えるのではなくて、私たちはむしろ「福音」を届けることが求められていないでしょうか。この日本語でよいか分からなければ、「良い知らせ」でもいいし、今どきの言葉を使うならば「耳寄りな情報」でもいい。しかし、それは命をもたらす言葉であり、その人を生かす知恵であるはずです。それを伝え、届け、神がその人の心に働きかけて、その人を造りかえる、つまり命に生かす、それをとにかく第一に目指すような宣教姿勢から始める可能性があるかもしれないのです。
教会を保持することを目的にし、そのために人を集めるというように、人の魂を手段のように考えていなかったか、省みてみましょう。人の魂を救うことから入りたいものです。いえ、それよりも、人を愛するということから入らなければなりますまい。神の愛を知る者が、人を愛するというのは、実のところできないものだとはいえ、まず以て主から命じられた大切な教えであったはずです。教会員だから偉いでしょ、のような愚かな自負など完全に捨て去って、「福音の初め」を重要な一点だと見ることを提案します。
「福音の初め」の「初め」という語は、(あるいは「初めに言があった」にも関わりますが)ギリシア語の「アルケー」が使われています。これは哲学を少しでも学んだ方はよくご存じのとおり、ギリシア哲学の発端に関わる重要な概念です。それは「初め」であると共に「原理」や「根拠」を表すことがあり、ソクラテス以前の哲学者たちは、世界のアルケーをいろいろと考えて論じました。これが哲学的思考の祖である、というのが一応の常識となっています。
「福音の原理」とまで考えられているもの。理解はいろいろできようかと思いますが、然りは然り否は否、との思いで、姑息な手段に留まらない、長期的な営みのアルケーとなるようなものを、あなたなりに、あなたの教会なりに、見出して、イエスに従う道を進まれることを、心から願っています。