【メッセージ】特別な時から永遠へと続く扉
2020年10月11日
(コヘレト3:1-17)
何事にも時があり
天の下の出来事には
すべて定められた時がある。(コヘレト3:1)
神はすべてを時宜にかなうように造り、
また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を
始めから終りまで見極めることは
許されていない。(コヘレト3:11)
あの日あの時あの場所で君に会えなかったら
僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま
――「ラブ・ストーリーは突然に」(小田和正)
あいにく『東京ラブストーリー』は見ていませんでした。当時京都にいたのですが、京都にいると、東京が舞台のドラマというのは、ピンとこないというか、都意識でしょうか、東京はよそもん、田舎もんという目で見ていたのかもしれません。ただ、小田和正は私の星であったので、主題歌は心地よく聞いていました。
二人出会えた奇蹟のようなものを噛みしめる歌詞ですが、私たちは多かれ少なかれ、そのような体験をしていると思うのです。いえ、『東京ラブストーリー』を演じているというのではなくて、「もしもあの時○○でなかったなら」人生が変わっていただろう、と思い出せる瞬間です。
ひとつ前の列車に乗っていたら事故で死んでいたかもしれない、というような、かなり背筋の凍るような体験もあるかもしれませんが、私が強く思うのは、第一志望の大学に不合格だったからこそ、妻と巡り逢えたということです。それも、一浪までした挙げ句ですから、よほど大学には嫌われたというか、勉強をしていなかったというか、自分で招いた落胆の道であったのでもありますが、それが今の私を導いたのです。
高校のときに、国際ギデオン協会の新約聖書をもらいました。生徒会にキリスト者の女生徒Tさんがいて、学校で配布するということを実現させたのです。それを京都に持っていっていたからこそ、その数年後に、絶望の縁にいたときに、開いたことによって救われたのですから、あのTさんの存在と聖書の配布の時などは、私にとり決定的な出来事となったのでした。
「コヘレトの言葉」の中でもとびきり有名なのが、この「時」に関する一コマです。繰り返し続く「時」の歌は、誰の心にも響くものがあるはずです。
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
ここに挙げられた一つひとつの中には、当時の文化や生活背景にまつわるものがあると言われています。生まれたり死んだりするのはいまの私たちにも分かりますし、泣いたり笑ったりするのも理解できます。しかし石を放ったり集めたりするのは何だと考えてしまいますし、そういうことを調べていくと、飢えたり抜いたりすることにも、何かしら当時の共通理解というものがあるようにも思えます。関心がおありの方は、ぜひ調べてみてください。
戦いと平和が対比されて結ばれていますが、教室で子どもたちに言葉を教える中で、「平和」の反対は「戦争」というふうには単純に教えないのが普通です。奇を衒っているのではありません。「戦争」は、「平和」の対義語としてはあまりに外延(その後が示す内容の範囲)が狭いのです。
つまり、「平和」の反対は何かと考えるとき、それは「戦争」だと決めるべきではない、ということになります。人間は、反対の反対が元に戻るという思考回路をとりますから、次のように考えがちになるのです。聖書には平和でいなさいと書いてあるが、いま自分は「戦争」をしているわけではないから、聖書の命ずることを守っているぞ、と。
そうでしょうか。戦争さえしていなければ平和なのでしょうか。人間が、ひたすら自分を愛するとき、被告席に立っているとは微塵も考えないし、もし立たされたとしても、自分が弁護人となって、自分で自分を許してしまうことをやってしまいます。自分で自分を許すような真似を、しばしばやってしまっています。そしてそうしていることに、自分では気づくことができません。よくよく、聖書という鏡に自分の姿を映して、よく見るようにする必要があることを感じます。聖書の中に自分の姿が見えますか。そして、その自分は、どのように神に向かい、あるいは神から見られているでしょうか。
キリスト者の場合、聖書の言葉に、自分は「そこそこ」従っている、と考えています。確かに、完璧ではない、とは思うでしょう。とくに仲間に対しては、「自分は不信仰なことに……」などと謙遜して笑って話すことがありますが、所詮社交辞令のようなものでしょう。その証拠に、「ほんとうにあなたは不信仰ですよ」と返されたら、ムカッとくるわけです。このような程度の謙遜は、表向き謙遜であっても、「謙遜傲慢」という。そのように京都の牧師はよく引き合いに出していました。
