礼拝とは何か
2020年10月25日
『礼拝とは何か』(J.E.バークハート・越川弘英訳)の第一章「礼拝とは何か」を資料として読む機会がありました。そこで感じたことを、バークハートの言っていることをベースに、お話ししたいと思います。
そもそも礼拝には「意味」があるのか。バークハートは『礼拝とは何か』の「はじめに」で問います。しかし、礼拝が現に存在する以上、意味はあるとすべきだと思われます。むしろ問われるのは、礼拝には「意義」があるのか、という方ではないでしょうか。
「礼拝」には何らかの「定義」があるでしょう。それを私たちは定かにはできないかもしれませんが、何かしらの「定義」を生み出すことも可能でしょう。しかし「礼拝」をすることに何らかの価値があるのかどうか、無駄なことではないのか、ということを問うのは「意義」の問題だと言えます。
原文がどうなっているか分かりませんが、まずこの「はじめに」の問いで少し戸惑います。恐らく「意義」を問うているのだろうと思うのですが、しかし私は、「意味」を問う試みとしても面白いのではないかと考えました。というのは、バークハート自身、この最初の章、ずばり「礼拝とは何か」という章において、実に様々な「定義」を試みているからです。
実際、「礼拝とは」という投げかけに応答する述語は、それほど簡単ではありません。私たち、すなわち教会のまさに礼拝に週毎に参加している信仰者たちもまた、それぞれ様々な思いと価値づけの中で、そこにいるように見えるからです。
その説明にあたっては、やはり一定の基本理解は必要となります。「ラトレイア」の表現からは奉仕をイメージし、「レイトゥルギア」からは慈善活動に傾く内実を感じ、「プロスキネオー」は最も普通に扱われ、膝を屈める姿勢を指すものだ、と著者は簡単に示します。
しかしこの辺り、ずいぶんとすっきりと分離してしまった観もあります。たとえば「レイトゥルギア」のほうが「奉仕」を表し、それは自発的なものと、強制されてのものと両方を含みもつ可能性のある語であり、キリストにおいてその二つは矛盾することなく調和していくであろうということが、『新約聖書のギリシア語』(ウィリアム・バークレー)では説明されています。この「レイトゥルギア」から発した「リタージー」という英語の言葉が、「聖餐を中心とする公同の式文的礼拝」であるとして、古代の記録から拾い上げて解説をしているのが、由木康氏です。言うまでもありませんが、1954年改訂の「讃美歌」を作ったと言っても過言ではない人であり、パスカルの研究家としても有名です。それが、『礼拝学概論』という力作によって、礼拝についてのオピニオン・リーダーともなりました。但しそれは1961年の著作であるため、その後の世界的動向を踏まえていないのですが、それでも、エキュメニカルな運動へつながる精神に貫かれており、方向性が誤っていることはないように見受けられます。
さて、この「リタージー」ですが、いまはよく「リタジー」として、特に、このバークハートの本の訳者である越川弘英氏は光を当てて提言しています。『今、礼拝を考える』の中では、「リタジー」が、初期教会では、「礼拝に拘わる行為や職務や奉仕の働きに対して」用いていたことを挙げ、これによる礼拝を、「礼拝参加者が共に礼拝を守るために各人がそれぞれの役割を積極的に果たしている常態のことを意味する」という、ホワイトの言葉を引いて説明します。従って、この「リタジー」による礼拝、すなわち「リタージカルな礼拝むとは、「公同の礼拝」のことであり、キリスト者にとっての「公務」であると指摘します。
こうして見てくると、本書において、三つのギリシア語を示してそれぞれの意味の違いを単純に区切ったような点については、やはり単純すぎるきらいがあるように感じられます。そこで、これらの一つひとつの言葉の意味を区別するような説明ではなく、「ギリシア語では複数の語が使われており、それぞれに由来やニュアンスの小さな違いがあるにしても、その全体において、ギリシア語で『礼拝』を表していた語は、」というような言い方をすることで、そこに「奉仕」が考えられており、また「神の恵みに対する応答」が含まれている、というような叙述が続いたほうが、スムーズに読みやすかったように思われます。
ここから本書は、「礼拝とは何か」に対する答えを提示しようとしますが、それがひとつの定義によりくっきりと描けるような代物ではないことは、覚悟しなければなりません。全能の神と、それに向き合う人間との織りなす出来事のリアルな現場である「礼拝」なるものが、そう簡単に一言で説明できるようなものであるはずがありません。それは神と人間との関係が、実に豊かな内容を生み出すはずのものだ、という捉え方からも納得できるでしょう。
礼拝とは、まず「神の恵みに対する応答」であるのだ、と本書は読者の目をひとつの方向に向けます。次に、その応答としての礼拝は、実際には、「象徴的行為」の形において行われると指摘し、その「象徴」なるものについて詳述されます。容易に形に出して示せないものを、ある象徴を立てることにより、その表現しづらいところを指し示す、そういうものを象徴と言いますが、私たちの営む「礼拝」という行為も、その向こうに、直接表されていない何ものかを指し示すことができるし、また指し示すのでなければならない、という点を強調するわけです。
礼拝はひとつの「儀式」でありましょう。また、それはひとつの「文化」に基づいている、とも考えられます。この「礼拝」は、どういう文化の中にあるのでしょうか。そこには、いかにもの「人間的なことがら」しかないように見えていて、その背後にある「聖なることがら」がそこに結びついていること、これらの間に絆にも似た「関係」が存在するということを、確認する必要があるでしょう。私たちはこの神と人との関係の中にあるとき、人間の命や生き方というものについて、望ましい理解ができ、それに相応しく生きていくことができるのです。私たちの生活には、聖なる神のことがらが、確かにつながっていることを覚えているならば。
