歴史を学ぶ

2020年10月11日

高校生の息子が、文学史のことで相談してきました。国語便覧を見るのは好きで、それなりに覚えてはいくのですが、もうひとつ掴んだ気持ちになれない、やっぱり作品を読んでいくのがいいだろうか、と。
 
いや、さすがに片っ端から読んでいくというのは、無理だろう。私の指摘に対して、文学史についていい本はないだろうか、と漏らしてきたので、探してみました。求めているのは、いわゆる近代日本文学史のようでした。そういうのは、参考書もあるし、一般書としてもいろいろあるはずだ――私はそういう感覚で、検索してみたのです。
 
驚きました。ないのです。昔から定評のある新書などはありますが、高校生に相応しいかどうかは分からないし、多少古い印象もあります。余りにもライトなものでお気軽路線というのも、大学受験を考えるといまひとつです。学習用でもいいし、そうでなくてもいい。理解しやすい記述のものはないか。それが、なかなか見つからないのです。
 
古書店に直に行ってみることにしました。かなり大型の古書店があります。検索もできます。これだけの在庫を誇る、倉庫のような古書店です。何か引っかかるだろうと思ったのですが、ゼロでした。そもそも「文学史」というタイトルを含む本が、全くなかったのです。平仮名で「ぶんがくし」と入れたら、ラノベなんだか、「文学少女」シリーズが並んでくるのには笑いました。
 
もちろん、ネットで探せば、それなりに参考書などが並びます。しかし手近な店頭で手に入るものがないというのは、一般的にそれが求められていないと店主が判断している、と推測してはいけないでしょうか。
 
確かに、明治大正の文学を重視して、そこを知るのが文学の教養、というのが常識だった時代からは、半世紀も経ると、考え方は変わってくるでしょう。しかし、西洋との交流が始まり、政治が大きく変化し、小説などのジャンルが西洋的にであるかもしれないが確立され、文体をどうするかといった問題でも声高に議論された時代において、決して実験的などとは呼べないような質実ある文学作品の生み出された時代というのは、文明史を含めて十分考察する必要のあるテーマであるし、また近代日本とその後を考えるにあたり、知っておかなければならない、教養というよりは、もう常識の部類に入る大切な前提ではないか、と思うのですが、その考え自体が古いのでしょうか。
 
この理念は、歴史の学習にも言えるでしょう。語呂合わせの年号暗記と、時のお偉い人物の理解を歴史の学習だ、というわけにはいきますまい。過去を知らないことは、過去と同じ道に容易に陥るという危険を伴うものと思われます。昨今の政治を見ていても、それを痛感する人がいるはずです。それはまた、歴史を知らない人が、明らかに謝った認識を平然としていること、そしてその人々が多数の「1票」をもつのですから、民主主義の建前の通りに、民意としてそれが支持されてしまう怖さも含んでいることです。それを見越してか、いましか知らないような人々に向けて、尤もらしい理由をつけてしまえば、歴史に疎い人々が、それは正しい、と「正義の権威」を与えてしまうわけです。
 
さて、こうしてようやく、教会に話の場所を置くところまで来ました。あまりくどくど申し上げる必要はないかと思います。教会で、ある程度の年齢層であれば常識として知っているかもしれませんが、キリスト教の歴史について、若い人々に何らかの教育をしているでしょうか。これを問いたいのです。若い人々の中には、キリスト教の歴史についてあまり知らないような人もいます。イメージやファッションで教会に来るようになった人が多いかもしれないし、真面目に信仰を与えられたとしても、キリスト教会の歴史について特に知らないということも、ありそうな気がします。
 
教会がローマ帝国と結びついていく様子、十字軍で何をしたか、魔女裁判や動物裁判などを知っているでしょうか。戦争の勝利のために祈る教会の姿などは、今もあることかもしれません。悪いことばかりではありません。へたをすると、もうマザー・テレサをも知らない世代が成人していますし、賀川豊彦や新島襄を名前だけでも知っていたらまだいい方だということにもなりかねません。北原怜子や石井十次を知る若者は、もうレア過ぎる存在でしょう。
 
戦争に協力した教会、日本の教会が沖縄の教会をどのように見ていたか、半世紀前の日本万国博覧会でキリスト教館に関してもめたこと、信徒でない人に聖餐を許した牧師が牧師色免職の処分を受けたことなど、私も直接は知らないことも多いのですが、そういうことがあったという話くらいは聞いたことがあり、またその議論を別の本で見たなどの経験はあります。しかし、こうしたことを全く知らないでいるとなると、先ほどの歴史に無知な人々と同様の問題がそこにある、というように思わないではおれません。
 
難しい問題もあります。歴史的評価というものは、しばしば対立をもたらすからです。当人の思想や立場、価値観により、歴史を見る眼差しや捉え方が異なるからであり、おそらく同じひとつの事件に対しても、それぞれの立場から異なる評価が下されるために、おまえが間違っている、と争いになるのです。
 
一定の価値観に凝り固まった教え方がよくないだろうというのは誰でも考えますが、何らかの歴史に関する叙述そのものに、どうしても価値観が伴ってしまいます。歴史の教科書についていつももめるのはそのためです。教会というところは傾向として、一方向からの価値観を以て信仰を表明する場ですから、そこで歴史を語るのは、公平無私というわけにはゆかないでしょう。
 
それでも、教会の若い方々に、教会の歴史を知ってもらうことを、ためらってはならないと考えます。性的少数者を虐待していた(あるいは、いる)のは、紛れもなくキリスト教会でした。そこにまず立って言及を始めることなしに、いまふうの人権思想の時流に乗っかって、私たちは皆さんに寄り添います、などと軽々しく口にして善人になった気持ちになるというのは、なんと偽善的なことであろうか、と私は思います。
 
自分はまず間違っているのだろう。ここからあらゆる考えを始めることを、ある人が勧めていました。全くその通りだと思います。争いは、そして戦争は、すべて「自分が正しい。相手が正しくない」から始まっているのです。キリストの弟子たる者は、このスタートができる恵みの中にあると思うのです。
 
難しいことですが、歴史を学ぶことは、勇気を以て行うことが必要です。私たち、そして私がまさに、その歴史の中に、立っているのですから。



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