【メッセージ】限界を噛みしめる幸い
2020年10月4日
(コヘレト1:1-18)
熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。(箴言1:17)
旧約聖書はユダヤ人のための聖典です。キリスト教も、そのキリストの意味を知るために聖典と考えています。ユダヤ教徒とキリスト教徒とでは、旧約聖書の各巻の並べ方に少しばかり違いがあります。それぞれの巻の位置付けも微妙に違うところがありますが、概ね一致している、と考えてよいかと思います。
「律法」と呼ばれる、イスラエルの原点があり、またその後のイスラエルの歴史を刻んだ「歴史書」があります。神の言葉を預かった「預言者」の言葉もありますが、その他に「文学」のように見なされる巻がいくつかあります。これらはよく「知恵文学」と呼ばれますが、それらは「ヨブ記」「詩編」「箴言」そして「コヘレトの言葉」と「雅歌」です。
他のジャンルと比べると神の言葉たる聖書らしからぬところも多々ありますが、逆に信仰をもっていない人からはためになる知恵として、読みやすい、とも言われています。とくに日本人はこの「コヘレトの言葉」が好きであるようです。仏教的な響きのある言葉も出てくるし、人生論として馴染めるという人も少なくありません。
通り一遍ではありますが、この「コヘレトの言葉」の位置づけをご紹介しました。ここから神の知を受けたいとなると、どうしてもある程度の背景知識は必要になろうかと思われたためです。
では、コヘレトの書の「コヘレト」とは何のことでしょうか。原語の意味は「集める人」のようなニュアンスのある言葉だそうです。集会を主催する人、またはそこでメッセージを伝える人のような役割でしょうか。これまでは「伝道(者)の書」とも訳されていましたが、新共同訳から「コヘレト」という原語読みの言葉そのものを掲げる訳となりました。
このコヘレトは、知恵ある者であり、また王であるという設定のようです。知恵に満ちているということで、古来これを、古代イスラエルの王・ソロモンになぞらえて取り扱っていたといいます。ダビデ王の子ソロモンは、イスラエルの王の中でもとびきりの知恵のある人物だという伝説で、このコヘレトの書もまた、これほどの知恵の豊かな人物となると、ソロモンしかいない、と見なされてきた背景があります。
今日から2カ月にわたり、この「コヘレトの言葉」を読んでいきます。他の聖書に親しんだ方は、あまりに雰囲気が違うので、戸惑うかもしれませんが、書かれてあることを逸脱しないように、しかしここから神が何を語ろうとしているかを聞き取るように、私たちも知恵を絞りながら読んでいきたいと願います。ちょっと醒めたようなところのある文章内容ですが、少しでも温かな心を懐きつつ、御言葉を受け止めていきましょう。
今日は「コヘレトの言葉」の第1章を見ました。細かな解説を試みるのではなく、私がここから聞いたこと、見せて戴いたことを分かち合ってくだされば幸いに思います。
11節までを前半、12節からを後半と呼ぶことにします。まず前半部で衝撃的なのは、何と言ってもこれでしょう。
コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。(1:2)
これは否定的なこととして挙げられているのではありません。聖書にこんなことが正面から言われていることに驚く人がいるかもしれません。この「空しい」という語は、従来は「空」と訳されていました。新共同訳が「空しい」としましたが、いまは再び「空」に戻っています。「空」とくれば、日本人にはまるで仏教の教えのように聞こえるのではないでしょうか。
色即是空。空即是色。
いわゆる般若心経にはこのように出てくるのですが、「この世界の現象には実体がないこと」、そして「実体のないものが、この世の現象というものである」というような思想を現しています。「空」とは、実はそれは何ものでもないのだ、という達観とでも言いましょうか。現代物理学で原子から素粒子へと物質の探究が続くと、この世界に存在している実に殆どの部分が「真空」あるいは「無」であるとしか言えないという事態に遭遇するのですが、そう見ると「色即是空」とはまことに当を得た考え方だということにもなりうるでしょう。
しかし、聖書は何も仏教の考えを説いているわけではありません。そもそも「空」あるいは「空しい」と訳している言葉も、背景が違います。
