短期と長期
2020年11月14日
哲学科にいた学生の頃、創価学会の折伏に出遭ったことがあります。2人組で、アパートを度々訪ねてくるわけです。幾度も断りましたが、こんなに何度も来ているのだから一度くらい、と絆されて、一度だけその集まりに連れて行かれました。ふだんの若い女性たちとは違い、三十代かもう少し上か、話のうまそうな男性に問われます。私が哲学を学んでいるというところを聞きつけると、そこに引っかけて、いま崖の上から飛び降りようとする人がいる、そのとき哲学が役立ちますか、と。つまり創価学会はそのときに救うのだ、と言いたいのでした。
哲学なんぞというものは、対症療法には効かないということでしょう。そこへいくと、と言うことのようでした。哲学は人を「救う」ためのものではないのだから、実は論点のすり替えがあるのですが、この視点は、対症的なものなのか、根治を目指すものなのか、その違いに着目されるものでもありましょう。
今年、クマが人里に出没するという報道が多く聞かれました。人的被害が出ているので、これはとにかく対症的に対策を練らなければなりません。こういうとき、「駆除」という言葉が使われますが、私はいつもこの言葉に戸惑います。この問題に逸れていくことはいまはしませんが、そもそもクマが人間に危害を与えるようになったのはどうしてか、その原因を考えて対処していくことを、じっくり考えて対応していく必要もあろうかと思います。
短期的な対処と、長期的な対処、そのように言ってもよいかもしれません。もちろん、長く待っていられないこともありますから、短期的な対応は必要ですが、それだけですべてがよいということでもない、と見るべきでしょう。
新型コロナウイルスに対して、短期的な対応も当然大切であったわけですが、そうやって人の動きを遮断したところ、経済が苦しくなっていくというわけで、長期的には経済を回していくようでなければならない、そう判断する必要がありました。これらはジレンマとなり、どちらも万全にうまくいくという方策は考えにくい情況にあります。いわゆる政治的判断というもので、どちらかにウェイトを置きながら、もう片方をも最悪の方面に進まないように留めていかなければならない難しさがあるということになります。
リスクを伴いつつ、GoToというんですか、動きを作るというのがひとつの方策だったのですが、確かに難しいバランスがあると言えるでしょう。この感染者増加の急な中での判断はさらに難しくなるかもしれませんが、ただ、医療機関の崩壊が生じると、まるで水の入った袋に穴が空くようなもので、これは全体の崩壊へと進みかねません。どうしても守らねばならない一点を認識し、押さえるようにするという視点は、他のバランス云々よりも先決問題とするべきではないでしょうか。欧米のようにまでは日本では拡大していないのが不思議ですが、あのようにならないという保証はどこにもないのです。
さて、キリスト教会の、短期的対処は何でしょうか。長期的対処は、何でしょうか。これは人間の知恵でなされることではないために、あまりにも地上の論理だけで決めることはできないと思われます。けれども、それだったらなおさら、守らねばならない一点を認めることを忘れてはならないとすべきでしょう。さて、それは何でしょうか。