呟きが自分を神とすることを防ぐ対話

2020年9月7日

「呟き」と表現すると、twitterに限定しているかのようにも聞こえるかもしれませんが、他のSNSでも何でも、発言できる機会が抜群に多くなった近年の、投稿記事のことだというふうに捉えてください。
 
しかしLINEあたりとこの「呟き」とはまた違うものと捉えてみます。LINEは、基本的に相手と話をするためのものですが、「呟き」は、相手との話を前提としていないからです。それで、この「呟き」には、「対話」が欠けている、という点を考えてみましょう。コメント欄などの交流があったり、対話が皆無であるわけではないのですが、「対話なしでも成立する」しというところに注目するのです。
 
そう、「呟き」であっても、何らかの対話がなされている場面があるならば、それでよいのです。しかし、この「対話」を拒み、ひたすら自分の言いたいことばかりを好き勝手に言い放つばかり、というケースがあるわけです。こうした人に誤りを指摘したり、否定的な意見をぶつけようものなら、直ちにブロックします。自分の言うことに逆らうな、ということでしょうか。
 
問題は、その「呟き」が、他人の誹謗中傷になっている場合があること、虚偽を真実のように言い張っていること、問題の大きなハラスメント発言になっていること、こうした場合です。少なくとも、対話がなされていると、ブレーキがかかり得るでしょう。が、ブレーキをかけようものなら、ブロックという手段を、そういう人は多用してくるので、誰にも止められなくなります。
 
自分の関心のないものについて黙っておればいいのに、気に入らないものが世の中に存在しているのが我慢できないで、それを悪辣に否定してきますが、世の中にはそれを問題なく愛好している人がいくらいても、とにかく自分が世界の中心であるかのように否定し、また小馬鹿にさえしてきます。
 
対話がないままに呟き続けると、自分が世界の王様であるかのように錯覚してくる場合があります。これは自分を神とする、というような表現で、聖書には描かれています。困ったことに、この聖書というものを自分が信じていると思い込んでしまうと、この暴走を止めるものがなくなってしまうことです。聖書の中に、特に旧約聖書には、イスラエルを脅かす大帝国の王や将軍が、そのように自分を神のように見て、それが敗れ去るというようなことがよく描かれていますが、どこまで史実なのかどうかは別として、実に人間の心理と真理を表現しているものだと驚きます。私たちの世界には、あのような愚かな考えそのものでしかないような、自分の考えがすべて真理であり、それに反する考えはすべて誤りであり価値がない、という思想に支配される罠が、現にあることを弁えなければなりません。もちろん、いまのこの私もですが。
 
対話は、相手に自分を理解してもらおうと努める営みでもあります。自分の意見の表明は、相手にそれが伝わらなければ意味がないというように考えるので、相手に応じて言い方を変えるし、また、公的な場に響く形で発言するときには、どんな人の目に触れるか分からないという点を考慮して、少しでも意味無く傷つけるようなことのないように、配慮する必要があるでしょう。
 
家族のちょっとした意見を聞き入れること、人の意見に耳を傾けること、それだけでもよいのです。対話というから、向き合って議論をしなければならない、そんなことはありません。対話とは、自分でない誰か他人に意見を聞いてもらい、また他人の意見をよく聞くこと、でよいのです。家族や友人に意見を言ってみて、反対されてもいいし、同意されても、違う角度からの考えが提供されるかもしれません。
 
対話をすると、思わぬ反論を受ける場合があります。自分の意見の誤りを指摘されることもあります。自分の言い方の足りなかったところや、誤解されているところを教えてもらうこととなります。そうして、最初の思いつきだけでは気づかなかった点に気づき、よりよい意見を生み出すことができるようになることも多々あります。正反合の止揚のようなもので、対話あってこそ、単純な欠点のある意見は退けられ、より広い適用の可能な思想へと発展することが可能になるのです。
 
ただ、自分独りで、この対話をするという可能性も否定できません。いえ、むしろ自分の中で対話をするのが習慣になっているというようなものの言い方をする人が、古代からたくさんいたのは事実です。しばしばそのような人は「哲学者」と呼ばれました。自分の言いたいこと、それは本当に適切なのか。反論があるとすればどこにあるだろう。こうしたことを熟考して、想定された反論に対しても弁論するつもりで、自分の論を組み立てていきます。自らを十分検討するという訓練が、通常からできている、だからこそ、一人で著した本の中で、かなり高度なレベルにまで、思想が展開したものができていることになるのです。ただ思いついたことだけをだらだらと書いても、哲学書にはなりません。その人物なりにでも、精一杯反論を予想してそれを踏まえた形で考えを深め、また表現を十分に言い換えるなどして、概念をより厳密に規定していくということが日常的にできているからこそ、一定の思想が形づくられていくわけです。またそれだから、使われる語が十分選択されて、誤解の余地が少なくなっていくということになるのです。
 
もちろん、だからその思想が決定版の真理となる、ということもありません。当人が気づかなかった視点を、他の哲学者が指摘してきます。どんな偉大な人物の思想でも、それが人類の決定版としての思想だ、となるようなことはありません。それでも、そこで戦わされる思想の世界の出来事は、素人の言い合いとは決定的に異なります。それぞれの一言一言が、当人の中だけではあっても、途方もない時間と労力をかけた、対話によって深められ高められたものとなっているからです。
 
もちろん、文学者もそのようにして、言葉を選びますが、文学そのものは、読者が一人ひとり結論を出していくように、素材を投げ出すようなところがあります。それでも、言葉に非常に気を配り、選びに選んだ言葉や表現を以て作品としていくものですから、一定の「対話」を経ての執筆ということになろうかと思われます。
 
思いつくということは、もちろん悪いことではありません。けれども、素人は、思いついただけで、それが世界最高の真理であるかのように思い込んでしまう場合があります。大抵の人は、その辺りの事情は分かっていますから、自信をもってこれが真理だなどと提示することはないのですが、中には、自分を神とするタイプの人がいて、自分の気づいたことが唯一の真理であるかのように、言い放つことを憚らないことになります。これが、「呟き」のできるこの時代には、目立つようになってきています。いえ、こうしたタイプの人は以前から多かったのでしょうが、実際に意見を言い放つことがいまのSNS時代のようにはありませんでしたから、目立つことはありませんでした。また、このように言い放つことが可能になった時代だからこそ、人間の奥深くの潜む本性が、現れたり育ったりした、という可能性も否めません。相乗効果であるかのように、この暴走しがちな環境で、自分を弁えた発言の仕方を考えなければならないのではないかと考えます。
 
もちろんそれは、このメタ発言そのもについても適用できるものです。自分が読み取った聖書の「解釈」を伝家の宝刀のようにかざして、他人を一刀両断に斬り捨てるような裁きを下していないか、いつも問われます。と言いつつ、そのようなことをメタ発言は検討しなければならない辛さもあります。ただ、自らクリスチャンと名のるような人が、聖書を盾として、何々は罪だ、何々を聖書は否定している、と言い放つのが、時折悲しくて仕方がないのです。
 
しかしまた、それらは「多様性」の時代だから皆オーケーですよ、とにこやかに言うのも、要注意だと考えます。その辺りのことは、これまでも少しずつ述べていますが、またいずれお話しできるときがあろうかと思います。



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