【メッセージ】待っていられる
2020年9月27日
(出エジプト32:1-14)
さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。(出エジプト32:1)
十戒をモーセが受け取ったまではよかったが、モーセの帰りを待つ数十万と記されたイスラエルの民のほうでは、大変なことになっていました。出エジプト記を開く一連の機会は、今回で一度区切りをつけることになります。それがこのパニックからくる酷い結末となったのは、あまり読後感がよいものではありません。内容はお聞きになった通りです。
ざっくりいうと、こうなります。モーセが独りで、神の山に登り、神と話をしていましたが、なかなかモーセが帰って来ないので、イスラエルの民は、神を造ってくれとアロンに頼み、アロンが金の子牛を造り、民は安心して喜び祝宴を開きます。神の前ではそうするものなのでしょう。このことを主は察知し、モーセに山を下りよと命じます。主はこの民を滅ぼすとモーセに知らせますが、モーセは主を宥め、主はイスラエルの滅亡を思い直しました。
モーセが勇敢に、主に向けて、滅ぼさないようにと挑むあたりは圧巻です。エジプトから主が民を導き出したことは何のためでしたか、滅ぼすためなどというふうに見られたら、あなたの名前に傷がつきませんか。かつて主がアブラハムに対して、民を増やして土地を与えるなどと約束したことを反故にするわけにはいかないのではありませんか。モーセは、こんなことをぶつけ、主の怒りを治め、思い直させたというのです。
このような点に気づくと、キリスト者もまた、このモーセのようにすべきだ、というようなメッセージがカッコイイような気がしてくるのですが、私は聖書に人間的なヒーローを強く求めはしない質なので、ほかの登場人物に気持ちを寄せてみたいと思います。どうかご寛恕ください。
個人的には、アロンという人に疑念をもちます。民衆の声に負けたような形かもしれませんが、アロンこそが、金の子牛を造ったのです。神ならぬ神、偶像とも言いますが、これを生んだことはひじょうに拙いことでした。しかも今回開いた箇所にはありませんが、この直後モーセが現れてから、こんな言い訳をします。
32:23 彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、
32:24 わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。
嘘丸出しです。
32:4 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。
モーセに逆らった人々はこの直後に殺されてしまいますが、アロンは生きながらえ、相変わらずモーセの言葉の代弁者として大活躍をし、祭司の初めとして尊敬を集めるような立場となっていくのです。いったい責任者が責任を取らずになんだろうか、という憤りさえ覚えます。この点については、たんにアロンやこの仕打ちをもたらしたモーセ、そして究極的には神をただ弁護することだけでなく、深く考えていきたい問題であろうかと思いますし、信仰者たちのリーダーとなる立場にある人々の陥りやすい罠として戒められなければならないものだろうか、とも思います。
けれども、いまはこのアロンひとりに注目しすぎることもやめておきましょう。いま自分の身を置きたいのは、このどさくさに紛れた中で騒ぎ立てる「民」です。そう、「民」という名の中に隠れた「私」というあり方に徹して、この場面を体験してみようと考えているのです。
モーセは自分たちから離れていきました。まるで、イエスに究極のところで近づけなかったあの弟子たちのようでもあります。そして、神と何らかの「距離」を覚えているような私たちの心情と、どこかつながる情況があろうかと思います。そしてそのモーセが、「なかなか下りて来ないのを見」ました。
「なかなか」というからには、しばらく待っていたのですね。モーセが単独で山に入り、他の人は入ってきてはならない、主が撃たれるから、山には境を設けていなければならない、と遠ざけられていたので、モーセを見送るしかなかったのですが、モーセは、いつ帰るとは告げていませんでした。それでしばらくは待っていたはずなのです。
しかしあるとき、ふと、猛然と不安になるわけです。「あのモーセがどうなってしまったのか分からない」という理由を持ち出します。
