益となるものと風を追うこと
2020年10月5日
しかし、わたしは顧みた
この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。
見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。
太陽の下に、益となるものは何もない。(コヘレト2:11)
厭世観漂うかのようなフレーズです。
数学など勉強して、いったい何の役に立つのか? 菊池寛は、数学だけは何の役にも立たなかった、とぼやいたことで有名ですが、数学という科目を苦手とした人は、昔からそう問いかけました。先月例のチコちゃんがこう問いかけていましたが、私は日ごろ数学を中学生に教えるときにこう思い、こう伝えているという答えを用意しましたら、寸分違わぬ解答が番組でなされたのには驚きました。
いったい何の益があるのか。この世を無意味と思い、空しさに包まれたとき――『果てしない物語』(エンデ)でファンタージェンが滅びかかったとき、この虚無感が世界を包み始めたことを思い出します――、何をやっても、こんなことに何の益があるのか、と問うことがあるでしょう。何事にも意味があるんだよ、などと慰められたとしても、あんたのような幸せな人には分からない、と却って背を向けるしかなくなるというものです。
数学だろうが人生に関することであろうが、「益になる」「役に立つ」ということが問われるとき、実は暗黙の前提としていることがあります。お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、何かをすると結果として益がなければならない、あるいは、何かをするとなるとそれか何かの役に立たなヶ毛羽ならない、という価値観があるからこそ、あのような問いが生まれてくるのです。
益とは、自分の益とは限らない、としておきましょう。役に立つというのも、自分にとってでない場合も含むものとしましょう。そうしておくことで、これらが利己主義に基づくものだという予防線を張ることができます。それでも、誰かにとってきっと良いことが生まれるという、功利主義的な効果が期待されていることには代わりがありません。もちろん、それが直ちに悪いことだ、などと申し上げるつもりもありません。大いに結構だと思います。
けれども、何か益があったとすると、逆に損も同時に生じるという場合がないでしょうか。かつて素朴に、競争原理がすべてにわたり利益をもたらすという楽観的な経済の原理が持ち出され、結構な「信仰」を集めましたが、それこそ経済にあっては、誰かが利益を得たら、誰かが損をする、という場合が、ほぼ宿命的に伴いかねないでしょうか。すべてがそうだ、ともし言えなかったとしても、そうした例に枚挙に暇がない、ということは口を差しはさんでもよいのではないでしょうか。
ある教案誌で、コヘレト書を教会で読み始めることとなりました。「空」の概念から「時」や「人生」へと窓が開かれていくようですし、一風変わった「聖書」を開くこととなりそうですが、このコヘレトという人物は、天の上のことをとやかく言おうとしていないことは確かです。天の下については、その財や地位、時間的余裕を費やしてか、とことん調べ考えたのだといいます。それでも、この世で決定的な善や充実を見出すことができなかったと言います。「空」も、ある訳のように「空しい」という感情的な空虚感を導き出す語というよりは、「あっという間」のようなはかなさを含み持つ語であろうということなど、私たちも概念を改めて理解しながら読み解かなければならないだろうと思いますが、そのはかなさも、この地上の問題であったことだろうと思います。そして、この地上の出来事のすべてを知り尽くそうとしてもできないことを断言します。人間の理性には認識の限界があるとして近代哲学の規定のコースを創成したカント哲学を思い起こさせるような、まさに限界を知った賢者としての顔を、コヘレトは見せているように思われます。
無限を安易に手に入れることができると思うな。人間のできることには限りがあるではないか。そのことから、神に代わって全能の権力を揮うような歴史を刻んだヨーロッパの教会の歴史は、そこのところを誤ったと見るべきだろうと考えます。
限りがある世界の中で、誰かが益を得ると、誰かが損をするという仕組みがありはしないか、考えてみるべきだろうと思います。たとえいま自分が気づいていなくても、安易にこれは善だ、益だ、と見なす事柄について、何かしらマイナスとなる出来事があったり、損や苦しみを背負う人が、自分の気づいていないところにいるのではないか。もっと深く考え直してみることが必要ではないでしょうか。
益がなければならないのか。役に立つものでなければ存在してはならないか。行動してはならないか。この疑いからこの世界での出来事や、自分のもつ価値観を問い直すとき、新たな世界が見えてくるかもしれません。
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、
風を追うようなことであった。(コヘレト1:14)
益のないこと、役立つわけではないこと、あっという間に過ぎてしまうばかりのこと、それはまるで「風を追うようなこと」だとコヘレトは言います。風を養うというような意味を含み持つのだと礼拝説教で教わりましたが、風を飼い慣らすようなことができないのと同様に、そんなことはまさにナンセンスだ、と理解するしかないのでしょうか。
「風」という語はまた、「霊」や「息」を表すものであることは有名です。同じ語を邦訳では「風」「霊」「息」と訳し分けているほどです。力を与え、命をもたらすものとも見なしうるのですが、政治の世界でも、「風を起こす」のは大変です。インフルエンサーのように、風を起こすというのは誰にでも簡単にできるものではありません。世に大きな影響を与えるというのは難しいことで、SNSなどでの意義ある発言も、誰にも聞かれないままに埋もれていくのはやむを得ないことだとも思われています。
しかし、私たちは実は風を生むことができます。無風の天候の下でも、風を生むことは、私たちにできるのです。それは、私たち自身が動くことです。歩くことです。また、走ることです。私たちは風を感じます。世界に風を吹かせたのではないにしても、私は風を感じることができます。自分がただじっと黙って立って待っているだけでは、風は吹いてこないし、生まれもしない。けれども、私が動くことで、私は風を知る。流行を追いかけたり、一見役立つように理由づけをしたことを追い求めたりしても「空しい」けれども、そして世の人々が追随するような風を起こすことはできないけれども、少なくとも私自身は、私が動くことによって、風を知ります。霊を体験できるのです。そうして、その風を、霊を、また命の息を、得ることができるのだ――などと感じたとしたら、それはただの妄想に過ぎず、また幻に過ぎないでしょうか。
あっという間だけのものではない、永遠に結ばれた「時」が、そこに実感できたのだとしたらいい。もしかするとコヘレトも、人生の肯定へと発言がスライドしていくのも、そういうコースに関係しているのではないだろうか、などと思いながら、コヘレト初回の礼拝説教を私は愉しんでみたのでした。