さて、戻りますが、ここにコヘレトが集めた「時」が並んでいました。小学校低学年で「時刻」と「時間」の区別を学びます。子どもたちは習ったことで自分が賢くなったのがうれしくて、きっちりと区別しなければ気が済まなくなります。大人が「いまの時間は2時だね」などと言おうものなら、「それは時刻でしょ」と窘められるのです。けれども、大人のほうは同じ「時間」という言葉で、「時刻」も「時間」も表すことに慣れてしまっていますから、通じればいいんだよ、分かるから、などと笑って答えます。こういうことが子どもたちの学習意欲を殺ぐことになるかもしれないことに、大人はなかなか気づきません。悪いこともするのが世の中だ、などとスレたことを教えるのは、ぜひ控えましょう。
「時」とコヘレトが言っているのは、「時刻」か「時間」か、と問われたなら、とりあえず「時刻」のほうを答えるしかないでしょう。けれども、ここでの「時」を「時刻」と言い換えると、かなり奇妙な文になってしまいます。「殺す時刻、癒す時刻」とか「泣く時刻、笑う時刻」などと言うと、イメージが壊れます。
日本語なら、やはりここでは「時」がいいでしょう。きびきびしているし、リズムもいい。「時」は「時刻」も表せるし、「時間」を表すこともできます。概念を区別しない曖昧な語となりますが、やまと言葉はえてしてそうであり、くっきりと意味を浮かび上がらせるというよりは、情緒的に曖昧さを美徳とするかのように表現します。その上で、ここでの「時」は、「時刻」ではないけれども、それのように一点を指す意味で使われていることは間違いありません。
「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら」と歌ったような、あの「時」と後から振り返れば呼ぶような「時」のことがそうなのだと思います。何かしら決定的なことが起こった「時」、何かしら意味あるものとしてそれについて述べることができるような「時」、それは特別な「時」であり、かけがえのない「時」だと言えるでしょう。いっそのこと「チャンス」とでも言ってしまったほうが、納得できることがあるような、そんな「時」なのです。
因みに、以前の訳だと、「生まるるに時があり、死ぬるに時があり」のように続いていたのが、「時」と体言止めになっています。ついでにいうと、最初の節も、「何事にも時期。天の下のあらゆる事に時」というように、「がある」のような語が見られるわけではありません。実にきびきびと、事項が羅列されています。また、「何事にも」に続く語だけが異なるもので、英語だと「season」と訳されている語になっています。ですから、最初に「何事にも時期」つまりその時だからこそ、というように出来事に相応しい時に注目せよ、とまず宣言して、具体例を挙げていっている、と捉えるのがよいかと思います。
ここには、「流れる」というメタファーを使ってイメージするような「時間」はありません。人が振り返るとき、またこれからのことを想定するとき(まさにその「とき」なのですが)、人が何かしら特別なものとして選び分けて取り上げた「時」が現れてきます。これらを神が与えたのだというように、聖書の文化は設定しているに違いないのですが、ここで、次のように言われていることに注目しなければなりません。
3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
私はここに、大きなポイントを示されたような気がしました。「時宜」と訳してある言葉は、ここまでたくさん繰り返されてきた「時」と同じ語です。むしろ1節の「時」を別の語で訳すべきだったのではないかと思います。コヘレトは、ここまで様々に例示してきた「〜する時」のすべてを指す形で、これらが相応しいように定めたことを、主の手によるものと考えました。さらに、そのことで「永遠」を思う心を人に与えたのだ、と理解します。どうしてでしょう。一つひとつの、相応しい「時」があることを、多くの実例で聞く者に納得させた後、それが直ちに「永遠」を思う心へと飛躍するのです。
様々な「チャンス」があるということをひとは思います。それはその時でなければならない、どこか運命的なものをすら感じさせるような、特別な「時」を意味しています。こうした、特別な「時」がその都度あるということが、「永遠」を思うことに、どうつながるのでしょうか。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(ルカ10:25)
