みんな
2020年10月19日
以前記しましたように、私はエスカレータの右側に立ち、手すりを(いまは肘で触れるという形で)握ります。というと関西の方には伝わりづらいでしょうが、福岡では東京などと同様に、エスカレータの左側に立つ風習が、数十年前からできているため、いわば「追い越し車線」を塞いでいることになります。
嫌な奴だろうとは思います。後ろの人が、歩いて追い抜くことはできない、または難しいから。
この片側に立つという「制度」は、1967年に阪急電車が梅田で始めたものだとされています。さかんに呼びかけました。全国に広まるのはそれからしばらく時間がかかりましたが、かなり定着しました。
ところが近年は、接触しての事故やトラブルが起こることが問題となり、あるいはまた、エスカレータの構造上重量のバランスのためによくないという理由もあって、片側を空けないようにとアナウンスされ、また駅にポスターや注意書が見られるようになりました。
後ろから舌打ちされたこともありますが、他の人が危ない目に遭う可能性をなくすならば、と私は今日も右側に立っています。まあ、それは義人ぶっているとまでは言えないような、天の邪鬼な思いから、と言ったほうが、より真実に近いだろうとは思うのですが。
すると、人が詰まっていない場合には、私を左から追い抜いていくこともできるので、あまり意味がないのではないか、とも思われるのでしょうが、案外誰も歩かなくなることがある、ということをまず指摘したいと思います。思うに、ポスターや駅のアナウンスに気づく人が多くなっており、エスカレータは歩くべきではない、という呼びかけを理解はしているのですが、私が右に立っているのを後ろから見ることが、歩かない動機になっているのではないでしょうか。つまり、私がそこで心理的に塞いでいるのであり、まあそこに邪魔な人間がいるから、それで自分は止まっていても仕方がないんだよね、と周囲の人に弁明できるわけです。「皆が従っているなら、自分も従っておこう」という心理です。
ところが、中にはそれでも歩いて抜いて行く人がいます。歩くことを当然と思っているのか、自分は急いでいるから仕方がないとか、その一人の心理はいまは検討しないことにします。問題は、一人が歩き始めたら、続く後ろの人々もまた、どんどん歩き始めるという点です。これもまた、「皆が従っているなら、自分も従っておこう」という心理であると分析します。自分が歩いているのは自分の意志ではないし、責任はないよ、皆が歩いているから自分も歩かざるを得ないんだ、という心理です。
この「みんな」シンドロームは、日本人にありがちだと見なされています。ありふれたジョークにありましたね。
多くの国の人が乗った客船が沈没しかかっていた。だが脱出ポートに乗せられる人の数が少ない。人減らしのために、誰か先に海へ飛び込むように促さねばならない、と船長が判断した。「おい、海の中に美人がいるぞ」と声をかけると、イタリア人の男性が飛び込んだ。「おい、飛び込むことは義務なんだ」と声をかけると、ドイツ人が飛び込んだ。「おい、いま飛び込むとヒーローになれるぞ」と声をかけると、アメリカ人が飛び込んだ。見ると、日本人がいた。船長は言った。「おい、みんな、飛び込んでるぞ」
実は他にロシア人やフランス人、中国人などもこれには登場するのですが、今回はこれくらいにしておきます。悪辣な偏見に基づいていますが、まあジョークというのはそういうものですから、そこはお許し戴きましょう。
「みんな」に従う。エスカレータという小さな現象からも、それをひしひしと感じた、というのが言いたいことでした。
「キャスティングボート」という言葉があります。基本的に、議長の決裁権のことを言います。福岡市か博多市か、と名称を決めるときに、これが行われて福岡市に決定したという話は有名です。なお、「キャスティングボード」と誤って使われることがありますが、これは「vote」ですので「ボート」です。「ベット」や「ティーパック」のように誤ってカタカナになっていることがままありますし、小学生などは「しくだい」と書く子もいますので、注意が必要です。
議論が伯仲しているとき、この「キャスティングボート」が、ちょっとした動きで一斉に片側に流れることがあります。シーソーで、ほぼつり合っているときに、一人が、そしてそれに続いて多くの人が、一気に片方に動いてしまうようなものです。
歴史の中で、戦争は、しばしばそのようにして始まり、またのめりこんでいっている、とは言えないでしょうか。感情的な理由、些細な出来事をきっかけに、少数が動くと、「みんな」そうだというふうに解されて、一気に社会が一色に染まっていく。これは怖いことです。その片側の意見というのは、必ずしも合理的な理由はありません。とにかく「みんな」そうだから、という理由で、それが唯一の正義となっていくのです。
アメリカの大統領選挙にもそのような背景があったのかもしれませんが、私たちは最近、痛いほどそれを感じたはずです。コロナ禍の中での非常事態宣言やマスク警察など、そこらじゅうがこの「みんな」シンドロームではありませんでしたか。
この点で気をつけておきたいこともあります。「みんな」が「全員」という意味ではない、ということです。「みんな持ってるんだよ。ぼくにも買って」と親にねだる子ども。「みんな」とは何人でしょう。クラスに三人くらいかもしれません。私たちが「みんな」そうしているから、と思いこみ、あるいは思いこまされるのは、決して「みんな」ではなく、ほんのわずかな人々であるかもしれないのです。しかし、そのわずかな人数の「みんな」に自分が加わることで、確実に「みんな」は増えていき、事実的に「みんな」になっていきます。いえ、そのときあなたがその「みんな」を作っていく張本人だ、ということです。
それ故、「みんな」やってるから自分の責任ではない、とか、自分ひとりくらい影響がない、とかいう考えが、実に怖いものだということを、私たちはもっと自覚しなければなりません。問題の根本は、ここにあるのです。
もちろん、教会の中でも、これは警戒すべきことです。但しいまここでそれは挙げるようなことはしません。皆さんがこの「みんな」の怖さを意識することが、必要なのだろうと提言するに留めます。