【メッセージ】不条理だらけの世界の中で

2020年10月25日

(コヘレト7:15-22)

人の言うことをいちいち気にするな。
そうすれば、僕があなたを呪っても
聞き流していられる。(コヘレト7:21)
 
罪もない人が、災いに遭う。罪もない人が、殺される。何故、と問う。「神がいるなら、どうしてこんなことが起こるのか」と。
 
ひとの不幸や痛みに、自分の心も痛む、そのことを否定することはできません。ただ、少し気になります。この疑問を懐く人は、「神がいない」と思っているのでしょうか。そういう場合もあるかもしれませんが、神がいないと確信している人は、この切実な問いそのものが心に浮かぶこともないでしょう。神がいないから、災いも悲惨な出来事も、当たり前に起こるのだよ、と。このように問う人は、「神がいる」というほうを信じている、あるいは信じたいからこそ、「神がいるならどうして」と問うているように見受けられます。
 
ここでたとえば、神はこの悲惨さをあなたに見せることで、あなたが神に従うようにさせるようにしたのだ、とか何とか言って説明をしたがる人もいます。けれどもその多くは、相手に嫌われることになります。やたら神を弁護しているつもりか、それとも神の思いを訳知り顔で解説でもするのか、などと。いわゆる「神義論」あるいは「弁神論」のように言いますが、神がこのような悪を放置していることに反発するのではなくて、きっと何か訳があるのだと神を信頼し、その「わけ」を解明しようとする考え方が、私たちの世界にはあります。
 
それから、永井隆博士の言葉も思い起こします。長崎の爆心地から700mの長崎医大で被曝した永井博士は、カトリック信仰をお持ちでした。隣人を己の如く愛すべし、との心で「如己堂」にこもり、執筆を津告げました。長崎の原爆投下について、人々が小羊の犠牲とならねば戦争は終わらなかったのだ、と神の摂理を語ったことで、後に批判を受けもしました。しかし、自ら重傷を負いつつ現場で身を挺して被爆者の救護のためにかけずり回った人がふりしぼった魂の言葉を、傍観者が安易に非難することができるのかどうか、私は疑問です。それは博士個人の信仰であるならば、それで構わないのではないか、と。ただ、世の誰にでもその説明で合点がいくのかどうか、それは難しいと思われます。
 
しかし他方、「神がいるならどうして」と問う人にも、何か引っかかるところがあるような気もします。そう問う人は、神がいればこのようになるはずだ、という青写真をもっているからです。その人なりに、神はこのようにするはずだ、神はこうするべきだ、というイメージがあり、規範を決めているからこそ、その自分の規定に外れることが起こるとき、自分の考えている神とは違うことをするのか、と文句を言いたくなるわけです。
 
どちらにしても、人間の思い描く論理や、人間の思いに神を従わせようとする心理が、奥にあるように考えられます。「神がいるならどうして」という感情は、ひとに沸き起こるものですが、それを第一に掲げてしまうと、自分の考えることの方を神より上に置きかねないということを、警戒しておく意味はあるだろうと思うのです。
 
とはいえ、現実にそのように不幸な人を目の前にすることがあると、どうしてよいか分からなくなります。サタンの思惑に乗ったのか、神がヨブに悲惨な境遇になるようにサタンに任せたところ、ヨブは理不尽な不幸に見舞われます。ヨブの三人の友人が慰めに来ますが、かける言葉も見つかりません。実に一週間にわたり、ヨブのそばでただ座っていたのですが、なかなかの友情であると感動をおぼえます。
 
不幸な目に遭った友人や知人と会うと、私たちはよく「言葉もない」と言います。私も言います。しかし「言葉もない」という表現は紛れもなく「言葉」ですので、それ自体言葉で言っているので、論理的なバラドックスとして捉えることもできます。いや、茶化してはいけない。「かわいそうに」とか「たいへんですね」とか、そうした平凡な慰めの言葉をかけるだけでは済まない情況が起こっている、というふうに言いたいのです。「言葉もない」というお決まりの「言葉」を使って、最高度の悲しみの表現としているというのが、実情ではないかと主産ます。
 
