【メッセージ】永遠に守らねばならない

2020年8月30日

(出エジプト12:21-28)

あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。(出エジプト12:24-25)
 
モーセは、エジプト王に、イスラエルの民を国外に出させてくれと折衝します。奇蹟の業を見せても、エジプト側は、科学者に相当するであろう魔術師もそのくらいのことはできるんだぞと抵抗します。しかしそのうち、だんだんとモーセのやらかす災いが、手に負えなくなってきました。王はたまらず、民を去らせると口走りますが、すぐにまたそれを認めず、やっぱり去らせるようなことはしない、と頑固になります。そこで、いよいよラストとなる主の業が現されようとするのでした。モーセは怒り、もう王の前には来ない、と帰ってきます。すると主から脱出のための具体的な段取りを教えられます。
 
それから主は、このことを記念するための食事の儀式について、細かく教え始めます。後に過越の祭り、また除酵祭と喚ばれるものをかなり詳しく教えます。これは、モーセに告げたというよりも、むしろこの記事を読む後世のイスラエルの民に向けて、どうして過越の祭りをしなければならないか、を教育する目的があって編集されたのではないか、と私は密かに推測します。
 
恐らく歴史的にはこの事件よりずいぶん先に、イスラエル民族のアイデンティティを一致させ保つために執り行われることとなった、過越祭の規定をここで説明するわけです。屠る小羊の血を、イスラエルの民の家の鴨居と柱に塗るのだと教えられますが、これなどイエス・キリストの存在を思わずしてはここに参与することができません。
 
この小さなまとまりのある部分をいまから読み込んでいこうとするのですが、この過越祭について、あるいは見方によっては儀式について、私にふと気づかせるものがありました。それはもう少し後でお話しします。
 
ユダヤ文学のひとつの方法でしょうか、はさみこみについて先週考えてみました。あまりそれにこだわるつもりはないのですが、参考にはなるので、今回も、これを意識して読み解いていきたいと願います。
 
12:21 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。
 ……
12:28 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。
 
モーセは人々を呼び寄せ、最後に人々はそこから帰っていきます。主からの命令を伝えたことと、帰って主の命じたとおりのことをした、と結ばれています。
 
12:22 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。
 ……
12:27 『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。
 
命令の具体的な内容です。過越の犠牲の方法が教えられます。また、結ぶほうは、これだけでは少し分かりにくいのですが、子どもたちに儀式が訊かれたときにどう答えるか、の内容ですから、過越の犠牲の意味が詳しく説明されています。ここも対応していると理解できようかと思います。
 
12:23 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
 ……
12:26 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、
12:27 こう答えなさい。
 
主が何をするか、主の立場で過越の事件を知らせますが、まるでこの答えを引き出すかのように、次世代の子どもたちが主の業について質問するようなことがあるだろうという前提の記述です。つまり、この場面の描写が、いまここで聴いているイスラエルの人々へ向けてのみ命じられているということではなくて、後世のイスラエル民族全員に伝えていくべきものであるということを構えていることになります。主はどのようなお方か、それを問う姿勢と、その業の目的とが並ぶような形になっています。
 
12:24 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。
12:25 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。
 
こうして中央に来た2つの節は、このまとまりの中核にあるメッセージであるとして受け取ることが可能です。この定めを永遠に守れ。約束の土地に入ったらこの儀式を守れ。要するに律法を、但し厳密に言えば、過越祭の規定を守ることが求められています。詩編にも、この出エジプトの事件がいかにイスラエル民族のアイデンティティのために大きな出来事であったかが繰り返し語られます。この民族の統一を図るためには、この体験の歴史を共有する必要があったということなのかもしれません。
 
ということはつまり、この中核部分をもつこの「まとめ」のような箇所は、イスラエル民族の後の世代へ送るメッセージであったのではないか、と問うことが可能でしょう。当然、ここが書き記されたのも、そうした必要に駆られた時代であった、と推測することもできるのでしょうが、そのような文献について研究することがいまの私たちの目的ではありません。私たちがここから何を聴くか、神からいま何を聴かねばならないか、それが説教という出来事の現場での重要なテーマであるのですから。
 
そうなると、このイスラエルの子孫へ向けてのメッセージは、新しいイスラエルとしての、イエス・キリストの救いを仰ぎ同じ神の歴史に連なるこの私たちへ向けても発信されているメッセージである、という捉え方をすべきであるような気がしてきます。
 
だとすれば、この過越の儀式にもう一度注目する必要が出てきます。とにかくこれを永遠に守れと命じられたのです。これ、というのは過越の犠牲の儀式です。過越の犠牲、これはイエス・キリストの姿ではないか、と捉えるのが、普通のキリスト教の理解の仕方ですし、新約聖書もイエスをそのような小羊だと見なしています。
 
