科学と信仰

2020年10月13日

息子の相談は別の日にもやってきました。仕事が終わり深夜に帰宅しても、時にこのように難しい話が待ちかまえています。
 
まず、あの文学史に関する導入がありました。実際の作品に触れたいという彼の望みを慮り、私は図書館で、「さわり」と「あらすじ」、そして文学者の紹介を集めた本を借りてきていたのです。彼はそれが面白いと言い、ただ覚えさせられるだけでは物足りない気持ちを満たすことができると喜んでいました。
 
文学については、自分のスタンスというものがあるようです。コロナ禍の中で芸術は役立たないというような声を世間(ネット社会)で聞いて、憤慨していたのです。音楽や美術についても理解は深いのですが、ここのところ、文学に関心が向いています。言葉による、人に力を与えるものがあるというところに魅力を覚えているのでした。それで、文学が必要であること、なくてはならないものであること、そんなところを論じたい気持ちが、沸々と腹の底から起こっているようです。

実は。今度は、科学から斬り込んできました。地学で地球の生成について学んだが、ずっと前から悩みがあった、というのです。聖書の創世記にある記事と、教科書や科学の記述とを、どう理解してよいか、自分の中でぶつかって、解決しないんだ。こんなことを言い、お父さんはどんなふうに折り合いをつけているのだろうか、と尋ねてきたのです。
 
なかなか重い問題をぶつけてきました。科学と信仰の問題です。しかし、よほどその時がよい機会だと感じたのか、長年の悩みを打ち明けた、というように見えました。進化論と創造論との対立のことも論じられていたものを読んだが、それも相談の中に入り込んできました。
 
私は、私なりに答えました。いまここでそれをだらだら記すつもりはありません。皆さんも、そんな質問を子どもから受けたことがおありかもしれません。どのようにお答えになりましたか。
 
ソクラテスのごとく、あれやこれやと例示しながら、しかし筋はたったひとつ貫く形でしばらくの間話した私の回答で、彼はひとつすっきりとしたようでした。折り合いがついたかしら。
 
この私の回答で、彼は、文学が必要であること、文学には間違いなく力があること、それを確信したようでした。学校で読むことになる「評論」でもこうした問題が書かれていて、それをどう受け止め、また解決すればよいのだろうか、と常々考えていたそうです。
 
そう、その辺りに私は感激しました。ただテストに出るから勉強する、それでも精一杯であろうような高校の学習です。中三のときの受験勉強の時以上の取り組みが、366日続いているような日々の中で、その評論などの問いかけに自分なりに向き合い、考えていることや、そこから文化や芸術の意味について「哲学する」ことを常態としている姿勢を、偉いと思いました。そのようにして、その学習に挑むモチーフを得ているとも言うのです。
 
鳶が鷹を生んだような驚きを覚えたのは、決して親バカなのではありません。頼もしく育ってくれたことをうれしく思うと同時に、人類の未来にまで思いを馳せるこの頭脳と心が、世界に貢献する日がいつか来るであろうという幻を見せられた気がしたのです。
 
突然もちかけられたので、私が挙げた例は冴えないものでありましたが、もう少し適切な例が見つかったら、またこの場でいつかお話しできるかもしれません。けれども、たぶんそれはしないだろうと思います。皆さまお一人おひとりが、「哲学する」ようにして戴きたいためです。私ごときの世界観に、どなたも惑わされることがありませんよう、と。
 
息子については、私の責任で、話したということです。



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