それは何のためか。頼るものがなくなって不安になったわけです。だから、神が欲しいのです。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と言います。人間、信じるものが必要なのです。それは、当時のその人々に取っては「神」と呼ぶべきものでした。
いや、現代の私たちには、そんなものは必要あるものか。なにせ「神は死んだ」のではないのか。世間ではそのような、都合のよい言葉を言い訳にしている人も少なくありません。しかし、「神」という名称でなく、「信じる対象」と呼ぶことにすると、これは現代の私たちも何も違わないことに思い当たるはずです。何か頼るべきものが欲しくて、私たちはネット検索を繰り返します。天気予報に注目し、ワイドショーのコメンテーターにすら、縋ります。センセーショナルなタイトルの本に手を伸ばし、すっかり信じこんでしまうこともあります。
ですから彼らの、焦る気持ちに同情しないわけではありません。けれども逆に、悪意ある、あるいは無責任な宗教を信じて傷つく人が絶えることなく、世の中そんなに信じることができないぞという空気が漂うようになると、近年は、信じられるのは自分だけ、という方向に人の心がシフトしている様子が見受けられます。歌の歌詞にも、「自分を信じる」というフレーズによるチアソングが、如何に多いことか。「神を信じる」ことは怪しがられても、「自分を信じる」ことについては、そうだそうだと共感の嵐が吹き荒れる。果たして、それでよいものかどうか、私たちは問わないといけない時期に来ているのではないかと思えてなりません。
さて、このように「信じる対象」について、生けるまことの神であるか、金の子牛の像であるか、そこを対比してこの箇所を読むことも、もちろんできるかとは思いますが、今日共に立って見たい向きは、別のことにしたいと考えています。つまり、先ほど一旦注目した、「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見」た、イスラエルの民の心です。「なかなか」というからには、しばらく待っていた、そう申し上げました。イスラエルの民は、「待つ」ことに耐えられなかった、ここに光を当ててこの場面に入っていきたいと願います。
民は「待ちぼうけ」を食いました。もう「古い方」とお呼びしなければならないのが残念なのですが、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の唱歌「待ちぼうけ」をご存じの方はかなりのベテランの方ではないかとお見受けします。
待ちぼうけ、待ちぼうけ
ある日せっせと、野良稼ぎ
そこに兔がとんで出て
ころりころげた 木の根っこ
そう、学校できっと習う漢文「株を守る」に由来しています。一度、木の切り株に当たって死んだ兎を見たものだから、その農民は、農耕をやめてしまい、また兎が手に入らないかと株を見つめて待っていたが、そんなことはもう起こらなかった、というものです。昔のやり方をそのまま踏襲するのではなく、新しい時代に対応していかなければならない、という戒めであるのですが、この愚かな農民がぼうっと待っていたという姿は、今の時代ならばリアリティがないことでしょう。
古いドラマやマンガでも、相手がなかなか待ち合わせの場所に来ず、それですれ違いが起こる、というのが、やきもきするストーリーに効果的な場面でした。今どきの子は、なんでケータイ(スマホ)で連絡せんの?と訝しがりますが、電話が普及した時代でも、一旦外に出たら、連絡する方法がかつてはなかったのです。だから、ポケットベルが現れただけでも画期的だったのですが、そのポケベルでさえ、若い人にはなんのことか想像がつかないだろうと思います。
私たちは便利な世の中になり、このような待ちぼうけを食わずに済むようになりました。しかし、その分、失われたものがあるように見受けられます。私たちは、待てなくなりました。ある調査の結果として、待ち合わせでは30分くらいなら待てるという人が一番多かったそうですが、ほんとうにそうかしら、と思ってしまうのは、私がせっかちだからでしようか。いまやスマホがあり、すれ違いや待ちぼうけがなくなったことで、待ち合わせることが便利になったと思いきや、わずかでも相手が遅れると苛々しませんか。連絡が取りやすいからこそ、どうして連絡をくれないのか、と憤ったり、既読スルーに腹を立てたりしないでしょうか。以前はティーンズの間で、何分以内に返事をしないと付き合いが悪いと責められ、いじめの対象にすらなったというような話もありました。すぐさま返信しないと仲間はずれにされるので、携帯電話を片時も手放すことができなかったというわけです。