でもこれは旧約聖書ではないか、と遠慮する必要はありません。キリスト教会でも、旧約聖書は大切に扱います。旧約聖書の時代に立つとき、イエスが救いをもたらす未来のことをその署は含んでいる、指し示している、と信じるからです。旧約聖書が約束した救いの実現は、イエスによってである、と信じることこそ、キリスト教にほかなりません。
 
血に染まる犠牲の羊は、私たちの罪のために十字架で殺されたあのイエスの姿と重ねて捉えてよいと思うのです。そしてこれを忘れないことが、永遠に守るべき儀式であるとしているのは、こうして捧げている私たちの礼拝がいつまでも続けられるべきであることを意味していると考えてよい思うのです。
 
礼拝は永遠に守れ。もちろん、神が世の終わりを区切るのであれば、その時まででよいのですが、考えようによっては、その後永遠の都エルサレムにおいていつまでも神を称える大合唱が続くとなると、この永遠の礼拝に終わりを置く必要がなくなるかもしれません。
 
守り続ける礼拝。そう、私たちは「礼拝を守る」という独特の言い方をします。教会生活に慣れてくるとそれが当たり前の語として使っていますが、ふと考えると、奇妙に感じませんか。「礼拝に出席する」とか「礼拝に参加する」とかいうのなら、「会議に出席する」や「イベントに参加する」のように、日本語として自然な言葉のように聞こえますが、「会議を守る」とか「イベントを守る」とかいう言い方はどうにも馴染みません。だのに礼拝だけは「守る」のです。

中には、「休んじゃいけないから」と言う人もいます。いろいろ他の障害が、日曜日に教会の礼拝に行けないように仕組んできます。仕事、学校行事、町内会、その他悪魔があらゆる出来事を利用して、教会に行けないようにさせてくるということがあります。家庭の反対を呼ぶとか、付き合いを求めてくる人が登場するとか、邪魔が入るのです。「今日は行きたくないなあ」と怠け心を起こさせてくるというのもアリでしょうか。すると皆さんは、今日はその悪魔の誘惑をかいくぐって、あるいは蹴散らして、勝利の信仰を以ていま礼拝に出ている、ということになるでしょうか。
 
この「礼拝」というものは、会議やイベントのような催しやプログラムを表しているのではない言葉であろうと思われます。というのは、「礼拝を捧げる」という言い方は納得がいくのに対して、「会議を捧げる」や「イベントを捧げる」とは決して言わないからです。「礼拝」は何かこの世の集会とは違うものを含んでいます。そこで「守る」という言葉に注目すると、日本語で言うならば、「約束を守る」のと近い感覚があるかもしれません。但し、「約束を捧げる」とは言いません。
 
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ4:24)
 
あまりにも有名な、礼拝についての基準となる言葉です。が、ここでは「礼拝する」ということが、自明のものとして用いられているふうに見えます。ユダヤ文化の中にあっては、「神を礼拝する」というのは、いまさら何を説明するという必要もないほどに、あたりまえのことであったように見受けられます。そこで、ユダヤ人というよりもローマ人の教会のためにパウロが綴ったものにおけるほうが、説明らしくなっています。
 
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1)
 
自分を、世の中からひとつ区切って、神のために特別に取り置いて、その心を態度と共に表しなさい。そのように言っているように私には聞こえます。「聖なる」というのは、神なしで動いている世の原理に染まり、世の中のものとしてあるあらゆるものや考えから、私たちを切り離して神のものとする、というような意味を含む言葉なのです。それに対して、この霊における真実の神とは違うものに対して自らの魂を差し向けるような行いは、いかに宗教的な姿を纏っていても、「偶像礼拝」と呼ばれます。
 
彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。(コリント一10:7)
 
こうしたことを考慮に入れるとどうなるでしょうか。神を崇めること。神を神として神のほうを向くこと。「礼拝」の中に、このような捉え方を導入することができるかと思います。「神を神として」とは奇妙な言い方ですが、私たちはえてして、神ならぬものを神として考え、それを第一として従っているものです。時に「金」でしょうか。特定の「人」であったり、「組織」であったりするかもしれません。実は一番始末が悪いのが、「自分」です。自分を神としていることへの警戒を、今日強く考えて戴きたいと願っています。
 
何ものかに仕えているような恰好をとっておきながら、実のところ自分に仕えているだけ。つまり自分の考えることや自分の存在がこの世界で最高のものとなっています。これをパウロはローマ書などの中で「自分の腹に仕える」という表現をとってうまく記しています。
 
16:17 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
16:18 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
 
彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。(フィリピ3:19)
 
