雲隠れ
2020年10月9日
中秋の名月たる十五夜を過ぎると、満月を迎え、それからは、月が出るのが今か今かと、立って待ち、すわって待ち、寝ながら待つようになるといいます。
昔は、もっと月明かりが眩しかっただろう、などと思い描く、一昨日の秋の夜長。月齢約20の月を見上げていました。月は、流れる雲に少し光を遮られています。曇りガラスの効果なのか、よく見ると空が広範囲に渡り、比較的明るく見えました。雲の在処がきれいに分かります。今の時代でも、月の光は、空を私たちによく見せてくれているじゃありませんか。
月の周りに見える雲が、風に静かに流されていきます。雲と月とのコラボレーションは、美しい模様を描いていました。その時、まるでその中心部の月に吸い込まれていきそうなくらいの迫力で、月の光が私を照らしていました。ブラックホールの研究でノーベル物理学賞が決まった、などというニュースを聞いていたので、その光景が少し怖く見えました。
紫式部の詠み歌
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に
雲がくれにし夜半の月かな
百人一首で有名な歌ですが、「雲隠れ」という言葉が思わせぶりで、さらに歌い出しが「めぐり逢ひて」ときますから、艶な歌だとばかりに思っていましたが、詞書があって背景を説明していますので、これは子どもの頃からの友だちのことであると分かります。偶然出会った幼友達であったが、積もる話を交わす十分な時間もとれず、月と競うようにその人は帰って行ってしまったことよ、と詠っています。
紫式部にはもちろん、世界史に燦然と輝く文学の金字塔『源氏物語』があります。私も全部原文で読んだことがないばかりか、現代語訳でもダイジェストでしか味わったことがないのですが、その四十一帖に古くは数えられていたのが、「雲隠」。
光源氏は還暦のころ、亡くなったことになっているのですが、その時のことを伝えるはずのこの「雲隠」の巻は、なんと本文がありません。最初から文学的効果を狙って、本文のないままに発表されたのか(つまり「超ナレ死」)、それとも元来物語が存在したのに、何らかの事情で紛失か散逸か、故意に消されたかして、現在伝わっていないのか、謎となっています。
紫式部の幼なじみは、月が雲に隠れるごとくにそそくさと姿を消したのですが、この「雲隠」は、人の死を暗示するものとしても知られています。婉曲に「お隠れになる」という言葉が死を表すように、雲隠れする月はそんな寂しさをも連れてくるという美的感覚。また、それほどに、月というものが大きな存在とされていたことを覚え、そう言えば「花鳥風月」というように自然の主役だもの、などといろいろな連想が浮かんできます。
一時お隠れになったキリストは、隠れたままにはなりませんでした。復活がありました。また、隠された神のメッセージも、キリストの復活の後に、顕れるようになってきました。復活を信じる民に、惜しみなく明らかにされてきました。
そうなった者は、もう自分の罪を恥じて雲隠れするようなこともないし、まして自分に罪があることを認めずに滅んでいくことも、ないのです。