2020年4月から、小友聡牧師・東京神学大学教授がEテレで「NHKこころの時代」を月に一度ずつ、半年にわたり担当することになっていましたが、新型コロナウイルスによる非常事態宣言に伴って収録できなくなり、11月から、第一回の再放送も含めて再開されます。そのテーマが「それでも生きる」といい、まさにこの旧約聖書・コヘレトの言葉を解説するというものでした。その第一回だけは放送されましたが、牧師の生い立ちなど柔らかな雰囲気の中で、旧約聖書とコヘレトのことについて分かりやすく説明がなされていました。聞き手として若松英輔さんがまたよい味を出していましたが、この番組には優れたテキストが販売されています。これからしばらく教会で「コヘレトの言葉」から開かれていくので、お求めになりお読みになるとよいのではないかとお薦め致します。この小友聡牧師は、若くしてこの「コヘレトの言葉」に魅了され、ついに新しい「聖書協会共同訳」の、この「コヘレトの言葉」の訳出を担当するに至りました。
さて、この小友牧師の解説をお借りしますと、この「空(しい)」と訳されている語はヘブライ語で「ヘベル」といいます。偶像礼拝は「ヘベル」である、などとも出てくることから、この語は「無益」「無意味」のような意味をもつ、とも説明してありました。また、英語による聖書の翻訳を見ると、実にいろいろな単語に訳されていることにも触れられています。テキストには11種類の英語が挙げられていました。その上、小友牧師は、この「ヘベル」の第一の意味として「束の間」という意味を提示しています。
番組とテキストの解説をするわけではありませんから、この講座についてはここまでとしますが、私はこの客観的な「束の間」という語を訳語として優れたものとしながらも、心情的に受け止めて、これを「はかない」と受け取ることにしてみました。
なんというはかなさ
なんというはかなさ、すべてははかない。
こうして、「太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう」と読み進み、太陽の動きも、風も、水の循環も、その時々の「はかなさ」を感じることとします。どうしてその循環が「はかない」のかというと、同じことがただ繰り返されていくだけの世界の中で、自分はそのほんの一瞬だけを垣間見ているに過ぎないからです。自分が世界のすべてを知りたい、などと考えたとしても、真珠の大きなネックレスの、ほんの一粒だけを知ってそれで終わりとなってしまうのです。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。(1:9-11)
前半の最後は、新しいことがなくまた同じことが繰り返されるという世界観をいろいろな形で述べているようです。不思議なもので、ユダヤ人の歴史観、聖書の他の書が語るような世界観とは、だいぶ趣が違うようです。聖書というと、世界が創造され、歴史が一直線に進展し、いつか終末がきて世界が終わる、そのような世界観で貫かれているように見えて仕方がありません。しかしここだけ見て、聖書は輪廻思想を説いている、などと単純に結論づけないで、心の隅に「なんのことだろう」という思いを忍ばせながら、気長に「コヘレトの言葉」を味わっていくようにしませんか。
この前半では、「空(しい)」という言葉が鮮烈にデビューしました。それは空虚で空しいというよりも、人生がほんのわずかなことしか知りえないようなあり方をしているのだというふうに読めるように受け止めてみました。
さて、後半部に入りますが、前半部にもこのような言葉がありました。
何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。(1:8)
「もの憂い」とは力が抜けますが、聖書協会共同訳では「すべてのことが人を疲れさせる」と訳されており、このほうが分かりやすい気がします。これが後半のテーマになっているようにつながっていくからです。
コヘレトは一旦思想を離れ、自分自身の姿を描きます。「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」(1:12)と言い、「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた」(1:13)と告白します。そして、神はよくもこんな辛いことを自分にさせたものだ、とぼやくのですが、ともかくあれこれ知ろうともがいたところで何も分からず、疲れ果てたと言っているのです。
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。(1:14)
コヘレトは、エルサレムの王だと考えられています。ソロモンと見なされているあたり、財産にも恵まれ、知恵にも満たされていたことでしょう。全世界のことを知りたいと願う、探究することもできたことでしょう。知的好奇心を叶えるための条件はすべて揃っていたのです。そして可能な限り、世界の出来事を調べ上げ、見極めたつもりでした。しかし、それでもほんのわずかなことでしかなかった、と漏らします。
