戦争の酷さについてひとつ気づく試み

2020年9月11日

同時多発テロ。2001年9月11日、日本時間の夜、仕事から帰った私はテレビのニュース映像で目撃しました。リアルタイムで攻撃に晒される様をもテレビ画面で見ました。あれは2001年のこと。2020年に未成年の人には、その体験はありません。
 
テロと呼ばれる事件は、世界を視野に置くと、なかなかなくなることがありません。自爆テロなどといって、少年少女までもが爆弾と共に死んでいくようなことを聞くと、ほんとうに胸が痛みます。けれども、もはや洗脳されたようになって、それを遂行する人間は、恐ろしいひとつの「武器」となって現場にいます。やるせない思いが渦巻きます。
 
テロというのは、言葉として言うならば「テロリズム」。元来、恐怖政治を意味する言葉です。暴力により脅迫して、政治的目的を達成しようとする動きのことです。実際に爆破させることがなくても、爆破するぞと脅迫させることだけでも威力があり、また、さらに強力な目的としては、そのように相手が恐怖を懐いて、こちらが何もしなくても動けなくなったり、パニックに陥ったりするようになる効果が狙われているとも言われます。
 
人々に、社会に、恐怖感を与え、潜在的にでもその恐怖をもたせ続けることで、意識や意志を変えさせようとする目論見。それは実害の多さというよりも、センセーショナルな方法であることが効果的でしょう(なにも犯罪を助長しているつもりはないのですが)。
 
しかし、次第に実際的なダメージをどれほど出すか、に関心が集中したり、死者を多く出す方法を目指すようにしたりするようになると、より大きな効果を生み出す、と信じられるようになってきたようにも見えます。より多数の死者と破壊をもたらす方法が考えられ、実行される傾向にあるようにも見受けられます。
 
もはや「テロ」という言葉の指す対象や、その意義が、最初のときのものとは違ってきているのです。
 
「戦争」という言葉のほうが、分かりやすいかもしれません。古代ギリシアの「戦争」についての言及が、日本の戦国時代の「戦争(いくさ)」について適用できるかどうか、想像してみるとよいのです。いえ、19世紀の西欧での「戦争」がまたずいぶん変わってきたでしょうし、世界大戦という名の付く「戦争」は、破壊力からすると過去の戦争とは比較にならないくらいのものとなりました。その戦術に、スパルタの方法を用いることができるのか、マキャヴェリを持ち出して議論することが有効なのか、同じ「戦争」の文字を使って話をしても、中味は全く違うことは明らかです。
 
赤十字活動という、画期的な取り決めは、この近代の「戦争」の中で生まれました。そして今では、戦争という酷いものを行うにしても、中立を宣言している医療隊を攻撃したり、残酷な見せしめの虐殺をしたりすることには、少なくともためらいを覚えるようになっているはずです。きっと。
 
けれども、18世紀の『カンディード』(ヴォルテール)などは、揶揄だかおふざけだか知れませんが、当時なされていたかもしれない、残虐な死刑方法が、けろりと描かれていて、驚かされます。日本だとその百年以上前の戦国時代がまた(今の観点から見れば)酷かったでしょうし、キリシタン迫害のときの拷問たるや、筆舌尽くしがたいものがあったことが確実に分かっているのですが、なんとも酷い仕打ちが「普通に」行われていたわけです。遡りますが、中世の魔女裁判についてもかなりのおぞましい史料が残っています。動物裁判もそうなのでしょうけれども。
 
だから「戦争」は、綺麗事ではないのです。考えても見てください。何万という兵が移動するとなると、食糧はどうなるのでしょう。それなりの生命活動があるのですから、衣食住の配慮はどうでしょう。生理的欲求はどうなるのでしょう。いまだと軍用ヘリで補給されるのかもしれませんが、かつてはどうだったでしょうか。――略奪や暴力が行われることなく兵士は皆紳士であった、などと言える自信があるでしょうか。
 
そういう兵隊さんが戦ったからこそおまえは今生きているし、国が護られているのに、なんという恥知らずなことを言うのか。そんな声が聞こえてきそうです。その兵隊さんを動かして、死地に、また極限状況の現場に送り込んでいる、命令系統をする政治家さんたちは、安全なところから口を出すばかりで、兵士に清く正しくあれ、と教育したとでも言うのでしょうか。
 
旧約聖書も戦いが多く描かれています。けれども不思議と、酷い刑罰について描写しようとする気持ちはあまりないようで、せいぜい首を切ったという程度で、刺激が少ないようにも見えます。但し、旧約聖書続編を開くと、ショックを受けるであろう場面があります。敢えてどことは申しませんが、読まれている方にはお分かりの通り、豚肉を食べないがために惨殺された兄弟などのシーンです。
 
戦争は酷いものであるばかりでなく、現代においては、地球や人類の破滅を意味するものともなっています。「平和」は一種の「戦争」により実現されるとするのが良いのかどうか。それは矛盾だ、と思う人は、おそらく「平和」の対義語が「戦争」だという前提に立っているのではないかと思われます。もちろん、「平和」の反対概念が「戦争」なのではない、とすべきでしょう。「平和」の反対は「混乱」か「混沌」、あるいは「騒乱」のようなものでしょうか。そもそも対義語という概念自体、曖昧なものですから、捉え方はいろいろあろうかと思いますが。
 
思えば、黙示録の戦争めいた場面は、キリストにつく信徒が戦っているというものではなく、専ら神が戦っているようなものだったように思われます。神と格闘したというヤコブのような個人的な力業ではなく、人類全体に影響を及ぼす莫大なエネルギーがそこに費やされる出来事として描かれていました。いったい、誰が戦うのか。そんな問いも含めて、このような議論は、ひとつ私たち一人ひとりが、知恵と誠実さを以て考えて交わしていくためのものであるに違いありません。9.11の日に、戦争を知る機会がもたらされたらいい、と願ってみたのでした。



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