通りかかる人に福音を

2020年10月23日

教会が街角にあります。いえ、本当に、ちょっとした角にあるのです。そこに道路から一歩引っこんでいられるスペースがあるものですから、人が立ち止まり一休みすることができそうです。
 
見つめていると、そこにしばらく立ってスマホを見ている人がいます。それも、何人も。やがて人がそこに来ると、一緒に歩き始め、雑踏の中へ消えていきました。
 
そう、待ち合わせの場所として、使われていたのです。礼拝前に見ていると、それはもう何組もそういう人がありましたから、偶々見たというわけではないと思われます。
 
そのすぐ後ろには、教会の掲示板があります。いろいろ説明したポスターが貼ってあります。しかし、誰かを待っている間に、それに目を向ける人はひとりもいません。字が細かすぎるというのもあるでしょうが、そもそもそれに関心がない、という風でもありました。
 
ハロウィンについてどう思うかというアンケートを見ました。経済のためにはいいんじゃないか、とか、子どもが喜んでいる、とかいう意見もありました。お祭りのやりすぎだ、というような声もありました。が、一番多かったのが、「自分には関係がない」というものでした。
 
それは自分には関係がない。確かにそうだと思います。いろいろやることの多い人間にとっては、星空も見上げることがなくなったし、足元の草花を愛でることもありません。まして、教会の案内掲示物を読むなど、全く関係のない事柄に好奇心をもつことなど、ないわけです。「エスカレータを歩くな」の駅のポスターも見やしないし、「ここで立ち止まらないでください」の表示も無意味。自分に関係がないと思ったら、ポスターも呼びかけも、全く意識の中に入らないのが実情です。
 
せっかく教会の前で立ち止まっている人がいるのです。この人たちに、ここは教会だぞと少しでも印象づけることは、できないのでしょうか。
 
いくら知って欲しいという気持ちがあっても、細かな文字でたくさん情報をそこに置いておけば見てくれる、という発想が何にもならないことは、多くの方がもうお気づきでしょう。小さな文字は、興味をもって知りたいと思った人が読む情報です。興味をもつことが前提です。まして、基本的に「自分とは関係がない」というスタンスにいるだけの教会というところに、何か顔を向けること自体が、稀有なことでしかない以上、基本的にそこを短時間で素通りする人々に対しては、情報を提供しようという教会側の希望は、何の意味もなさないものとなっていると言えるでしょう。
 
待てよ。基本的に自分と無関係と思いながら、思わず見入ってしまうというものが、あるような気がします。お寺の前に、墨文字で書かれた、「ほとけの教え」ないしそれに基づく、短い呼びかけのような、洒落た言葉。あれ、大きな文字で短くポンとぶつけられるので、つい目が向き、そして読んでしまいます。その「教え」は、ずっと残りはしないかもしれませんが、そのこと自体は、事実このように「お寺の前によく文字が書いてあるよね」「そう、そう」というくらいに、意識の中に残っています。
 
『お寺の掲示板』という本について以前ご紹介しました。オンラインで、ユニークな掲示板の写真を募り、集めていたのが本になったという具合です。当然ここには、面白いものが揃っています。「お寺の掲示板大賞」なるものが選ばれるというので、実に愉快なものがノミネートされます。しかしまた、そこには何らかの、仏教精神が盛り込まれているのも本当です。但し、どの経なのかということにはこだわらないし、もちろん経典からの引用でもありません。しかし、心にぐっとくるのです。
 
このインスタ映えを求める世相の中で、お寺の掲示板への注目度は、なかなかのものであると見ました。
 
教会でも、嫌でも通行人の目に入るくらいの、一言、たった一言がぶつけられたらよいと思います。そう、昔からありました。「疲れた者、重荷を負う者は……」というのがナンバーワンの人気でしょうか、確かに、教会の前にあるこの言葉に心が助けられ、信じたという話も、かつてあるにはあったのでしょう。それがキリスト教世界に広まると、それはいい、ということで、あちこちの教会が挙ってこのマタイ11章を看板に掲げるようになっていったのではないでしょうか。
 
心に罪の意識を覚え、あるいは人生の苦労に行き詰まり、死ぬことさえ考えているような絶望の中にいる人が、こうした聖書の言葉に救われるということは、確かにあるだろうと思います。聖書の言葉に力がある、という信仰を、キリスト教会はもっているので、とにかく聖書の言葉を掲げるのが一番だ、と思う気持ちも、理解できます。
 
けれども、そもそも文化が異なる中で生まれた聖書の言葉、またいかにも専門用語や特別な意味合いをもつ言葉の多い聖句を、そのまま掲示しても、説き明かしでもしないことには、基本的に伝わりづらいことだと思われます。聖書の言葉に力があることと、聖書の言葉をそのまま見せれば救われるということとは、同じではないのです。
 
お寺の掲示板を真似ることになると言われるかもしれませんが、「おっ」と目を惹くこと、そして「なんだ」と言葉が心に入り、「いいこと言うよな」とか「なんでかな」とか、何か心に引っかかるような効果をもたらすようなコピー、あるいはキャッチフレーズを、大きな文字でぶつけることを、やってもいいのではないでしょうか。但しもちろんそれは、毛筆で説教題を書いて立てかける、というのとは意味が違うことは、ご理解戴けるものと思っています。
 
その深い意味はもちろん、後からでもよいのです。聖書の言葉に後から触れて、「そうなんだぁ」とでも思ってもらったら、万々歳です。聖書にその人が近づくきっかけになるならば、なにかしら心を捉える呼びかけを、試みてよいのではないでしょうか。
 
具体的なアイディアは、その教会の置かれた場所や情況、通りかかる人々の違いにより、様々でしょう。「悲しむ者は幸いである」と書かれていても、自分とは関係がない、と思わせるでしょうが、「悲しんだ者勝ち!」とでも書いてあれば、ちょいと気になりやすいかもしれません。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、現実味のない言葉を掲げるよりは、「休暇がもらえる秘訣、あります」くらいのほうが、自分との関係が生まれる可能性があるのではないでしょうか。
 
まずは、やってみる気持ちがあるかどうかです。掲示板にちまちまとたくさん貼るのはやめて、ひとつどーんと、大きな文字で、福音へのきっかけを、見えるように置いてみてはどうでしょう。イエスもまた、大声で、人々に呼びかけたことがありました。聞く気のある人々にこそ、教えを、説明を始めたのです。
 
どうぞ意地悪く誤解をなさらないでください。こうすれば教会に新しく人が来るでしょう、などと言っているわけではありません。人々の、自分とは関係がない、というところから、ひとつ踏み込んで関係をつくるための、教会側の意識改革のつもりで申し上げています。それは福音を伝えるための、最初のきっかけとなる可能性を探す試みであったのです。



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