未来を信じるために

2020年11月10日

「一週間さき」と言えば、これからの未来を思うでしょう。しかし「さきの一週間」と言えば、今日まで過ぎた過去を噛もうでしょう。どちらも「さき」という言葉を使います。
 
漢字ならば混乱は起こらない、とお思いかもしれません。「先」と書けば将来の話だし、「前」と書けば過去の話となるのだ、と。ちょっと古い言い回しですが、「恐れ多くも 前の中納言 水戸光圀公にあらせられる」と言うと、当然過去のことを指していることになるわけです
。  
こうなってくると、国語学者や漢字の博士に訊かないと分からなくなりますが、この漢字の「先」と「前」の使い分けも、厳密に定められているようには、普通の辞書からはうかがえません。
 
「さきにやっておこう」というのは、「先」を宛てても違和感がありませんが、比較的に早いほう、どちらかというと過去の役割を担うようにも思われます。「さきに見た」も「前」を書く人もいますが、しばしば「先」を書くでしょう。もちろんそれは過去の話です。
 
「前」の字のほうも、私たちにとり「前」の時間は過去・現在・未来のうちどれを指しますか、と問われたら、迷わないでしょうか。上のような流れからすれば過去のことなのでしょうが、私たちの目の前にあるのは通常未来です。
 
すると、私たちは目の前のほうに未来を感じるようになっているかもしれませんが、元来未来は後ろにあったのではないか、という推測が現れます。私たちは時間についていえば、過去のほうを見ており、背中側の未来が見えない、これはこれでひとつの説明です。未来へ向けて、ボートを漕ぐように進んでいる、あるいは時間が流れている、でも何でもよいのですが(この時間が流れるという言い方もあくまで比喩的なものですから、大いに議論があるところです)、こうなると、未来が見えないことも説明がつきます。
 
すると「後」という漢字の使い方についても、その「ねじれ」が問われたときに似た説明ができることになります。「10分後」は未来のことですが、未来は私の「前」ではなく「後」のこととして知覚することになるでしょうから。
 
ユダヤ文化では、どうもこの後ろ向きの未来ということが常識化されているらしくて、確かに過去は認識できるが、未来は見えない、というあり方においては合理的にも思えます。しかしユダヤ文化は、未来への信頼については生半可ではありません。ユダヤ民族は未来に生きている、と言われることもあるほどで、いつか「その時」を信じて神を待つ生き方を何千年も続けているようなものです。
 
その未来は、背中にあって見えません。私たちは後ろ向きに歩くのは怖くてたまりませんが、それは見えないところに何があるか分からないからです。でもその見えないものを信じている、それが信頼の証しだとすると、そこに希望をもつなど、なんと楽天的で勇気のあることだろう、とも思います。
 
ヨーロッパを中心とする人間が、一度神を離れ、科学のなせることに邁進し、強大な技術を手にした結果、これまでのように安易に背中の未来を思い描くことはできなくなりました。私たちの眼差しの向きに関係なく、存在者の因果関係は過去から未来へと進みます。私たちが目の前の過去に確実に撒き散らした地球環境の損傷や破壊は、背中にある未来の地球環境へ確実に影響を与えます。本来地球全体のバランスが修復を賄うことができる範囲で、どんな生物も生存ができていたのですが、人間の強大な力は、環境内部での修復が不可能なレベルにまで到達しています。私たちは、背中にある見えない未来の、首を絞めることを確実にやっているということになります。
 
過去の人類の歴史では予想できない事態に陥っています。見えない未来への責任を負う、というような考え方も、かつては思想界には見られませんでしたし、また見る必要もありませんでした。しかしいまや、それが危険な特異点として間違いなく存在します。
 
この未来を信じるというのは、どういうことなのか。キリスト教でもユダヤ教でも、いつか「その時」を待つ世界観をもっている私たちですが、その私たち自身が、その見えない未来をどう信じるのか、かつてない思想のテーマに挑んでいる事態を、まずは覚らなければならなくなりました。
 
世界はおよそ、その必要を考えています。しかし、もしかすると自分が未来をただ前方に見ているだけのつもりで、このままで構わない、いまさえよければ、と問題点を知らない、あるいは知りたくない人々も沢山います。私もまた、消費生活を謳歌し、エネルギーをふんだんに利用している以上、その人々の中のひとりに過ぎません。多くの人が、そうだと思います。そういう意識で、誰かが正義の味方になるのではなくて、しかし赤信号をみんなで渡るような振る舞いを良しともしないで、見えない未来を、悪いシナリオではない形で信じていくようにするには、どうすればよいでしょう。どう考え、語り合っていけばよいのでしょう。そして、できることから、どうしていくようにするとよいのでしょう。
 
もう先延ばしにしないで、先んじて、始める必要があることを、知りたいものです。



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