いわゆる「良きサマリア人の譬え」の導入部分ですが、イエスがユダヤを旅していた時代、律法を守ることと永遠の命との関係が問われていました。永遠の命、それは義人が復活するという信仰の中での関心事でした。この「死者の復活」ということが初めて取り上げられるのは、旧約聖書続編のマカバイ記二においてです。ユダヤ人たちを指揮するユダという男が、戦死者たちを弔う場面でした。
もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。(マカバイ二12:44)
これが新約聖書になると、「復活」という言葉が、もちろんイエスの復活があるからなのですが、何十倍もの数を示して迫ってくることになります。ところが、この「復活」だけではないような意味合いで、「永遠の命」が新約聖書でさかんに出て来ます。恐らく最も有名なのが、次の言葉でしょう。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
そしてイエスは十字架直前の場面で、弟子たちにこう告げて、ヨハネによる福音書は「永遠の命」について触れることを終えます。
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)
この「知る」というのは、知識だけを言うのではありません。深い交わりの体験があってこその「知る」という表現ですから、イエス・キリストとの全人格的な「出会い」がそこにあることは必須です。そして、それはこのコヘレトが言う、定められた相応しい「時」のひとつとして、立派に数えられるべきものであったことでしょう。もしかすると、最初にあった「生まれる時」が、このイエス・キリストとの出会いによる新しい生き方、「新生」と呼ばれる出来事であると読むこともできるでしょうし、最後に挙げられた「平和の時」というのが、その結果もたらされる「平安」なるところであると感じてもよいのではないかと思います。
人生に置かれた幾多の「チャンス」であるような、一つひとつの「時」。特にイエス・キリストとの「出会い」のあったその「時」が、「永遠の命」につながっている。この、ただ漠々と流れるだけのような時間の中で、特別な「時」があるとき、そこから恰も天に突き抜けるような形で、「永遠の命」を体験できる、そんなふうに申し上げると、非難を受けるかもしれません。しかし、恐らくその体験をお持ちの方は、いらっしゃるだろうと思います。この瞬間が永遠であること、まさにこれは永遠とつながっているということ、いま永遠を知った、と言えるような思い、それらを与えられたことのある方は、きっといるのです。
過去だ現在だ未来だ、と区切る必要もなくなります。かつてあり、これからもあるであろう、この喜び。神秘主義だと非難されることを恐れずに言うならば、まさにこの時間の区切りを失った経験は、「永遠の命」をすでに与えられた証しだとすら言いたいのです。
急ぎましょう。こうして、神の与えた特別な「時」を経験することで、「永遠の命」につながる思いも与えられたことになったとしても、「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(3:11)とコヘレトは漏らします。人間は、神のすべてを知ることはできないのです。これは賢明な判断だと思います。人間が神になってはいけない、少なくとも神になったと思いなしてはいけない、という戒めにも直結します。
3:12 わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
そこで、なんと現世的な、世俗的な次元に陥るものか、と読者を疑わせるような言い方を聞くことになりますが、私は決して、これは世俗の勧めではないのだと理解しています。恐らく、もう多くの方が、そのように感じていらっしゃるだろうとも思います。つまり、ここに快楽万歳などという思想を読み取ることは、不可能だということです。
神が人間たちに与えた務めを、コヘレトはとことん見て考えました。しかしコヘレトは知りました。神の思いや神の業のすべてを知ることはできないのだ、と。財の限りと知恵の限りを尽くしても、神のすべてに立ち向かうには、コヘレトはあまりに小さく、束の間の人生を許された存在に過ぎませんでした。神に楯突こうにも、あまりに弱くはかなく、無力過ぎるのです。
そこで考えます。人間は、何故存在しているのだろう、と。神が存在を許したからにほかならない、それか聖書の描く、人間の存在理由のひとつです。それはびくびくしながら生きていかなければならないのでしょうか。きっと違います。神の奴隷として辛い一章が決定されているのでしょうか。これも違うだろうと思います。神はひとに、幸せを提示するときがあります。