このヨブのように、自分が実際に不幸な目に遭うというよりも、私たちはたいてい、テレビ画面の向こう側で、理不尽な災いや不幸に見舞われた人々を目撃し、知ることになります。報道カメラは、災害で家をなくした人にインタビューをし、殺害された人の家族の表情を映し出します。あるいは悲壮な顔のレポーターやキャスターが、ワイドショーで同情を寄せて視聴者の共感を誘い、次の瞬間「では、次のコーナーは」と笑顔で芸能界の話題を紹介するのです。不幸な人の画は、視聴率をとりスポンサーから支払いを受けるための、素材に過ぎない場合があるような気がしてなりません。
 
でも、被災者も被害者の関係者も、タイムキーパーにより「次のコーナー」には移り変わることができません。現実にそういう目に遭っている人々にとっては、「次のコーナー」はありません。ひたすら重苦しい、後悔と涙と、真っ黒な未来に阻まれた道しか、そこにはないのです。けれど私たちは、視聴者として、つまり傍観者として、「次のコーナー」に移ることができます。実のところ、大抵の場合、私たちは、せいぜいヨブの友だちのように、不幸な人を眺めています。その立ち位置にいるからこそ、思えるのです。「罪のない人に災いがくるのはどうしてか」などと。
 
「次のコーナー」に移れない当事者。でも、その人が生きてさえいるならば、自分の身に降りかかった災難をも、何らかの意味で乗り越えていると言えるかもしれません。辛くても、なんとか生きているということは、この先の未来を歩んでいこうとする気持ちがあると言えるのでしょう。やり直しをしようとか、気を取り直して行こうとか自分に言い聞かせて、立ち上がろうとすることができます。それことを、現に、何らかの意味で乗り越えていると表現してみたいと思ったのです。けれども、逆にすでに死んだ人については、やり直しもできないし、気を取り直して進むということもできません。死んだということは、それができない点で、生きている者と決定的に違います。死んだ人に対して、生きている者が関係を結ぶことができないのも、そういうことです。
 
あまり具体的に言うのは差し障りがあるのですが、私にとって、「あの時」から時が動かない出来事がありました。
 
学習塾で教えていたその男の子は、私の長男と同い年でした。中学受験を目指して頑張っていました。四年生くらいのときには頼りない感じでしたが、六年生になると、県下でトップの久留米附設中学を目指せるくらいに力が伸びてきました。
 
夏至のころにやってきた台風明けの深夜、彼が死にました。殺されました。私は、前日まで彼の顔を見ていました。ミッション系の小学校に通っていたから、神さまの話は耳にしていたことは間違いありません。そこに縋るようにしながらも、私は立ち上がれないほどに崩れ落ちました。
 
何故。考えても、答えは出ません。罪もないのに、とは人間について適用できないフレーズだということは分かっていますが、しかし彼が罪があるから殺された、などとは言いたくないし、罪がないのに殺された、とも言えないジレンマに陥りました。いや、実のところそんなことを考えるゆとりは、当初ありませんでした。
 
コヘレトも、そのような世情を見ていたのだと思います。善人が、罪もなさそうなのに、不幸のどん底に陥る。可哀相に。悪人にしか思えない者が、世間で幅を利かせて生きており、豊かな財産と安定した生活をしています。その財の故に他人を見下し、あるいは心の腐ったような、「汚い」ことをして平気でいます。コヘレトは世界の不条理を思ったことでしょう。
 
いま若い人たちは見たことすらないかもしれませんが、かつては「時代劇」が人気でした。テレビ番組の常道は「勧善懲悪」。善人が最終的には勝ち、悪人が罰せられる、お決まりの筋書き。最後に悪人がやっつけられるのを見て、よかったと胸を撫で下ろすことができるので、見ていると毎回癖になるものでした。視聴者はそこに、一種のカタルシスを覚えていたのだろうと思います。
 
