コーリングまたはベルーフ

2020年10月29日

顧客を叱りとばしても成り立つ職業があります。怪しいクラブのことではありません。教育機関の教師です。とはいえ、近年はずいぶんとソフトになり、親からのクレームを避ける傾向にはありますが、叱ることは教育の中の出来事として、適切な叱り方で叱ることは認められています。
 
構造的には似ていますが、学習塾はどうでしょう。保護者との信頼関係ができている塾では、むしろ叱ります。保護者の側でも、学校では叱られることがないから、厳しくやってください、と依頼がくることが多々あります。本気で進学受験に挑む親子は、そうした覚悟で塾と関わっているのが普通です。
 
もちろん、暴力はよくありません。塾でも、言葉の暴力という問題は切実です。以前はそのあたりかなり乱暴なケースもありましたが、いまはコンプライアンスから、厳に戒められている場合が殆どです。それと共に子どもたちの忍耐力も落ちていることが気になりますが、それはそれでまた別の方法で養う必要があると考えるべきでありましょう。
 
教師のほかには、牧師も似た境遇にあると言うと、お叱りを受けるでしょうか。もちろん顧客という概念とはまるで違いますが、カルト宗教であるまいし、牧師が信徒を叱るようなことがあるはずがない、と思えることは少しばかり幸運なのかもしれません。画一的に牧師なる存在があるわけではないので、人様々であることは想像できるでしょう。何か問題があるとき、それが個人的な資質や言動にある場合、なんらかの形で「叱る」ということはありうるものです。赦せというキリストの言葉に従うにしても、なんでもかんでもなあなあで済ませるわけにはゆきません。パウロはコリントの教会などに、こんなのあるのかと思われるほどに、きつく厳しく叱責をぶつけています。
 
教師が叱るのは、教育的背景がありましたが、牧師が叱るとすると、どんな背景でしょうか。霊的背景とでも言えばよいのでしょうか。教会運営のために、という場合もありそうです。
 
こうした、叱る立場にある人は、ほかにも、医者や弁護士、また政治家などを思い起こすことができるかもしれません。やたら叱るわけではありませんが、しかし叱るケースが想像可能だという意味においてです。奇しくも、いずれも「先生」と呼ばれる職業です。
 
「先生」には、公私生活問わずに、一定の倫理性、あるいは高い倫理性が求められます。政治家はこれを失うと失職することもしばしばです。学校の教師も、横断歩道のないところで道路を横断することはできないのが普通です。どこで生徒や保護者が見ているか分かりません。日ごろは子どもたちに厳しく教えている先生に相応しからぬことをしているのを目撃されたら、信頼を失います。そうすると、仕事が成り立たなくなるのです。
 
牧師という立場は、教団や教派にもよりますが、特にプロテスタントでのこうした立場は、他の信徒一般から特別かけ離れた存在ではないという考え方があります。万人祭司というルター以来の原理がそこにある限り、牧師だから特別だというわけではないという、一定の了解があると思われます。時にこれを勘違いして、牧師だから偉いのだ、と威圧をかける牧師も、いないわけではありません。牧師の権威というものとは別に、暴言の部類に属するものを発するということは、確かにあります。やはり何らかの「上に立つ」立場にあるのは事実ですから、これはパワー・ハラスメントという現代の概念に含まれることとなるでしょう。
 
他方また、信徒の側が、牧師に多大な期待をかけるのも、逆にモラル・ハラスメントとなりかねません。昔もかもしれませんが、いまの時代の牧師には特に、高い倫理性を求めることはできないのかもしれません。けれども、SNSのように気軽に情報発信できるツールを使うときには、気をつけなければなりません。画面に向けて独りで呟いているばかりでは、それが全世界に開かれた窓であるということを忘れてしまう錯覚にに陥ります。人となりがあからさまに出ます。人間性における欠点は、ふだんは抑えているはずですが、ふと感情的なものがつい、出やすくなる場合もあるでしょう。人前でもそうでしょうけれど、SNSだとそれが一種の証拠として残ってしまうという怖さもあります。完璧を牧師に求めるつもりはさらさらありませんが、自ら説教という形で語るときに、なんだか語れなくなるようなことを自分がしていないか、顧みることは大切でしょう。そして普段教えている通りに、自分の非に気づいたらそれなりの対処をするというような、あたりまえのことを、自身実行するということは、最低限必要なことではないか、とは思うわけです。そうでないと、もう講壇からは語れなくなります。もしそうしたことに気づきもしないままに語り続けるということは、また別の意味で怖いことになるかもしれません。
 
この説教というものが、リモートだけで行われているとき、教会堂に信徒も殆ど来られないという情況もありました。このときには、会衆の反応が分かりません。それがやや不安材料ではあったことでしょうが、概して説教というからには、相手の顔を見ながら、反応を感じとりながら、語ることになります。もちろん、それを聞く側の気持ちも複雑です。リモート環境云々の問題も当然ありますし、たとえオンラインで参加できたとしても、人と会えないことへの違和感、またそれが聖書との祖語を覚えるといったスピリチュアルな悩みも含めて、じょうに厄介なものをもたらしています。
 
人との関係をうまく築くタイプの人が私には羨ましくさえ思います。聖書の理解に問題があっても、極端にいえば聖書の救いを体験したことがなくても、人当たりがよかったり、陽気で話がうまかったりすると、人と仲良くなることは簡単だ、という牧師もいるわけです。私はそういう点では、それなりにはできるでしょうが、人が心を許すあっけらかんとしたような態度で接することは難しい。こういうのを牧会だというのなら、私は「人間的な」つきあいをエンターテインメントにもっていくのが下手なのです。ユーモアは忘れることがないつもりなのですが。
 
牧師という仕事のことを少し考えてみました。仕事という言葉は、こなす課題としてはワークという言葉がありますが、英語で「コーリング」という言葉も仕事を表します。呼ぶ「コール」から来る言葉ですが、天ないし神があなたを呼んでいる、ということでしょうか。日本語で「天職」というのは、文化的背景が違うはずですが、それでも「コーリング」を「天職」と訳すと近いイメージがあるのも事実です。天が呼ぶ。
 
ドイツ語だと「ベルーフ」といいます。こちらは受動態の響きがあります。「任命された」の角度から捉えるならば、私が呼ばれた、という感覚と言えばよいでしょうか。
 
面白いものです。天が呼ぶか、私が呼ばれたか。そうした主体を置かずして、日本語は「職」という概念を使います。牧師という職が、ただの「アルバイト(非正規などという意味はなく普通のドイツ語の「仕事」)」であるのでなく、何かしら神との関係の中でこそ成り立つのだとしたら、やはりある種特別なものだと言えるでしょう。語る言葉が神の言葉である、という考え方はいろいろ議論もされましたが、神の言葉を語っていることを否むことはできないでしょう。そこには高い倫理性が求められ、期待されています。聖人君子になれ、というわけではありませんので、失敗もいろいろあるでしょうが、その都度、戻るべきところに戻るようにしないと、先ほども触れたように、講壇で偽った心で語ることとなり、自己内で分裂してしまいます。二心にならないためにも、叱りとばすことが感情で他人を、というのではなく、神からの叱責を受け止めるようなあり方で、絶えず十字架のもとに立つ者であって戴きたいものです。
 
いえ、信徒がまた、こうしたあり方を心がけなければならないということを否むつもりはありません。ただ、誰にでも要求するようなことをするわけにはゆきません。私個人の中での目標のようなものにしておくことに留めるようにしておきたいとは思っています。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります