変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ
2020年9月13日
絵や音楽というものには、それなりに興味がありました。平凡なあたりしか見聞きしないのですが、新しいものも、古いものも、受け容れながら楽しませてもらってきました。
年齢を重ねても、それは変わりません。たしかに十二音音楽の世界に浸ることができるような気持ちにはなれないし、抽象画を見てよく分かると肯くほどの才能もありません。若者文化と呼ばれるものから距離ができてしまっている中で、それに迎合するというほどのこともないと思います。
けれども、それらをいいねえと感じる気持ちは、不思議となくなることがありません。素朴に、新しい曲を、芸術を、愉しませてもらっています。v
文学もそうです。考える力が岩のように固まってしまうと、自分の馴染んだもの以外は受け付けなくなると言われます。昔からの自分の人生の中で受け容れてきたもの、自分を形成してきたもの、そこから一歩も出ることができません。価値観が硬直し、新しいものはすべてつまらないと呟きかねないとなると、危険信号だという気がするのです。
もちろん、新しいものがすべて良い、とするのもどうかしています。玉石混合の世界で、新しければ何でも良いはずがありません。感覚を鋭敏にし、また見つめるべきものを見つめ、その内に潜むものを捉えようとする姿勢も大切でしょう。
思想についても同様。新しい思想を受け付けないというのは、未来をつくることに背を向けかねないし、新しいから何でも良いとするのは、歴史を顧みない危険性を宿すことにもなります。古きを知り、新しきを思う。まことに、「ニーバーの祈り」と呼ばれるものの普遍性を覚えます。
God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.
これが当たり前だ、正しいに決まっている、そうした「思い込み」が、私たちの判断の、実は大部分を占めています。とことん疑ったところに成り立つ哲学もありましたが、その近代の出発もまた、多くの誤りの中に置かれていました。一旦「原理」としてあることを認めてしまうと、そこから演繹されて多くの「真理」が生まれていくというのが「理論」ですが、その「推論」の中にすら、誤りや不適切なものが多々あるのも当然です。ソクラテスの問答法も、よく見れば、二択で相手をぎゃふんと言わせる方向に誘っているのは明らかですが、物事が果たして二択だけで推論できるものなのかどうか、そこは問題としていないように見受けられます。
それほど練られた思想のテキストでさえそうであるならば、私たちの「思いつき」や「思い込み」が、如何に誤りに満ちているか、それは基本的な前提にしておかねばならないことでありましょう。
教会制度にも、また聖書解釈にも、そうしたことは沢山あります。そうしたことだらけです。ただ、聖書は自分が自分の責任で、自分にとっての出来事として受け止めて、自分の生き方となっていくとき、その信頼そのものは、必要なことです。それをほかのひとに強いていくというわけにはゆきませんが、自分が聖書を通じて、神から命を受け取るとする限りは、その「思い込み」は優れた指針となり、縁(よすが)になります。
美しいという述語に飾られる、絵や音楽、また文学などを味わえるというのは、幸せなことだと思います。それを考える余裕もないほどの悲惨な生死の淵を彷徨うことを強いられた人はいまこの時にも、この世にたくさんいるのだし、その中で「美しい」ものに心を満たすことのできるひとときは、宝物並の幸せだと感謝しなければならないと思っています。でも、「時よ止まれ」と言ってしまうまでには、まだ味わい尽くしたわけではないので、許される時間の中で、芸術や文化を愉しませてもらい、またそれを生む人々の才能に期待したいところです。その才能のある方々の活動が抑えられ、あるいは敵視されたり非難されたりした今年のこの動きが、そうではないのだ、と目覚めていくためのステップに過ぎないものであれば、と願います。