家電製品が次々と生活を変えていき、家事が楽になっていく一方、どういうわけか家事がやけに忙しくなる、という嘘のような話も、もはや誰も否定しようとしないでしょう。新幹線が速くなればそれだけ空いた時間ができるかとの期待は、無惨にも吹き飛んでしまいました。逆にもっと忙しくなっていったのです。
生活やビジネスが「便利」になり「時短」が達成されればされるほど、私たちは益々時間が足りないと嘆くようになりました。いったいこれは「逆説」なのでしょうか。それとも、内に潜む本質のようなものなのでしょうか。ミヒャエル・エンデの『モモ』は、時間泥棒のお話でした。厳しい文明批評にもなっていたと受け取られていますが、私たちは時間を節約しようと願った末に、時間を奪われているという点を指摘したのは、慧眼だったに違いありません。ただ、この問題をさらに追究しようとすると、哲学的な営みになりそうです。いまは、私たちにもっと迫るような心の問題に向かいましょう。
現代人はとくに、待てなくなったのではないかと感じます。もちろん以前からせっかちだ、という場合もありますが、「時は金なり」という言葉を思い浮かべる人もいることでしょう。18世紀半ばに、ベンジャミン・フランクリンが、時間を無駄にしないように、と若者に向けて告げた言葉だそうで、決して時給の話をしているわけではないのですが、私たち大人は、誰かを待つことが、まるで金を失うことであるかのように、無駄なこと、我慢できないこととなってきているのではないかと反省します。
対して、子どもはというと、概ね、待つことができると思うのです。「ここで待っていなさい」とママに言われたら、健気にもじっと待っています。不安になって自分で行動してしまうと迷子になってしまうということを、幼いながらに考えるかもしれませんが、ママのいいつけだからひたすらそれを守る、ということなのかもしれません。けれどもこのとき、待っていれば、必ずママが来てくれる、と信じているからこそ待てるのだ、と見てはいけないでしょうか。
太宰治の「走れメロス」は、中学国語の定番の教材ですが、これは「待つ」様を描いた物語です。いまストーリーをご紹介することは遠慮しますが、メロスの親友セリヌンティウスが人質に取られている状態で、メロスは暴君ディオニス王の元に戻らなければなりません。セリヌンティウスはただ信じて待つだけです。そこに一度だけ疑いが入ったということを後でメロスに告白するのですが、さて、幼い子どもは、ママが戻ってくることを疑うのでしょうか。それとも、最後まで信じ抜いているのでしょうか。
悲しいことを思い出させてしまいますが、酷い虐待の末に死んでいった子どものことが報道されたことがありました。少なくともそのときには、日本中で大人が胸を痛めただろうと思います。その子は、パパではないママの相手から酷い仕打ちを受け続けますが、さて、ママが助けてくれることを、信じていたのでしょうか。極限状態の、しかも子どもの心を私のような者が言い当てることなどできませんし、考えるだけでも苦しいものがありますが、ママの助けを待ち続けたとしても、その地上での命が果てるまで、ついにその待っていたことは起こりませんでした……。
モーセを待ちきれなかったイスラエルの民は、頼るべき神を強く求めました。私は――いえ、私たちキリスト者も、必ず何かを待っています。キリストの救いを、救いの完成の「その日」を待っています。再びキリストがこの地上に来て、世の終わりのための裁きをなすことを信じ、待っています。ユダヤ教もまた、メシアの到来を待つということですが、キリスト教は、メシアとして現れたイエスがひとつのエポックとなり、そのイエスが再び到来するのを待つという構造になっています。「キリスト」というのは、ユダヤの言葉で「メシア」と同じで、それをギリシア語に直しただけなので、キリスト教側で「旧約聖書」と呼ぶものを共に大切に抱え、同じ「メシア」を待つという点においては変わるところがありません。いずれにしても、待っているわけです。そして待つということで、希望をもっていると言えます。希望があるから、待つことができる、と言うこともできます。信じて待つ、そこには希望があり、希望があるから、信じて待つことができるということになります。