そもそも「教会」というのは建物のことを言うのではなく、イエス・キリストを信じその言葉に従おうとすることをシェアできる、人々の集まり、あるいは共同体を意味すると考えることができます。その「教会」で毎週毎週開かれているのが「礼拝」です。それは、自分たちを救ってくれた神の前に共に集い、神を称え、また神から新たな命の言葉を受ける場所であり時間となります。命の言葉、神の言葉というものは、人の言葉とは違います。人の言葉は、口先だけでしか成立しない場合が多く、言葉が、存在するものになるとは言えないものです。しかし神の言葉は違います。神の言葉は、語られた言葉であると同時に、存在するものとなるのです。語られた言葉は、受け止める私たちにおいて、実現します。「愛するのです」と語られたら、私たちは愛するのです。そんなことはできません、などと引いてはいけません。それは謙遜ではありません。神が「愛するのです」と語ったならば、そのまま神の言葉は存在するのですから、聴いた私たちを通じて、存在するのです。現実に愛せますように、と願うのとは違います。苟もそれが神の言葉であるのならば、語られたときに現実となるものでなければなりません。そうでなければ、神の言葉ではなかったことになります。神の言葉が出来事になる、としばしば言われるのを聞きますが、そのようなこととして私は受け止めています。
 
この「礼拝」を、私たちは約束を守るように、「守る」のです。そもそも新約聖書などというふうに言いますが、この「新」はもちろん新しい意味ですが、「約」は何でしょうか。これは「契約」の「約」です。神と人との間に結ばれた契約の書という意味だと考えられています。ギリシア語の直訳として名高い、いわゆる「永井訳」の新約聖書には、はっきり「新契約聖書」と書かれています。もちろん「契約」とは「約束」を法的な概念として表現したものですから、「契約を守る」も適切な表現です。神との間に結ばれた契約を守るための、人間としての精一杯の行為が、礼拝となるのです。
 
礼拝には一定のプログラムがあります。また、受け継がれてきた形式があります。しかし、考えてみればお分かりのとおり、二千年にわたり続けられてきたこのキリスト教会の礼拝が、古来ずっと同じプログラムで遂行されてきたわけではありません。そもそも賛美の歌が歌われたか、誰が歌っていたか、などについても様々なケースがありますし、楽器にしても何が使われてきたか、何が使われてはいけなかったか、など、時代時代の差異が多々あります。明治期に入ってきたプロテスタント教会のことを考えると、その当時の欧米の教会の建物や礼拝形式などが、いまなお日本では踏襲されているのだ、という見方が適切であるように思われます。だから、あるアメリカから日本に来た方は、日本の教会の礼拝に出席すると、なんだか懐かしい感じがする、と漏らしました。昔懐かしの世界に思えるというのです。
 
私たちはえてして、自分の慣れ親しんだ形式を唯一絶対の基準だと思い込んでしまいます。やっぱり教会の奏楽はオルガンしかだめだ、と今の時代にも言う人がいます。ピアノが採用されるにしても、かなり論争があったはずです。ギターなどは、悪魔の道具としか言われなかった時代も続きました。もちろん、教会によってその価値観は様々なのですが、少しばかり考え直してみれば、ナンセンスと言われても仕方がないようなことだということが分かるでしょう。プログラム進行にしても、これしかない、という基準があるわけではありません。
 
では逆に、パウロではありませんが、いっそのことすべて自由にして、何でもアリにしてみてよいのではないか。そのような極端に意見も現れるかもしれません。伝統の通りにしなければならない。伝統はすべて否定してよい。どちらもかなり極端です。どちらかに強く固執するとなると、どちらの立場からしても、諍いの材料になりがちです。確かに難しいだろうと思います。信徒の間にこれらの対立があると、牧師は板挟みのようになることがあるかもしれません。現実にはうまくバランスをとりながら変えるべきところは変えつつ、じわじわと世の荒波の上を教会という船が航行している、という辺りが実情ではないでしょうか。
 
教会という単位で考えると、このように難しい局面に入ってきてしまいます。では最後に、あなたはどうでしょうか。
 
12:24 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。
12:25 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。
 
今日、このようなチャレンジを受けました。神からあなたに突きつけられたのです。過越の儀式に、イエスの姿を重ねました。イエスの出来事は過去に終わったものではありません。自分と無関係なものではないでしょう。いまここで、あなたはイエスの出来事と向き合い、リアルな出会いを経験しています。そうでなければ、契約を守ることにはなりません。そうして、主が私たちを救ったことを、いまも明日も、そしていついかなる時でも、ずっと覚えていなければなりません。これがあなたのための定めです。子どもたち、未来の教会のための定めです。大切に伝えていくものを、私たちはたくさん抱えているはずです。それが具体的に何であるか、については、日々の生活の中で一つひとつ気づかせて戴きましょう。そして、「あなたたち」とあるところを、「わたしたち」、いえ、できれば「わたし」と読み替えて、神の言葉を受け止めることに致しましょう。それを現実のものにすることで、それは真に神の言葉であったことが分かります。
 
わたしはこのことを、わたしと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。



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