印象的なのは、それが「風を追うようなことであった」という点です。「風」という語が、「息」をも表し「霊」と訳す場合もある語だということは有名です。「命」に関係する言葉です。けれども、ここではそのような隠れた意味を探す必要はなさそうです。純粋に、流れ動く「風」と見てよいと思います。いったい、「風を追う」ようなことができるでしょうか。追いかけること自体がすでに風の中に起こること、あるいは風を起こすことでもある以上、そもそもその風を追うというような行為が成り立つかどうか、怪しいものです。
世界の全体、真の姿については、どんなに人間が見極めようと努めても、調べ上げようと苦労しても、分かるものではない、と溜息をついているようなものなのです。そうして、最後まで同じように呟き続けます。
わたしは心にこう言ってみた。
「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、
わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。
わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
熱心に求めて知ったことは、
結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。
これも風を追うようなことだと悟った。
知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。(1:16-18)
ここで目立つ語に「知恵」または「知識」という語があります。日本語ではニュアンスに差を設けることがありますが、ここでは並べて用いていることから、基本的に同じ意味で使っているに違いないと思います。後半部のキーワードはこの「知恵」であるものと理解できます。
恰も知恵を軽んじているかのような言いぐさですが、コヘレトは知恵の限りを尽くしたのです。このコヘレトは人間世界の中でも、真理の探究のために最も恵まれた立場にいました。金も時間も才能もあったのです。しかし、それでも世界の何たるかを少しも掴んだ実感をもつことはできませんでした。人類の中でも最も知恵が豊かな者でも、そうなのだ。聖書はそのような真実を告げています。
現代、このような知恵は多くの人が手にするチャンスができました。教育が行き渡り、いろいろ不公平はありますが、財産や地位がなくても、学問探究をすることができるし、目覚めてから寝るまで16時間も働かされていたような時代とは概ね異なり、物事を考える生活が成り立つと言えるでしょう。その分、成人一人ひとり選挙や政治参加に直面しなければならず、考えなければならない場面が多々あることになるのですが、人生とは何か、世界とは何か、多かれ少なかれ、誰もが考えることのありうる世の中になってきました。
しかしコヘレトの時代はそうではありません。選ばれた最高峰にある人間が、精一杯考え抜き、調べ尽くした、それでも真理は分からない、というのです。今日の1章の中にも「熱心に探究し、知恵を尽くして調べた」(13)とか「見極めた」(14,16)とか思い起こし、「熱心に求めて」(17)分かったことが、知恵や知識も愚かなことに過ぎない、ということであった、というのです。これもまた、風を追うようなことだ、と。
対して、神の言葉はどうなのでしょうか。神は「光あれ」と言われたこが即座に、光の存在になりました。神の言葉は、存在と同義だというのが、古くからの聖書の理解です。しかし人間の言葉は、そうではありません。口に出しただけでそれが現実になるけではありません。むしろ口先だけのものだと警戒しなければならないことで、嘘や偽りがいっぱいです。人の言葉、人の知恵というものは、それだけでは存在とはならないのです。
かつては、この世界の存在は、精神なるものが支配していて、その精神が自己を実現していく過程が歴史として実現していくのだ、と説く世界観がありました。神という言い方をすると、それが聖書に適合するように説明されなければならないために、なんとか神という語を使わずに、世界の真の姿を実現する道を語りたかったのかもしれません。しかし、人の知恵でしかないものがもしもその精神なるものであるのだとしたら、やはり動けなくなる時が来ると思われます。人の知恵がいくら積まれても、探究され、世界のすべてをもしも見極められたとしても、命を生むことも、解決を保証するという断言さえもたらしてはくれないわけです。