ただ、それは信じるからこそ言えることだ、との意見もぶつけられてくるでしょう。このように待っていることは、あの悲しい子のように、助けが来ることなく、命が果てていくことになるのでしょうか。待ってもその待つものが来るということがなく、空しいことでしかないのでしょうか。
それを証明してみよ、と迫る猛者も世の中にはいます。しかし、数学の定理のように証明してしまえば、それは誰もが従うしかないこととなるでしょう。すべての人が、1+1=2でいいのだと判断するように、神だの天国だのというものを同じように認識することでしょう。そうなると画一的に、人をそれに強制するものにしかならないでしょう。人は、ただの奴隷のような存在になってしまうことになるでしょう。ですからこればかりは、科学的に説明するようなことではありません。まさに信仰の事柄であり、私たちの信じる方向の先にあるものです。それはただの夢物語ではないし、空想の産物でもありません。少なくとも聖書を信じるというのは、そういうことのはずです。信じる者にのみ与えられた「何か」はあるでしょう。多くの人には価値の分からないもの、しょせん幻や理想なのさ、と嗤われるようなもの、それを私たちは聖書と何らかの体験と共に、信じています。
いろいろ申し上げましたが、要するに、信じているから、待つことができる。信じたことは本当にそうなるのか。残念ながら、人間が勝手に何かを念じて自分を信じたとしても、現実にそうなるとは限らず、むしろ口先だけのもので終わることが多いでしょう。けれども、その信じることが、人間の外からくるものであれば、また少し違うことが想像できようかと思います。聖書が与えた約束を信じる、だから待つことができる。信仰者は、親を待つ子どものように、待つことができる。そう思われませんか。
何が苦しみをもたらしても、神が救う。イスラエルの民族の信仰を支え続けたのも、その信仰でした。中東の交通の要所にあるというだけで、周辺で取り囲む大帝国に攻められ、捕囚の憂き目にさえ遭い、傀儡政権のもとで虐げられ、ついにはその地から追い出されて二千年近く彷徨いつづけ、しかし聖書を懐き続け、いつか神は約束の地に戻してくださることを待つ、健気な信仰を、どこか馬鹿正直と言いたくなるほどに持ち続けた民族です。キリスト教徒が彼らを迫害した歴史が延々と続き、ついには数百万のユダヤ人を、まともな人間扱いをせず残虐に殺すことにもなった、それでもなお神を信じていた民族です。出エジプトの時のあの狂ったように金の子牛を求めたのと同じユダヤ人が、聖書を手に、これほどの仕打ちに遭いながら、なおも神を待って生きてきたのです。そして、その彼らを見下し、差別し、殺してきたのは、間違いなく私たちと同じ名前のグループでした。キリスト教徒です。
私たちキリスト者は、そういう歴史をもつ教会と信仰と無関係ではありません。いまなお、同じような過ちをしていないでしょうか。「しているはずがないじゃないか」と即断することが、実は最も危険なのです。自分のしていることが分からない、それが人間というものだ、とイエスは十字架の上で指摘したのではなかったでしょうか。
イエスは十字架に一度死に、それを見上げた私もまた、かつての私に死にました。神を知らなかった中での自分の罪をと向き合い、それを痛切に認めました。認めたからこそ、私はそのような私が死んだことを知りました。私の中には、究極的に頼るべきものが何もないことを見せつけられました。そして、イエスを見上げました。イエスは復活して生きていました。このとき、私は方向を改めることとなりました。悔い改めたのです。それはくよくよするような心情的なものではありません。はっきりと向きを変えることであり、神と向き合うことです。そして、またいつか、今日にもいまにも再び来るという約束の実現を待っています。「どうなってしまったのか分からない」とは考えません。「神々を造ってください」と求めるようなこともしません。
信頼を寄せて、待つばかりです。そうでないと、祈れないのです。神のもたらす将来を信じて、神と向き合って語りかけ、また呼ぶ声に耳を傾ける、その祈りをするならば、私は待つことができます。
いえ、待つことが、許されている――そのように神に懐かれていると、お気づきになりませんか。愛や平和といったなんらかの理想も、待つという中で見渡した世界に、現れてくるように、思われませんか。確かに、見えないでしょうか。聞こえないでしょうか。それがあるならば、私たちは、きっと待つことができます。まちがいなく。