政治の世界では、民衆に何かカタルシスを味わわせるテクニックがあります。不満を言いたいだけ言わせておいてすっきりさせ、いわゆる「ガス抜き」をさせることで、言いたいだけ言わせておけば疲れて本当に追及する場面では気力がなくなっていくわけです。為政者は人民に奉仕するのと同時に、人民を操っていくものです。聖書が、もし勧善懲悪でもちきりだったら、読者はずいぶんすっきりしたものでしょう。コヘレト書も存在せず、世の中は神の側の善と、サタンの側の悪との戦いが描かれ、神の側が勝利する、という筋書きで十分でした。でもそんなものが聖書だったら、私たちには信じることなどできなかったことだろうと思います。コヘレト書のように、不条理があることと、その不条理を抱えているのが紛れもない自分自身だ、という指摘があるからこそ、聖書というものであったと言えるだろうと思います。
 
ところで「不条理」という言葉を用いましたが、一応確認しておきたいと思います。それは筋道が通らないように見えることをいいます。理屈に合わない、素直に考えていくと理解できない、ということです。そのような不条理なところに実は真理がある、と考えることをよく「逆説」と言いますが、「逆説」となると、また様々な意味合いや種類がありますので、今回は、理屈に合わないという「不条理」という言葉を用います。またこれは、どこか不満な思いを抱きながら使う言葉である、という背景の中で用いていくことになります。
 
コヘレトがここで善人と悪人とをしきりに対比させ、賢者と愚者の対比によって人間の行く末が変わることを明示する様子を私たちは見ます。しかし目に映る現象は、どこまでも人間の好みの勧善懲悪などにはなりません。世界は不条理です。人間の思惑などどこぞに吹き飛んで行ってしまい、納得できない事態がただ目の前で起こるばかりです。いったい神はいるのか、そう叫びたくなるほでです。
 
何もかも空しい。これはペシミストの思考回路であるし、鬱的な症状を示すのはこういう時であるかもしれません。私もまさにそういう洞窟に陥ったことがありました。そして命懸けで開いた聖書から光が射しました。但しその光は、最初優しく包み込むものではありませんでした。自分の間違い突きつけられたときには、頭を殴られた感覚がありました。打ちのめされてへばっていた、そこに初めて、十字架からの光が射してきたのでした。
 
コヘレトも、きっとそうした惨めな自分を思い知らされたのだと私は思っています。何か達観して、真理を悟ったなどというのではなく、また、苦行の末に見出したというのでもなく、自分の孤独さと惨めさを味わわされて、神から光を受けたのだろうと想像するのです。
 
確かにコヘレトは裕福です。申し分のない教養もあります。世の人々から見れば羨ましい限りの人間でしょう。それが「空しさを覚えた」などというのは、汗水垂らしてその日暮らしをしている人々から見ると贅沢の極のようにも思えるかもしれませんが、事実コヘレトは空しかったのだろうと思います。きっと、死んでしまおうかと思ったこともあったと私は推測します。だからこそ、「幸福なのは、生まれて来なかった者だ」(4/3)とまで言えたのだと思うのです。それを一度は味わった。そうでなければ、コヘレトの言葉なるものも、観念的で演技的な、薄っぺらいものになってしまうのではないでしょうか。
 
コヘレトは、力の限りを尽くして、全てを見極めようと、命を懸けて調べ尽くしました。けれども、そうすればするほど、不条理ばかりしか目に入ってきませんでした。この世界は理想には届かない。理想どころか、善人が苦しみ、悪人が栄えるなど、神などいるものか、と思えるほどの不条理な世界ではないか。それが現実なのだ。
 
「不条理」という言葉は、一時たいへん世を賑わせました。文学でも有名な概念です。たとえばカミュは、20世紀の不条理を描いて、1957年にノーベル文学賞まで受けました。今年はその『ペスト』が、新型コロナウイルスの流行の中でたいへんよく読まれました。が、やはり衝撃は『異邦人』の冒頭であったかもしれません。新潮文庫版の窪田啓作訳が人口に膾炙しています。
 
