患者も医師もたいへんだが

2020年9月29日

大きな手術を受けた人に「たいへんでしたね」と声をかけることがありますが、しかし考えてみれば、当人は術中は麻酔をかけられて眠っていたのであり、たいへんだったのは医師だった、と考えられます。私たちは、医師のその働きのことを忘れていないでしょうか。視点を変えて見ることが、私たちには必要です。
 
このような実例が、礼拝メッセージの中に挙げられました。立場を替えて、視点を替えて見ることの大切さについては、私も常々意識していることなので、話の展開そのものには何の異議もありませんが、この手術と医師の例については、引っかかるものがありました。
 
別の例で考えてみます。以下「たいへん」という言葉は、「苦労した、犠牲を払った」というようなニュアンスの言葉として理解して用います。
 
私は子どもたちに勉強を教える仕事をしています。お金を払って来てもらっているので、その成績を上げることは、重要な使命です。もちろん、学習ロボットを生産するつもりはありませんから、勉強することが楽しい、という気持ちになること、勉強はやり甲斐のあることなんだ、意味があるんだ、そんなふうに考えること、これが基盤にあるのは言うまでもありません。
 
ただ説明をしていればよい、というのではありませんから、それなりに労力が必要です。説明するにしても、目の前にいる一人ひとりそれぞれの理解や意欲などを絶えず意識しながら行いますし、その説明のための工夫も必要です。但し、決められた台本で挑むというよりは、試合本番で相手の変化に対応するスポーツ選手のような緊張感が伴うでしょうか。また、生徒の成績が上がらないと、職を失う道へと至る背景もそれに加味されることになりましょう。あらゆる質問に即座に的確に答えるためには、自分をどれほど鍛えておかなければならないか、また実は生活節制や道徳的行動の保持、健康維持など、四六時中制約されているような面もあるので、メンタル的にも決して楽ではありません。
 
……などと、理解ある方は察してくださいます。けれども私は、「たいへん」だという感覚は、実はありません。そんなこと当然ではないか、と思うだけです。そのために報酬を戴いているのですから、最低限の仕事だとしか思えないのです。
 
本当にたいへんなのは、生徒のほうです。こちらは、毎年同じ内容を教えるわけですし、授業で失敗しても、次の年に改善しようと考えればそれで十分かもしれません。けれども生徒にとっては、ただ一度の受験に臨むその学びは一回きりですし、その合否で、運命が変わるのです。家庭の経済事情にも影響することがありますし、学歴や人脈、その他簡単に挙げられないくらい多くのことが、つまり進む道が変わってしまうわけです。たいへんなのは、間違いなく生徒のほうだとしか思えません。生徒が志望校に合格できなかった場合でも、私が願書を出し忘れたなどのようなミスをしないかぎり、私はこの仕事を続けることができるのですから、たいへんさの比ではないと考えるのです。
 
手術の技術も確かにたいへんでしょうが、そのことで報酬がある医師、またたとえその手術がうまくいかなくても自分自身のダメージは(ないとは言いませんが)、患者当人のたった一つの命への影響とは、比較にならないと言わざるをえません。患者は手術の最中、たとえ眠っていても、命を懸けていたのです。
 
患者の家族や身内が、患者に対して、よくがんばったね、と声をかけると共に、「お医者さんもたいへんだっただろうね」と思いやったり、患者当人が、「いえ、医者のほうがたいへんだったと思いますよ」と言うのは、適切であるとも言えるでしょう。けれども、患者を見舞いにきただけの立場の人が、患者に向けて、医者のほうが、などと告げることはありえないだろうと思います。
 
つまり、どの立場の人が、どの立場の人に向けて発言するか、ということを考慮に入れることによって、発言の適切さがあるわけであって、極端に言うと、手術した医師が、「医者だって実際手術していたんだからたいへんだったんだ」とは、思うことすらないでしょう。かのメッセージでは、もちろんそうではありませんから、言っていることが悪いはずは全くないのですが、私はどうしても、医師でなくても、自分が教えている立場にあるために、その例の中の、どちらかといえば医師の立場で事態を見る位置にいますから、「先生だってたいへんなんだぞ」という発想が全くなかったために、心の中に以上のような考えが渦巻いたのではないか、というふうに考えました。
 
生徒と教師の場合も、患者と医師の場合も、前者のほうが相手に全面的な信頼を寄せ、自分の全存在を懸けて委ねるような立場にあるのに対して、後者はそこまで自分のすべてを懸けてではなく、しかし十分なスキルを取得してその仕事にあたり、しかもそれは職務上当然なすべき業務として行う責任が伴うのは確かですが、そのためにまた自分が生活する報酬も受けるというような立場にあることになります。このとき後者にとり前者は、one of them でありえますが、前者にとり後者は、自分のためのすべてとなります。対等な関係の中にあるというわけではありません。どちらにも「たいへんさ」はありますが、質的に異なる面があろうかと思います。
 
このように考えてくるにつれ、人と神との関係も、これと比較がいくらか可能であるかもしれない、という気がしてきました。果たして私は、神に全面的な信頼を寄せ、自分の全存在を懸けて委ねているのでしょうか。むしろ神の側が聖書によると、職務とか責任とか報酬とかいうものとは全く異質な愛なるものによって、その全存在を私のために使い果たしてくださったということではなかったでしょうか。
 
神の愛のたいへんさを改めて覚えるとともに、私もまた大きく変わらなければならないことを痛感するひとときが与えられました。



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