この礼拝、私たちが最も明確にそこで表すべきことは、「神をほめたたえる」ことであるのだ、と本書はぶつけてきます。これこそ、礼拝の核心でなければならない、とするのです。「ほめたたえる」だけではまだ具体像が思いつかないかもしれないせいか、本書はここで「歓呼すること」「奉仕すること」「喜ぶこと」「参与すること」「喜び歌うこと」「主を知ること」「人々が存在すること」「感謝すること」「賛美すること」「祝福すること」「神の恵み深さを認めること」なのだ、と並べました。そして、これらを総括して、「礼拝とはまさに喜びに満ちた神への『肯定』Yesなのである」とまとめます。
神に対しては賛美の応答をする、というところまで来たわけですが、そこから、バークハートのユニークな提言が始まります。「礼拝には三つの次元が存在する」というのです。それは「認識」「リハーサル」「宣教」という三つの次元なのだそうです。
神は愛と正義、恵みなどに満ちていると信じること。これが「認識」です。私たちは神に向けて心を開き、神に対して自分を変えてくださいと祈ることができます。それを感謝として受け止めることができるし、そのためには自分を神に対してオープンにしなければなりません。たんに「知識とする」だけのものではなく、全人格をもって応答するべく神の注ぐ愛を体験するということを、「認識」と呼んで然るべきでありましょう。
礼拝で聖書の物語を聞くとき、私たちはひとつの脚本のようにその場面に浸り、セリフすら覚えます。そして自分がまさにイエスと対面したその人物となりますが、まだこの時点で私たちは地上にいます。神の国に迎え入れられた状態ではありません。つまりいまは礼拝の中で、神の国での出来事の「リハーサル」をしているようなものである、というのです。私たちは、小さな自己への束縛から解放されるでしょう。私たちは人生を変えられるでしょう。新しくされることでしょう。
こうして礼拝が、私たちが神を受け容れる場となり、神の国の本番がいつ実現しても大丈夫なように練習しておくならば、キリストが命じた大切な戒めのひとつ、私たちが隣人を愛すること、世の人々のために尽くすこと、たとえそれが行為として完遂できないにしても、どうすればよいかを知ることができるでしょう。こうして「宣教」が第三のレベルに浮かび上がってきます。
「応答としての礼拝とは神を『認識』することであり、恵みに満ちた現実としての生を『リハーサル』することであると共に、それはまた、この世界を聖なるものとして『宣べ伝える』ことでもある。」とのまとめを味わいたいところです。
しかし、これでもなお、「礼拝とは何か」という問いに対する、十分な回答になっているとは言えないでしょう。神と人との関係は、単純な定義で決まるものではないでしょうから。この第一章を閉じるにあたり、花火大会のフィナーレを飾る激しい花火の打ち上げのように、「礼拝とは」の述語について、言い足りなかったことを、著者は立て続けにぶつけてきます。つまり「礼拝とは」、
この世に対して神がすでになさったこと、今なさっておられること、そしてやがてなさるであろうことについて、「生きた記念」として奉仕する行為のことである
世界には神の恵みが染み透っているがゆえに、この世界が神に属しているという事実の指標・しるしである
「神の存在」に大してというよりも、むしろ「神の行為」に大して、より強い関心を寄せるものである
私たちの生活の中で客観的なかたちで経験された聖なるものに対する応答のことである
ある特定のかたちで現存しているものを変革する力をもった実在者に対する応答であり、証のことである
こうして、私たちが賛美と喜びと共に主に仕えるときに、いやそのときにのみ、礼拝は価値をもつのだ、という意味で、最初の章を結びます。かの三つの次元という面白い段階説明には、さらに検討が必要であるでしょう。たとえば私、いえ「あなた」が加わってこそ、礼拝は礼拝であるのだ、という共同体の視点もここには含まれてくるべきでしょう。まだこの章では、どこか一般的な説明に終始し、読者がまだ他人事のように礼拝を眺めていたとしても、読むことのできる文章であったようにも感じます。読者を強力に巻き込み、そのリハーサルの舞台に確かに立たせることによって、私、そして「あなた」が、この礼拝の場の中に位置しなければなりません。また、それは、神との関係という大前提が必要な出来事となります。神と私、神と「あなた」との関係が結ばれていることがなければ、これらの次元は成立しないし、逆に言えば、その関係が結ばれているならば、これらの次元はほぼ同時に成立するものである、とも考えられます。ではその関係はどのようにして成立するのでしょうか。
そこにはどうしても、イエス・キリストがいなければなりません。
なお、訳者の越川弘英氏は、2020年10月現在最新刊の「福音と世界」2020年11月号にて、「パンデミックとインターネット礼拝」というレポートを発表しています。「共同体性と身体性の視点から」というサブタイトルと共に、このリモート礼拝を通して気づかされたこととその問題点、礼拝に対する私たちのスタンスなどを、まさに今に即して綴っています。礼拝について突き詰めて考えてきた人だからこそ、気づくこと、提言しなければならないと感じたことが、短い文章の中に溢れています。私たちは、アメリカの神学者がかつて提示していた「礼拝」をのみ信奉するのではなく、コロナ禍のいま、この日本で起こっていることと向き合って、いまと今後の「礼拝」をも、熱心に考え、求めなければならないものと思われます。もしもこの三つの次元の捉え方が、集まれず密になれない時代要請の中で何か生かせるとしたらどういうことであるのか、また、そこにある「宣教」の次元が、これまでも絶望的なほどに弱くなっていたのが、益々弱まることにおいて加速していることが確実なこのコロナ禍の世界の中で、教会に何ができるのか、これは喫緊に考え、動いていかなければならないのではないか、と私はさらに付け加えたい思いで一杯です。