きょう、ママンが死んだ。
 
その葬儀の翌日、知り合った女と情事に耽り、その後殺人を犯し、その理由にとんでもないことを吐きます。ネタバレになりますので、これ以上は申しませんが、確かに「なんだこれは」と言いたくなるような展開です。カミュはフランス人ですが、前世紀からのアメリカ文学でもまた、これに近いものがもてはやされているような気もします。『グレートギャツビー』がどうしてアメリカで大人気なのか。あれもなんだか不条理ではないでしょうか。一面でやたらヒーローに憧れるアメリカですが、どこか暗い、コンプレックスや闇を隠し持っているように私には思われてなりません。
 
聖書の中にも、この「不条理」は数限りなくあります。古くは、「不条理なるが故に我信ず」などと言って、信仰は理屈じゃないぞ、と説明した人(テルトゥリアヌス?)もいました。でも、やっぱり納得できないことがあるのではないでしょうか。何故アベルは殺されなければならなかったのか。アブラハムの召命も不可解です。とんでもなく悪辣なヤコブが何故イスラエルの始祖であるのか。金の子牛を作ったアロンとその子孫は祝福されたが、子牛を囲んで喜び踊った者たちは成敗されました。ウザはどうして死なねばならなかったのか。カナンの地で原住民を殺戮することを何故神は命じたのか。旧約聖書の最初のところを開いただけでも、うんざりするほど、私たちの感覚に背く記事が並んでいます。ヨブへの仕打ちは、どこに神の愛があるのか、理解不能なほどです。それでも、
 
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。(イザヤ55:8)
 
確かに違うでしょう。人が思う理想と、神のみこころというものが一致しているほどに、人が完全なものではないでしょう。人が気づかないこと、人がいくら精一杯考えてもそれを上回る知恵と計画を神はお持ちだ。それが神を信頼すること、神への信仰だということも、私は受け容れます。でもそれにしても、人の目に「不条理」に見えることが、この世界には限りなく満ちている、それも否むことができないのです。
 
そういう中でコヘレトは、ふと気づきます。善の度が過ぎてもいけないのだ、と。
 
7:16 善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。
 
別の訳(新改訳・フランシスコ会訳など)では「あなたは正しすぎてはならない」と、もう少し近づきやすいような表現がとられています。これは、善いことをしてはならない、という意味ではないものだろうと思います。
 
人が争うのはどうしてか。それは、自分が正しくて相手が間違っている、と思う場合が多いと思われます。相手が正しいと分かっていて争うこともないわけではありませんが、基本的に、自分が正しくて、相手が悪いのです。自分は完全な善を果たしており、相手は全くの悪である。この確信が強いのです。けれども、完全に善なる人間がいるかというと、聖書は否定的です。現に、この争いでは、双方が、「自分が正しい」と考えているのですから、どちらも正しいならば争いにはならないのではないでしょうか。自分が正しい、と自分が決める。ここに驕りがあり、傲慢さがあります。
 
7:20 善のみ行って罪を犯さないような人間は
この地上にはいない。
 
このようなことは、新約聖書にも指摘がありました。
 
正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。(ローマ3:10-12)
 
パウロが、すべての人が罪の下にあることを言うために、詩編(53編など)から引用して見せました。このような人間が、「自分は正しい」「自分は義人だ」と言い放ち、一歩も引かない姿を、聖書を知る私たちは、やはり肯定することはできないでしょう。
 
すると、ここで私たちの感情に少しばかり反省が入ります。私たちは、最初に嘆きました。「どうして罪もない人が災いに遭うのだろうか」と。しかし、「正しい人」が究極的にはいないとなると、この嘆きの一部に亀裂が入ります。
 
ところがまた、この反省にも批判が加わります。それでは、罪のある人が災いに遭うというのか。だったら、病気になった人が、罪のためだと責められていたことを認めていることになるではないか。イエスは、そうしたユダヤの律法のエリートたちの思いこみを打ち破ることを、福音書で度々試みていたのではないか。
 
