体験イベントの可能性
2020年10月21日
日本の伝統文化の抱える問題。近年の入試問題は、知識の多少ばかりでなく、思考力とプレゼン力を測ることを重視する傾向に変化しています。その対策として、たとえぱ社会問題を資料として挙げ、その問題点をまとめ、あるいは対策を講じるという文章を書かせる教室も、作られています。
浄瑠璃や歌舞伎を見ても、言葉が分からないし、意味も分からない。自然、映画やコンサートなどのほうに人々は流れてしまう。そこで、維持するために、国から補助金を受けるという形で伝統文化は存続しているという現状がある。その資料では、こうした点が、数字データと共に挙げられていました。
そこで、小学生たちは、ではどうすればよいか、を考えます。そこまでが「論文」の課題となります。まず個人で考え、グループで話し合い、またそれぞれが自分の手で「論文」をまとめる、という授業形態をとります。
教師用の模範解答例には、この対策について、昔の言葉の解説をして分かりやすくするなどの工夫をする、というようなことが書いてありました。果たしてそれで対策になるのかしら、と私は訝しく思っていましたら、小学生たちは、幾人もが次のような案を出しました。
気軽に体験できるイベントを開いたら、やってみようと近づく人が出てくるのではないか。
私は彼らを誉めました。それは用意された模範解答より、よほど凱旋性が高く、また有効であるだろうアイディアだと思ったからです。で、そういうイベントがあったら、君たちやってみたい? そう尋ねると、そうでもない、という返答だったのが、オチではあったのですが、彼らのこの「体験イベント」というアイディアは、私の心に強く残りました。
キリスト教会は、新型コロナウイルスの影響で、集まる礼拝すら開けない、あるいは開きづらい情況の中にあります。また、礼拝を再開しても、深刻な事態が待っています。
新しく教会に来る人が、現れないのです。
信徒でさえ、リモートで礼拝に参加することの多い現実の中、もはやミッション系の学校からの礼拝出席レポートも課せられない訳で、初めて教会に顔を見せる学生すら、見かけることが激減しているのではないでしょうか。そして、感染症がどうなるかということにもよりますが、大学すらようやく部分的に講義に出席できるだの、いやまだ無理だの言われている有様から考えても、今後どうなるか、全く先が見えないと言うしかないのではないでしょうか。もちろん、祈りましょう。神が戦うのであなたがたは黙っていよ、と言われることを信じることも大切です。しかし、祈りつつ、備えることも求められるのが実情でしょう。
「体験イベント」。人形浄瑠璃の人形を操作してみるイベント、案外面白そうじゃありませんか。京舞妓の恰好で京都を歩く体験もあるし、和菓子を作ってみよう、などもあります。外国人には、忍者体験も人気だと聞いたことがあったような気がします。歌舞伎の化粧でもして舞台に立たせてもらうなんてあったら、絶対インスタグラムで人気だと思うのです。
教会にも何かあるような気がします。まず「礼拝に来てみてください」、これが一番悪い。礼拝というのが神聖なものであり、神を称えるための場であることくらい、一般の人も分かっています。そんな場所にいきなり来て見ろ、と言われて気軽に行けるでしょうか。無理でしょう。そこで「礼拝を体験してみましょう」と工夫してみます。先ほどよりはいくらかマシだと思いますが、それでも体験する場が本物というのは抵抗ありまくりでしょう。
「教会を体験してみましょう」として、礼拝とは別に、お遊び・練習としての場を用意したら、もしかすると、ちょっと興味のある人は、シャレ半分でも、参加する可能性はないでしょうか。「教会のお祈り体験」や「聖書覗き見体験」、あるいは「なりきり聖歌隊」など、考えると何かありそうな気がするのですが、どうでしょうか。
そんな不謹慎な、とお叱りを受けそうですが、教会の扉がいくら開いていても、そこには間違いなく見えない厚い壁がある故に、教会に足を踏み入れるということができないのが実際のところではないでしょうか。私ですら、最初、悩んで教会に行きたいと思ったとき、その建物に一歩足を踏み入れたら人生が変わる運命になるとの覚悟がありましたし、ドアの向こうに入ると、もう引き入れられて二度と出られないようなことになるのではないか、という恐怖がありました。とにかく知らない世界に入ることには、たいへんな勇気が必要なのです。まして、宗教の怖い面も知られている時代において、教会のドアの向こうには、そんなに「気軽に」入れるものではありません。まして、礼拝の場というところに、自分のような者が入ってはいけないはずだ、と考えるのが普通の一般の人の心理ではないかと考えると、とてもじゃありませんが、「どなたでもお越し下さい」の一言で、教会に人がやってくるなど、ありえないことだと思うのです。
教会が世に対して開かれていない、というのはもはや論外です。秘密組織でカルト運動をしていればよろしい。福音を伝えるというのは、正式の「礼拝」でなければならないきまりはどこにもありません。その「礼拝」にひょいと入るというのが難しいのであれば、福音の「ふ」の字程度でも十分、聖書には一般的にかなり関心は抱かれているのですから、何かちょっぴり体験できる「イベント」を、平日でもよいから、考えてみる価値があるように思えてなりません。お寺でも、座禅体験には観光客が参加するのです。そして一度体験すると、またお寺に足を踏み入れることに抵抗がなくなります。キリスト教会が本当に、教会が救いを知らせる役割をもっているとするならば、自分の経験や自分の思いこみに束縛されたままでよいはずがないと思うのです。「イベント」、どうですか。