「人身事故の影響で――」
2020年9月23日
JR鹿児島本線では、このようなアナウンスが、しばしば流れます。北九州から鹿児島までつながる路線ですので、その一部が止まると、比較的広範囲に影響が出ます。警察の検分もありますので、最低1時間は列車は動きません。ようやく動き始めても、さらに数時間にわたり、運休や遅延が発生することは必定です。
「止めるなよ」――起こったことは、悲しい、ショッキングなことではあるのですが、日常にありがちな、そして私の心の中も正直起こることがある心理です。心優しい人は、そしてできればそう考えたいという意志により、「その人は辛かっただろう」などとも考えないわけではないのですが、実際、家に帰るのが相当に遅れたり、仕事に間に合わなかったりという事実が目の前にありますから、そこからどうしよう、と焦ることになるのです。
今日は、そちらの心理には深入りしません。このときのJR九州のアナウンスです。
「本日○×駅で発生した人身事故の影響で、ダイヤに遅れが出まして、申し訳ありません。お詫びいたします」
こういうアナウンスが、幾度も繰り返されます。確かに、情報を提供することは大切なことです。アナウンスだけでは、聴覚障害者には届くまいという点は気がかりですが、それはいま横に置いておいても、ただじっと待つしかないこちらの耳には、度々、同じような「お詫び」が繰り返し聞こえてきます。
確かにそれは事実です。そして業務上、間違ったことを言っているわけではありません。だからその業務に文句を言っているわけではありません。しかしこのアナウンスを何度も聞かされると、この言葉を何を言おうとしているのか、少し訝しくさえ思えてくるのです。
要するに、この遅れは人身事故のせいなのだ、と強調しているように聞こえてくるわけです。遅れたことを詫びるという、一応の誠意は示すものの、それは人身事故のせいなんだ、と言い訳を表に出してぶつけているように聞こえてしまわないでしょうか。遅れたのは人身事故のせいなんだ、だからJRに文句を言うわけにはいかないな、と乗客に思わせる言葉となっているのです。
繰り返しますが、JRが悪いと言っているのではありません。この言葉が、そのようなふうに聞こえ得るということの確認です。
それは、私たちも日常やるからです。「すみません」と言いながら、実は他のせいにしている。自分は「すみません」と言うことで相手に頭を下げたことにしておき、そこでこちらの謝意は済ませたことにしておき、しかもこの事態の責任は、自分にあるのではないのだ、ということで、相手の憤りの矛先を、自分でない他のほうに向くように仕組んでいくということは、私たちがごく日常的にやっていることではないか、と思うのです。
具体例は挙げません。お感じになってくだされば結構です。私は、それを感じることのできる心が、神の前に立つ者にはきっとあると考えています。そんなことはないぞ、とムキになるならば、およそ神の前に立ったことのない人なのだろう、とくらいに思います。表向き、教会に通っているとか、聖書に対する知識があるとかいう点ではなく、自分は正しくて間違っていない、と言い張るかどうか、そこにひとつの基準があると見なしてもよいのではないだろうか、そのように思うことがあるのです。
謝っているようで、実は他のせいにしている。これは、悔い改めとは無縁の心理です。自分は確かにこれをしましたが、それには理由があるのです。これは、悔い改めとは程遠い態度です。いま懸念するのは、イエス・キリストは何でも赦してくださる、あなたはそのままでいいんだよ、このようなメッセージだけでソフトに教会に迎え入れようとする「腹」があるとき、教会は居心地がいいなぁと思わせるには十分かもしれませんが、罪と悔い改めという点で、全くそれを知らない、ということが多々あるのではないか、ということ。いや、実際にそういう例を知っているために、問いかけたいのです。すべてを肯定する神、ということで喜んでいると、人間は「膨れあがる」ように、なっています。それは信仰でもないし、救いの出来事でもありません。
電車に飛び込まなければならなかった人への同情があるかないか、だけでは測れません。私が、その人を死に追いやった道筋もあるのではないか、というところから、またも辛い気持ちで電車が動くのを待つ日があります。そのためにも、読むための本は余分にかなり携帯している私です。