そうです。だから、このコヘレトの、やはり人間による知恵としか言えないような考察では、限界があるのです。もちろん、それは私たちも同じです。誰もが、罪と災いについては、すっきりとした説明や解決に出会うことができないのです。この「不条理」の中から逃れられないことを、コヘレトも自覚しています。そういうとき、何かひとつの真理を握ったぞ、と思わないほうが賢明だということを、私たちも経験的に知っています。二つの対立する意見があるときに、完全にこちらの方が正しくて、あちらの方がすべて間違いだ、というように言えることは、なかなかないのではないでしょうか。

7:18 一つのことをつかむのはよいが
ほかのことからも手を放してはいけない。
神を畏れ敬えば
どちらをも成し遂げることができる。
 
きっとコヘレトは、違う意味で言っているのだと思います。コヘレトは、極端に走らず、バランスの取れた立場を取るのがよかろう、という人生訓を語っているのかもしれません。特にこの辺りには、「神」という語があまり出て来ません。「神」なしに、人間の知恵の世界をぶつぶつと呟いているようなふうに読まざるをえないからです。しかしやはり、「神を敬えば」どうであるか、と言っています。「神」なしではないはずです。
 
人間は夢中になると、ひとつの意見を金科玉条として掲げ、絶対的な真理として掲げたくなります。それは、真理だからというよりも、「真理を知っている自分を誇る」気持ちがどこかにあるものです。自分だけがこの真理を知っているぞ、この真理を知らないおまえたちは愚かだ、バカだ。そんな思いが、しばしばひとつの考えを絶対的な真理として掲げることになります。
 
待てよ。これが正しいとか、これこそ真理だとか、本当は自分を誇りたいが故の議論というのを、さしあたり止めてみてはどうでしょうか。そうではない。まずはひとつこの場に留まりましょう。先を急がずに、ここに立ち止まってみましょう。私たちは、とにもかくにも、いまこの聖書の言葉を聞いています。私たちは、とにかく生きて、この言葉を聞いています。「我思う故に我あり」のように、生きてこの言葉を聞いている私たちは確かにいまここにいます。
 
不条理の謎を解明することは、人間にはできないかもしれません。いえ、できないはずです。それなら、生きている私たち、いま神の言葉を聞いている私たち、それをまず第一のものとして歩み始めてはどうでしょう。私たちは生きています。あるいは、神により生かされています。その私は、決定的な善人などではありません。そうです。そんなことは、自分が一番よく知っていることなのです。けれども、生きている。生かされている。考えてみましょう。これが一番不条理なことではないでしょうか。こんな不完全な私が、いま生かされているというのは、不条理ではないのでしょうか。もし、いや私は偉いのだから生きていて当然だ、と豪語する者がいたら、残念ながら、キリストはその言動に相応しく接してくることでしょう。私はそもそも生きている価値すらないはずなのに、いまこうして生かされているのだ、としか私には思えません。
 
自分は生きている価値がないち、そう絶望した自分が、かつていました。死ぬことばかり考えていた自分がいました。その時からすれば、生かされていることを痛感しているいまの自分は、不条理極まりないものだとはっきり言うことができます。ひとを傷つけ、何の存在意味もなく、力も才能もなく、愛しているなどと口では言いながら全く以て愛などと呼べるものを持ち合わせていないことを思い知らされ、嘘つきの自分を呪いさえした自分が、神は愛です、などと今語っている。これはなんと不条理な出来事なのでしょうか。こうして教会にいるなどということが、最も不可解極まりないことなのです。
 
この不条理に比べたら、世の中に不条理であるかのように見えることなど、大した矛盾ではないように思えてきます。この私を助け起こして希望を与えてくれた神の、不条理な業には何の説明もできないし、驚くばかりの出来事だと言わざるを得ません。その神がしてくださる解決を信頼することしか、私にはできないのです。私が人間の知恵で判断して、神の思いはこうであるとか、神はきっとこんなふうに考えているだとか、決めることなどできるはずがありません。理解ができないときにも親をただ信じることしかできない子どものように、神を信頼することを、神の子どもたる立場に置いてくれた神を信頼することを、私たちはやっていくしかないのです。
 