確かに聖書は「知恵」を重視するし、あるときには知恵こそ神であるというような書き方がなされています。しかし、人の見出す知恵、求めたいと願う知恵は、いくら「熱心に探究「しても、「熱心に求めて知った」ことは、たかがという程度の愚かなものでしかなかった……過去形として書くことで、これまで゛どんなにこのコヘレトが、その知恵を調べてきたかが伝わってきます。財産も地位も時間も才能も、なんでもあるというこの理想的な人間像を示すコヘレトが、力を尽くしてその知恵を用いて世界を知ろうとしたとしても、しょせん愚かなことであった、というわけです。
人間の知恵は、はかなく中身のない一瞬のものでしかない。せっかく長い時間をかけて味わってきた聖書の一章が、この程度のことで終わるというのでは、落胆する方もいることでしょう。しかし、私はこの、地上での能力の欠落をとことん思い知らされるような過程が聖書にあることを、むしろ喜ばしくさえ思うのです。
聖書は、世界創造の神の記述から始まります。神が、ある意味で一方的に交わした契約により、律法が与えられ、それを守ることで命を、それを棄てることで死を与えるという、トップダウンの言葉によって、人間を規定し、助けたり滅ぼしたりしてきた歴史が書かれています。神は私の外から私に呼びかけ、しかも上から告げてくる。これを踏襲した説教者は、神の言葉の代弁者として、神からの言葉を取り次ぎ、語る。教会で神を礼拝するということは、この神からの、上よりの言葉の説き明かしを、説教者が行うことで、神の言葉がひとつの形となり、現実のものとなることの目撃者でもあり、その実現の担い手として、会衆の一人ひとりが、そうやって聞いた神からの言葉を受け止め、心に懐き、それにこそ生かされるという形で命を与えられ、また世でそれを誰かに語ることにより、命を与える、あるいは少なくとも命を与えるチャンスをもたらす場であったに違いありません。
教会で説教がなされること、それがこのような、上から下されるようなものであるということは、従来の常識でありました。これは神の言葉だ、という自覚なしに語るような説教者は、失格でした。聖書はそのように、神の言葉を記していたのだし、聖書から語るということは、そのように上からの神の言葉を人々に告げることにほかならないと考えられていたのです。
それが、この「コヘレトの言葉」。神がまずあってその知恵が人々の上に投げかけられるという構造を、見事に破壊しています。人間であるコヘレトが、知恵の限りを尽くして世界の真理を求め、この世界の現象をすべて知りたいと、これ以上ないような環境や才能と共に求め続けてきたのだけれども、それでもはかない知識でしかないことを思い知らされるしかなかったのであり、あらゆる試みが残念な結果に終わっただけであった、という失敗をきちんと知らせてくれているのです。人間が思い立ってとことんその知恵を使って探究しても、世界というものについてはわずかなことしか知りえないこと、人間が何でも分かるかのように求めていくことは愚かであること、これを限界づけたものがこの「コヘレトの言葉」であるとすれば、恰も現象の認識を人間の能力の内に限界づけた哲学者カントの第一批判の成果であるかのように、人間の側で知るはたらきには限界が宿命づけられているということをはっきりさせたのと同様、「コヘレトの言葉」は、一つの否定的な見解を明確にしたというならば、そこに大きな意義があるのだ、と受け止めたいと思うのです。
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。(1:14)
熱心に求めて知ったことは、
結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。
これも風を追うようなことだと悟った。(1:17)
コヘレトは、こうして疲れ果てました。けれども私たちは、このコヘレトが疲れ果てて見出してくれた一つの真実を受け取ることによって、同じ失敗を無駄に経験する必要がなくなりました。私たちは、ここから世界の現象を超えて、別のものがあることを期待できます。それは、これからまたこの「コヘレトの言葉」を読み進める中で、それとの出会いを期待するということによって、楽しみとしましょうか。一つの限界づけが、その向こうにあるものを希望させるというだけの成果を今日は与えられました。私たちが、どうか自分の目に見えるだけの浅はかな現象を、さも世界の大真理であるかのように思いなすことのありませんように。「神」という語をここには殆ど用いることなしに、人間の側の限界を思い知らせるために陰から働きかけてくださいました。はかない人の知恵を教えられたようで、私は厳粛な思いで、「コヘレトの言葉」の第1章を閉じることにしましょう。