見よ、わたしは今日、命と幸い、
死と災いをあなたの前に置く。(申命記30:15)
幸いの道がひとつに置かれていて、神の言葉を大切にするならば、祝福の道を与えようと構えるのです。神は人間に、幸せを与えることを拒むようなことはありません。幸せに通じているひとつの道を用意してくださっているというのです。
ならば、喜びに包まれた生涯を送ることができたならば、とてつもなく幸せなことではありますまいか。つまり、キリスト者は、「喜べ」と聖書から呼びかけられているし、喜びに満たされることを約束もしています。そのことを踏まえてもう一度読んでみましょう。
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ (3:12)
キリストの救いを受けて、救われた喜びを満面に表して生きる。与えられた恵みを抱きしめて、喜びが胸に拡がる。地上での生涯が、そういう喜びに常に満たされていたとしたら、どんなに幸せであろうか、と思いませんか。この世では悩みがある、苦しいことがたくさんある、そうした見方を、否定はしません。辛い方の辛さを、時には慰めたいとも思うし、しかし多くの場合は、違う見方ができるようにと祈りつつ声をかけたいとも思います。やはり何か「喜び」の生き方、それがあるはずなのだ、と強く告げたいと考えます。
どうしたら、そのようになれるのでしょう。コヘレトの言葉は、その飲み食いを神の賜物だと呼び、神の業は人の思いをすべて超えて、永遠不変の真理として、人がとやかく言うべきところのものではない、と言っています。人は神を超えるようなこと考えてはならない。神を畏れ敬うにように、人間は創造されたということを弁えて生きよう。限界づけられた能力と知恵のもとで、人間は幸福を受けることを期待して生きてよいのだ、とコヘレトは考えるのです。人間の世界が、神の下に制限されているからこそ、喜びがあり、むしろ自由がある、というような考え方も大いにできるはずです。
人間だけの力で、明るい未来を切り拓いていく、そんな世界観を、コヘレトはもっていません。人の力というのは、神の内に一定の制限を受けており、神の定めを覆すような業を持ち合わせてはおりません。
3:15 今あることは既にあったこと
これからあることも既にあったこと。
追いやられたものを、神は尋ね求められる。
そんな神を見上げるとき、人間の歴史なんぞ、金魚鉢の中の水のようなもので、増えもしなければ減りもしないものだと感じます。人間の目にこの世の中で発展があったように見えても、神から見ればただの変化という程度に過ぎないものだということになるのでしょう。そのとき、人間同士その間で争いがあり、正義だ悪だと争っていたとしても、神の裁きの下では何の権威も持ちうるものではないではないか。人間は小さい。ほんのわずかな時間しか息ができず、永遠という概念を想像することがあったとしても、神という存在を把握することは無理です。風のように駆け抜けていく一生しか与えられていないけれど、それでもその中で与えられたものに喜びを覚えることは可能であり、その与えられた命を楽しむことが許されています。
但し、その中で、特別な「時」を感じたとき、そこからこの地上の世界を超えた永遠を垣間見ることは可能です。通りすぎる「時間」に流されることなく、特別な「時」の扉から、異次元の「永遠」を知るという、幸福の秘訣が存在するということを、コヘレトは精一杯の知恵により告げるのです。
そんな神秘的な体験ができたのは、コヘレトだけだろうって? とんでもない。なんのためにこれが「聖書」に含まれたのでしょう。私たちがこれを神の言葉として聴くチャンスが与えられているからではありませんか。そしてその特別な「チャンス」を、私たちはなんと恵まれたことか、求めるとたちまち得ることができるような者とされているではありませんか。
私たちは、特別な存在としての「イエス・キリスト」を知っています。出会っているし、愛されていると分かるし、微力ながら、愛しています。これ以上特別な存在があるでしょうか。このイエスと出会ったことよりほかに、特別な「時」がありうるでしょうか。このイエスを知るところに、永遠があったではありませんか。永遠の命がこの特別な扉が開いたときに吹き寄せてきます。風となり、霊として、吹き込んできます。閉じこもろうとさえしがちなこの心の扉を開けて、いまここから通じる道が延びている、その永遠の恵みへと、解き放たれようではありませんか。特別な「イエス・キリスト」こそが、私たちにとって最高の、「定められた時」の鍵であるはずです。永遠の命にこの扉を開くための、唯一の鍵なのです。