コヘレトはこの後、コヘレトなりの、生き方の真実を見出します。けれどもここではまだそこに急がず、コヘレトが調べ尽くしてもなお残る不条理というものに出会ったことを確認しました。コヘレトは、不条理のジレンマに陥っていたようでした。それで仕方なく、せめて、これが真理だといきり立つようなことを避けよう、と提案しました。コヘレトもまた、どちらにも転べないような、ひとつのジレンマに陥っていたと思うのです。だから静観して、風を追うような無意味なことに熱心になるな、と警告し続けていたのでしょう。
 
このコヘレトの不条理を、すっきりと破る人は、決して存在しないのでしょうか。私は、ただ一人だけ、いたと思います。いえ、いる、と思います。特別な存在としての、イエス・キリストだけが、この不条理を破ることができると思います。十字架の死という、最高の不条理を経て、究極の不条理である復活を成し遂げたイエス・キリストの内にこそ、災いに関する私たちの疑問を解決する秘密があるのだと考えるのです。
 
このイエス・キリストの恵みをすでに知っている人は、世の中がどうなろうとも、物語の結末は分かっています。キリストの救いを得ている人は、不条理の行く先を、実は知っているはずです。それに対して、まだそれを知らない人もこの中にいらっしゃるかと思いますが、聖書の物語を、またその物語の中に登場することになるご自分の物語を、これからきっと生き生きと体験なさることになるだろうと思います。きっと、そこには明るい光と、希望の幻が与えられることを私は信じます。そう信じる人には、必ず与えられますから。
 
そう信じたいと思い、聖書や教会に関心をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。しかし、何かしらそう行動することを阻むものがおありかもしれません。家族や友人など、人の意見や眼差しが、自分ひとり聖書に向かうことをためらわせている、ということがあるかもしれません。コヘレトは言います。
 
7:21 人の言うことをいちいち気にするな。
そうすれば、僕があなたを呪っても
聞き流していられる。
 
この「人」というのは、あなたの心の歩みを阻害する誰かであるかもしれませんが、私は、この「人」とは、あなた自身でもありうると考えています。誰よりも、あなた自身が、ぶつぶつ言っているかもしれないのです。あなた自身が、不条理だとか、信じられないとか、抵抗しているのではありませんか。そんな人間であるあなたの知恵をいちいち気にせず、一歩前進してみては如何でしょう。誰がどんな悪口を言おうとも、自分自身が自分に何か認めがたいところをもっていたとしても、それを聞き流すことができるはずです。神の知恵が、あなたを力づけてくださることを、私は強く信じています。
 
NHK朝の連続テレビ小説、いわゆる朝ドラ「エール」で、先週末、「長崎の鐘」誕生のシーンがありました。最初に触れた永井隆博士が、ドラマのテーマの核心をずばり示すものでしたが、実際には永井隆博士と古関裕而との面会があってこの曲が生まれた訳ではなかったといいます。しかし、曲が生まれた後、永井博士はロザリオを贈るなど、深い交流があったのは事実のようです。
 
ドラマの中で、永井隆博士モデルの人物が、裕一に語ります。
 
――神の存在を問うた若者のように、「なぜ」「どうして」と自分の身を振り返っとるうちは、希望はもてません。どん底まで落ちて、大地を踏みしめ、共に頑張れる仲間がいて、初めて、真の希望が生まれるとです。
 
コヘレトも、「なぜ」「どうして」と問うのを止めます。この後、「コヘレトの言葉」は、希望を見出していくことになります。私たちもさらに「コヘレトの言葉」に親しみ、コヘレトすら届かなかった希望に向けて、神の声を聞きたいと切に願いたいと思います。



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